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第10話

光の通路を駆け抜け、アンナ、グラン、リーフの三人が大調停広場に飛び込むと、冷たい威圧感が満ちていた。レオン筆頭調停官の背後には、ヴィクターの亡霊が消えた今も、歪んだ規則の残滓が黒いオーラのように揺らめいている。


広場中央の七角形の演壇周囲を、七大種族の代表者たちが固唾を飲んで見守っていた。演壇上では、冷徹な表情のレオンが分厚い『最終規則改正案』を掲げ、アンナにはそこから黒い糸が伸びているのが見えた。


「よって、本改正案の採択を宣言する! これぞ、ギルドの新たなる秩序の始まりである!」


レオンの声が響き渡ろうとした瞬間だった。


「お待ちください、レオン筆頭調停官! その改正案は、真の調和をもたらすものではありませんわ!」


アンナの澄んだ声が宣言を遮った。突如現れた三人に全ての視線が注がれる。


レオンは眉をひそめた。


「アンナ君……まだそのような無駄な抵抗を。そして、マーカス、貴様もか。衛兵、この者たちを捕らえなさい! ギルドの秩序を乱す者は、即刻排除する!」


衛兵たちが動こうとする前に、マーカスが立ちはだかった。彼の背後には、アンナの言葉やマーカスの説得に心を動かされた者たちが、固い決意を秘めて続いていた。


「レオン殿、採決の前に、我々にも発言の機会をいただきたい。これは、ギルドの未来に関わる重要なことだ。そしてあなた自身の未来にも」マーカスの声には、真実を求める強い意志が込められていた。


「何を言うか、マーカス。貴様も反逆者の一味に成り下がったか!」レオンの声に焦りと怒気がこもる。


「反逆者ではありません」


アンナは一歩前に出た。小柄な姿からは想像もつかないほどの強い意志と、迷宮での覚醒を経た神聖なオーラが放たれていた。


「私たちは、このギルド『虹の架け橋』の本当の姿を取り戻したいだけなのです! ヴィクター・レギウスが歪めた偽りの秩序ではなく! あなたが信じているその規則も、彼の呪縛の一部なのですわ、レオン様!」


アンナは広場中央で『規約第0条』の羊皮紙を高く掲げた。それは今も清らかで力強い七色の輝きを放ち、広場の隅々まで届いていた。


「皆さん、どうか聞いてください! このギルドの創設者、七賢人たちが遺した本当の始まりの言葉を! 私たちが取り戻すべき真実の約束を! そして、レオン様、あなた自身が失ってしまったかもしれない、大切な心を!」


アンナは迷宮で得た力を込めて、『第0条』の一節を祈るように紡ぎ始めた。不思議なことに、その言葉は全ての種族の心に、それぞれの母語として届いていった。


「本ギルドは、七種族それぞれの『真実』を尊重し、いかなる規則もそれらの『調和』を乱すことがあってはならない……!」


アンナの声に呼応し、彼女が持つ四つの『言葉の鍵』――首元で輝く小さな竪琴のチャーム、ポーチに収めた星影の水晶レンズ、ベルトに下げた言祝ぎの蜜酒の小瓶、そしてポケットに忍ばせた記憶の刻印石――が一斉に強い輝きを放った。その光は、広場にいる各種族の代表者たちの胸元にも呼応するように、それぞれの魂の色の光を灯らせ始めた。


「馬鹿な……ただの理想論のはずだ……そんなもので、何が変わるというのだ! 私の絶望を、お前のような小娘に何が分かる!」


レオンの周囲の空気が、冷たく重いものに変わり始めた。他者を支配しようとする歪んだ力の残滓だった。


「それは、あなたが『言葉の力』を、そして人々の『心』を信じないからです!」

アンナはレオンを真っ直ぐに見据えた。


「規則は文字だけではありません。そこに込められた想い、それを受け取る心がなければ、ただの枷にしかなりません! あなたが作ろうとしているのは、魂のない人形たちが踊る偽りの楽園です!」


アンナは広場の代表たちに語りかけた。その声は人々の心を優しく揺さぶった。


「皆さん、どうか思い出してください! あなた方の種族が持つ素晴らしい『言葉の力』を! 人間族の『聴く力』は真実の響きを捉え、エルフ族の『見る力』は隠された模様を明らかにし、ドワーフ族の『触れる力』は石に刻まれた記憶を呼び覚まします! 霧人族の『彩る力』は感情を鮮やかに伝え、花蜜族の『味わう力』は言葉の真偽を教えてくれます! そして、まだ見ぬ竜人族と影族の力も、この世界の調和に必要な宝なのです! その力を、どうか私に貸してください!」


アンナの言葉は、確かな信念と世界への深い愛情に裏打ちされた『言霊の継承者』としての呼びかけだった。


広場の代表たちの心に灯った光が強まり、アンナの呼びかけに応えようとする意志が空間を満たしていく。



まず、アンナはベルトに下げた『言祝ぎの蜜酒』の小瓶に意識を集中した。蜜酒から立ち昇る清浄な芳香が、彼女自身の言葉に疑いようのない真実の響きと、人々の心に染み渡る力を与えていく。


それと同時に、アンナは自らの内に秘めた『聴く力』をマーカスへと繋いだ。マーカスは、アンナから流れ込む純粋な力を感じ取り、まるでそこに『調律の竪琴』の幻影が現れたかのように、その清らかな音色で、広場にいる者たちの心を一つに束ねていく。


グランもまた、アンナの『触れる力』の奔流を受け止め、長年培ってきたドワーフとしての知恵と経験をもって、『記憶の刻印石』に込められた大地の記憶を呼び覚まし、ヴィクターの歪みに汚染されたギルドの礎を浄化しようと試みる。


一方、リーフはエルウィン長老の言葉を胸に、『星影の水晶レンズ』を静かに構えた。アンナの力に頼らずとも、彼自身の内に眠るエルフの血と人間としての知性がレンズと共鳴し、ヴィクターの呪縛が生み出す偽りのパターンを見抜き、その輝きで打ち消していく。



四つの異なる力が、しかし一つの明確な意志――真の調和を願うアンナの意志――の下に、それぞれの役割を果たし始めた。それらの力がアンナを中心に渦を巻き、大調停広場の天井の虹へと突き抜けた。虹は強い輝きを放ち、七色の光が広場全体に降り注いだ。


「ぐ……おおおおっ! この光は……温かい……!」


レオンは膝をついた。彼を覆っていた冷たいオーラが霧散し、憎しみと絶望の色が消えていった。


「これが……本当の……『調和』……私が忘れていたもの……」


光が収まると、広場は清浄で温かい空気に満たされていた。天井の虹は鮮やかに輝き、ギルドが生まれ変わったかのようだった。


代表者たちの顔には、もう不信や敵意はなかった。驚きと感動、そして新たな始まりへの期待が満ちていた。言葉でなく心で理解し合えた一体感が広場を包んでいた。


マーカスがレオンに手を差し伸べた。


「レオン殿、君もヴィクターの『言葉の呪い』の犠牲者だったのだろう。だが、まだやり直せる。我々と共に、真の『虹の架け橋』を築こうではないか」


レオンは手をしばらく見つめた後、頷いた。


「……私に、その資格があるのだろうか……」初めて彼は人間らしい弱さを見せた。



ギルド『虹の架け橋』はその日、真の意味で生まれ変わった。『規約第0条』はギルドの最も重要な理念として再び掲げられた。アンナは『第0条研究室』の室長兼『互助課』のリーダーとして、各種族間の真の調和を築く新たな一歩を踏み出した。彼女は今や『真の調停者』『言霊の乙女』と呼ばれていた。


彼女の隣には、グラン、リーフ、マーカスが頼れる仲間として立ち、ミストも定期的に訪れてギルドと霧人族の新たな関係を築いていた。レオンもギルドの再生に力を貸すことを誓った。




数日後。アンナは新しくなった受付カウンターで、重要な案件でしかギルドを訪れないとされる竜人族の高位の使者と思われる人物を迎えていた。


「我らが族長があなたに会いたがっている。『古き竜の言葉の鍵』と、我らが種族に迫る『響きの歪み』について話があるそうだ。力を貸してはいただけまいか、『第0条の守護者』殿」


アンナは微笑んで頷いた。彼女の丸眼鏡の奥の瞳は、自信と好奇心で輝いていた。


窓の外を見ると、虹見の丘の空に不思議な『空間の揺らぎ』が見えた。それは世界の楽譜に現れた不協和音のようでもあり、未知なる旋律の始まりのようでもあった。


(まだ、この世界には謎がたくさんあるのね……私の『言葉の力』が本当に試されるのはこれからかもしれない。でも一人じゃない。大切な仲間たちと、この『第0条』と共に、乗り越えていけるはず)


アンナは竜人族の使者に優しく語りかけた。


「ようこそ、『虹の架け橋』へ。お話をお聞かせください。私たちにできることがあれば、全力でお手伝いしますわ」


彼女の『第0条の守護者』としての物語は、まだ始まったばかりだった。


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