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第9話

「私の計画の完成を見届け、永遠にこの迷宮を彷徨うがいい。お前たちの希望と共に」


ヴィクター・レギウスの亡霊の冷酷な言葉が迷宮に響き渡った。『規則改変書』からはおびただしい『黒い糸』が伸び、壁を覆い尽くし、蠢いていた。歪められた規則の呪縛、絶望の具現、そしてヴィクターの力の源だった。


「小娘、お前ごときに何ができる?この私が築き上げた『完璧な秩序』を、感情に流されるばかりの虫けらが!」


亡霊が手をかざすと、黒い糸が鋭い槍のようにアンナたちに襲いかかった。触れるだけで精神を蝕む邪悪な気をまとい、空間を切り裂くような勢いだ。


「アンナ、危ない!」


グランがアンナを突き飛ばし、盾で黒い糸を受け止める。しかし、その勢いは凄まじく、盾に亀裂が入り、彼も片膝をついた。「ぐっ……この力……以前とは比べ物にならん!」


「グランさん!」アンナの悲鳴が響く。


リーフが魔法の矢を連続で放つが、黒い糸はそれを容易く絡め取り、霧散させた。「くっ、僕の矢が通じないなんて!これほどの負のエネルギーとは!」


「無駄だ!お前たちの力など、この『規則の網』の前では無力だ!この迷宮は私の精神そのもの。ここでは私が法であり、私こそが秩序なのだ!」


亡霊の乾いた笑い声がアンナの心に絶望の種を蒔き付けた。底なしの闇のようだった。


(ダメ……強すぎる!私たちの力では、どうしようもできない……グランさんも、リーフさんも、傷ついていく……私のせいで!)


アンナは自身が持つ四つの鍵の力を必死に手繰り寄せようとした。 鍵たちは確かに彼女が身につけている場所で、微かに輝き応えようとしている。しかし、その輝きも黒い糸の闇の前ではか弱く見えた。嵐の前の灯火のように。


彼女の『規則共鳴』の能力も逆効果だった。歪んだ規則の奔流が彼女の頭に流れ込み、苦痛と混乱を与える。無数の悪意ある声が脳内で囁き、正気を奪おうとしているようだった。


「うっ……頭が……割れそう……息が……できない!」


アンナは膝をついた。視界が歪み、意識が遠のく。手足の感覚が消えていく。冷たい水に沈むように。


「アンナ!」リーフが叫ぶ。彼は傷つきながらも駆け寄ろうとするが、黒い糸が阻む。


「小娘!しっかりしろ!お前が諦めてどうするんじゃ!お前が、最後の希望なんじゃぞ!」グランも片膝をついたまま叫ぶ。


だが、アンナの耳には彼らの声が届かない。心は過去のトラウマ――両親を種族対立の中で失った時の絶望感――に引き戻されようとしていた。あの時も、自分は何もできなかった。ただ泣き叫ぶことしか。


(やっぱり私には何もできない……大切なものを、また失ってしまう……守りたいのに、守れない……こんな力、何の意味もなかった……)


涙が溢れ、視界が滲む。もう立ち上がる力も、希望を持つ気力も残っていないように感じられた。



その時、胸元の『規約第0条』の羊皮紙が温かい光を放ち始めた。これまでとは比べられないほど強く、清らかで、何よりも優しい光。暗闇の中の一筋の灯火のように、アンナの心を照らし始めた。


そして、心の中に語りかける声が響いた。特定の誰かの声ではない。グランの厳しさの奥の優しさ、リーフの知性と友情、マーカスの正義感、ミストの信頼、ネクタル長老の賢明さ、エルウィン長老の期待――これまで出会った人々の「想い」が一つになったような温かい響き。その奥に両親の声も聞こえるようだった。


《諦めないで、アンナ。あなたの言葉を、あなたの心を、待っている人たちがいるのよ……》


《本当の力は、規則の形ではなく、そこに込められた『心』にある。あなたはその心を持っている……》


《思い出して、アンナ。あなたが本当に守りたいものは何?その想いこそが、あなたの本当の力……決して、一人ではないのだから……》


ハッと、アンナは顔を上げた。涙で濡れた頬を光の雫が伝う。虹の欠片のようだった。


(私が……守りたいもの……?)


脳裏に浮かぶのは、ミストの霧、ネクタル長老の真実の味、エルウィン長老の期待、そして自分を支えてくれたグランとリーフ、マーカスの顔。彼らの笑顔。彼らの未来。そして、まだ見ぬ多くの人々の平和な日常。


(そうだ……私は、みんなの笑顔を守りたい。種族が違っても、言葉が違っても、心で繋がり合える世界を……その可能性を信じたい!ヴィクターのような、力で支配する世界ではなく!)


心の底から湧き上がる熱い想い。恐怖や絶望を打ち消すほど強く、純粋だった。彼女自身の魂の叫びであり、生きてきた証だった。


アンナはゆっくりと立ち上がった。瞳には迷いがない。あるのは揺るぎない決意と深い慈愛の光。


「ヴィクター・レギウス……あなたの『完璧な秩序』は、ただの支配でしかない。あなたの論理は、誰の心も救えない。本当の調和は、力で縛り付けることじゃない!」


アンナの声はまだ震えていたが、確かな意志と静けさが宿っていた。迷宮の隅々まで響き渡った。


「それは……それぞれの『真実』を尊重し、互いの『心』で通じ合うことから生まれるもの!あなたが否定した多様性の中にこそ、本当の強さがある!そして、その心を結ぶのが、私たちの『言葉』なの!」


その叫びと共に、『規約第0条』と四つの鍵が七色の光を放った。その光はアンナを包み込み、髪や瞳までも虹色に染めた。


彼女自身が『第0条』の化身となり、七つの『言葉の力』の器となったかのよう。彼女の存在そのものが希望の光となった。


「な……なんだ、その力は!?ありえない……ただの受付嬢が!私の計算にはなかった力だ!」ヴィクターの亡霊が狼狽した。黒い糸が揺らぎ、力が弱まっているのを感じる。


アンナは亡霊を見据えた。彼女にはもう黒い糸は見えていなかった。代わりに迷宮全体に、ギルド全体に、世界全体に、無数の人々の『心』が色とりどりの光の糸として結びつき、織り成されているのが見えた。その中には、ヴィクターの呪縛で歪んだり途切れたりしている糸もある。


(これが本当の『絆の網』……!私の役目は、この糸を正しく紡ぎ直し、調和させること!)


アンナは深く息を吸い込み、心からの『願い』を込めて、歌うように、祈るように言葉を紡いだ。特定の言語ではなかったが、その清らかな響きは迷宮にいる全員だけでなく、ギルド本部の人々、遠く離れた各種族の魂にも語りかけ、眠っていた善なる心を呼び覚ましていくようだった。


それは『第0条』に秘められた真の『調和の言霊』。魂同士を結びつけ、癒し、高め合う聖なる響き。迷宮の壁に反響し、増幅されていく。


アンナの言葉が響き渡るにつれ、迷宮の『黒い糸』が朝日に溶ける霧のように消え始めた。ヴィクターの亡霊は苦悶の声を上げ、その姿が薄れていく。彼の力がアンナの純粋な『願いの力』によって中和されていくのだ。


「馬鹿な……私の秩序が……私の完璧な論理が……こんな感情ごときに打ち破られるというのか!認めん!」


「いいえ!」アンナは静かに、しかし確信を込めて言った。「これは感情じゃない。これは、生きとし生けるもの全ての『魂の調和』よ!あなたが失ってしまった、最も大切な力!そして、これから私たちが取り戻す、未来の力!」


ついにヴィクターの亡霊は断末魔の叫びと共に消滅した。『規則改変書』もその邪悪な力を失い、ただの古い本へと変わり、ページが崩れ落ち、塵となって消えた。


迷宮の壁の黒い文字は消え、代わりに七色の柔らかな光が満ち溢れた。夜明けの光のようであり、新しい世界の始まりを告げているかのようだった。


「やったのか……アンナ……」

グランが誇らしげに呟いた。その目には熱いものが浮かんでいた。


リーフは涙を浮かべてアンナを見つめていた。

「なんて美しい響き……これが本当の『言葉の力』……そして、アンナさんの魂の輝き……」


アンナはそっと微笑んだ。全身の力は使い果たしたようだったが、心は不思議なほど穏やかで満たされていた。しかし、表情はすぐに引き締まった。


「まだ終わりじゃありません。この迷宮は大調停広場に繋がっているはず。本当の戦いはこれから!レオン筆頭調停官を止めなければ、ギルドは……世界は!」


彼女の言葉に呼応するように、迷宮の奥の壁が開き、眩い光と共に大調停広場へと続く道が現れた。その奥からはレオン筆頭調停官の冷徹な声が聞こえてきた。


「――これより、ギルド『虹の架け橋』の未来を決定する、最終規則改正案の採決を開始する!反対意見は認めない!」


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