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第2話

アンナは熱を帯び始めた『規約第0条』の羊皮紙を握りしめ、目の前のミストを見つめた。彼の周囲を渦巻く不安げな色の霧は、ギルドの薄暗い照明の下でも鮮明で、助けを求めるように揺らめいていた。


「言葉の色が、消えるのですか?」

アンナの声は、自分でも驚くほど落ち着いていた。


ミストは力なく頷いた。彼の声は遠くの鈴の音のように途切れがちだ。


「はい、アンナ様。私たちの言葉、想いの全てが色となって現れます。喜びは太陽のように輝く金色、悲しみは深い海の藍色。ですが最近、その色が薄れ、ただの淀んだ灰色になってしまうのです。まるで心が死んでしまったかのように……」


「それは大変な事態ですわね」

隣のカウンターから、リーフが心配そうに声をかけた。エルフの血を引く彼は、七種族の言語と文化に精通した通訳官で、アンナの数少ない理解者だ。


「ミスト様、まずは落ち着いてください。奥の相談ブースで詳しいお話を伺いましょう。私でよければ、お力になります」


小会議室に通されたミストは、リーフの誘導で少しずつ落ち着きを取り戻し、村の状況を語り始めた。その言葉は切実で、アンナの胸を締め付けた。


「私たちの村では、大切な約束や契約も、全て『色の誓い』として交わします。その誓いの色が鮮やかであればあるほど、約束は固く、破られることはありません。しかし色が薄れると、誓いの力も弱まります。村中が大混乱に陥り、互いを信じられなくなっています。まるで世界の彩りが失われていくようです」


リーフは深刻な顔で頷いた。

「霧人族の社会は、色彩言語と感情エネルギーの共有によって成り立っていますからね。それが失われれば、社会構造そのものが崩壊しかねません。これは単なる文化の問題ではなく、彼らの存亡に関わる危機です」


アンナは黙って聞いていた。彼女の頭では、ミストの言葉とギルドの紋章が暗く変色した光景が不穏な形で結びついていた。そして何より気になるのは、『規約第0条』の羊皮紙が、ミストの話を聞くにつれてますます強く七色の輝きを増していることだった。


(この輝きは何を示しているの?ミストさんの話と関係があるの?この羊皮紙は私に何をさせようとしているの?)


「それで、ギルドにはどのようなご要請を?」リーフが穏やかに尋ねた。


「どうか、私たちの村を調査してください。何が起きているのか、どうすれば色を取り戻せるのか、その手掛かりだけでも掴みたいのです。このままでは、私たちの村は……私たちの心は、本当に灰色になってしまいます!」

ミストは懇願するように言った。その瞳は潤み、周囲の霧は悲しみの色を濃くしていた。


アンナは胸が締め付けられた。何とかしてあげたい。この種族の悲痛な叫びに応えたい。でも、ギルドの厳格な規則では、このような前例のない案件は……。


案の定、上級調停官マーカスの執務室にミストの案件を持ち込むと、彼は眉一つ動かさず首を横に振った。その姿は氷の彫像のように冷たく、感情を寄せ付けない。


「そのような案件は受理できない。前例がないし、規則にも合致しない」

マーカスの言葉は鋼のように冷たく、アンナの心に突き刺さった。


「ですが、マーカス様、これは霧人族にとって死活問題です!彼らの文化そのものが失われかけているのです!それを見過ごすのが、本当に『虹の架け橋』ギルドのやり方なのでしょうか!」

アンナは思わず声を荒げた。普段のおっとりした彼女からは想像もつかない剣幕に、マーカスは僅かに眉を上げたが、表情は変わらない。


彼は鋭い視線でアンナを一瞥した。

「規約第56条に明記されている通り、『調停対象は物理的に証明可能な事象に限る』。色が薄れるというのは、あくまで主観的なものだ。ギルドが介入する根拠がない。感情論で規則を曲げることは許されない」


「でも、第47条では『各種族固有の認識方法を尊重すべし』と明確に記されています!霧人族にとって、色は物理的な事象と同等以上に重要なのです!それを無視するなら、この条文は何のためにあるのですか!」


アンナは手にしていた『規約第0条』の羊皮紙を強く握りしめた。その瞬間、羊皮紙がふわりと温かくなったような気がした。そしてマーカスの言葉が、彼女には空虚に、何かを隠しているように響いた。


マーカスはアンナの手元の羊皮紙に一瞬、意味ありげな視線を走らせた。その視線は古い傷跡を確かめるかのようだった。しかしすぐに表情を消し、冷ややかに言い放った。


「君はまた規則を都合よく解釈しているようだな。その案件は却下だ。これ以上、時間の無駄だ。持ち場に戻りなさい。そして、余計な詮索はしないことだ」


執務室を追い出されたアンナは、悔しさと無力感で唇を噛み締めた。廊下の冷たい石壁が、彼女の心境を映しているようだった。


(やっぱりダメだった。私には何もできないの?このギルドは、本当に誰かの助けになる場所なのかしら……)


その時、ふと誰かの気配を感じた。振り返ると、少し離れた廊下の柱の陰から、リーフが心配そうに見つめていた。その表情には同情と、何かを決意したような色が浮かんでいた。


「アンナさん、大丈夫かい?」リーフは静かに近づいてきた。

「あなたの解釈は決して間違っていないと思うよ。それに、あなたの言葉はとても力強かった。でも最近のギルド上層部は、特にマーカス様は以前にも増して規則に厳格なんだ。まるで何かを恐れているかのようにね」


「リーフさん……」アンナの声は掠れていた。


「何か理由があるのかもしれないけどね」リーフは意味ありげに呟き、声を潜めた。

「そうだ、気分転換にギルド図書室へ行かないかい?何かヒントが見つかるかもしれない。それに、君にしか話せない大切な話があるんだ」



ギルド図書室は、アンナにとって古文書室と並ぶ安らぎの場所だった。高い天井まで続く書架には、古今東西の知識が眠っている。リーフと二人で霧人族の文化や古代の盟約に関する資料を探していると、不意にアンナの足元に埃をかぶった分厚い本が棚から滑り落ちてきた。それはまるで意志を持つかのように、アンナの足元に正確に着地した。革装丁の、タイトルもない無地の本だった。


「きゃっ!」アンナは小さく声を上げた。

「おっと、大丈夫かい?何か落ちてきたようだね」リーフが手を差し伸べる。


アンナがその本を拾い上げ、表紙に触れた瞬間、彼女の脳裏に、フラッシュバックのように眩い七色の光と荘厳な音楽のような何かが流れ込んできた。それは懐かしく、どこか物悲しい調べだった。


「うっ……!」アンナは目眩を覚えてよろめき、リーフの腕に支えられた。

「アンナさん、顔色が悪いよ!どうしたんだい!?」リーフの声が遠くに聞こえる。

「だ、大丈夫です……ただ、この本が……何か……」


アンナが本のページをめくろうとした、その時だった。


「――そこで何をしている?受付嬢と通訳官が、許可なく図書室の奥で密談とは、感心せんな」


背後から低い声が響いた。グランだった。だが、いつものぶっきらぼうな彼とは違い、表情は見たこともないほど険しく、アンナの手元の本を射抜くように凝視していた。その目には驚きと、信じられないものを見るような色が浮かんでいた。


「グ、グランさん……これは落ちてきた本を拾っただけで……何も怪しいことは……」

アンナは狼狽した。


グランはアンナの言葉を遮り、震える声で尋ねた。その声には抑えきれない興奮と、長年待ち望んだ瞬間への畏怖が混じっていた。


「小娘……お前、その本に何か感じるのか?正直に言え」


アンナは戸惑いながらも頷いた。

「はい……触れた瞬間、眩しい光と音楽のようなものが頭の中に……とても懐かしいような……」


グランの目が大きく見開かれた。そして彼の目にはうっすらと涙が浮かんでいるように見えた。まるで長年待ち望んだ何かが、ついに訪れたことを確信したかのように。


「まさか……お前が……?七十年……いや、もっと前から……我らの一族は、この時を待ち続けていたのだ……」


グランはアンナの手を力強く掴んだ。その手はいつものようにごつごつとしていたが、今は確かな熱を帯びていた。その熱はアンナの心にも伝わってくるようだった。


彼はアンナの耳元で、失われた秘密を打ち明けるかのように、厳かに、そしてどこか誇らしげに囁いた。


「『言霊の継承者』よ……ついに、その時が来たのかもしれん……お前さんの本当の仕事が、始まる時がな」


アンナは、グランの言葉の意味も、自分の身に何が起ころうとしているのかも、まだ理解できずにいた。


ただ、手のひらの中の『規約第0条』の羊皮紙と、拾い上げた謎の古書が、生きているかのように熱く、力強く脈打っているのを感じるだけだった。


七色の光が、彼女の未来を、そしてこの世界の運命を、照らし始めているかのように。


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