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第17話 キスするぞ

心なんてとっくに麻痺してると思ってたけど――

この光景を目にした瞬間、思わず心が抉られた。

少なくとも、彼がこんなに情熱的にキスをしてくれたことなんて一度もなかったから。


薔薇の花を手にした男が通り過ぎるのを見てようやく気づいた。

ああ、今日はバレンタインデーなんだって。

この二人もきっとデートってわけね。


でもさ、昔の彼は、こういう特別な日なんて絶対に覚えてなかった。

なのに、私は馬鹿みたいに「きっと誠実なんだ」なんて言い聞かせて、こんな男こそ結婚相手に相応しいなんて信じてた。

……馬鹿だった。本当にね。


そしてこの二人、どこであろうとお構いなしにイチャつくのが、なんとも言えないくらい気持ち悪い。


「おやおや、これは佐藤先生じゃないですか?偶然ですね。浮気相手と一緒にバレンタインデートですか?」

結衣の一言で視線が集まり、周囲の人々が一斉にこちらを見始めた。


くっついていた二人の唇がようやく離れ、悠人がぎこちなく振り返る。

その視線が、数メートル先に立っている、彼の正式な妻――私に向けられた。


「洋子?」

悠人の腕の中から深田美智子が顔を覗かせ、驚いたような声を上げた。


ああ、驚くのも無理はない。

昔の私は、おしゃれなんてしなかったし、服も地味だった。

どんなに古びた服でも、破れていなければ捨てずに着続けていた。

それでも本当は新しい服を買いたいし、もっときれいになりたかった。

ただ、生活が厳しいのをわかっていたから、無理して節約していたんだ。


――その結果が、この裏切り。笑えるでしょ?


今日は結衣に全身をプロデュースされて、鏡に映った自分でさえ誰かわからないくらいだったんだもの。

今さら私を見下していた彼らが驚くのも当然よね。


「さすが佐藤先生、目が利きますね。愛人もなかなか可愛い。“量産型”の顔ですね。」

結衣の皮肉たっぷりな一言に、深田美智子の顔が青ざめ、悠人の顔も曇っていく。


「洋子、仕事も失って、こんなところで遊ぶお金があるなんてね。母親のこと、もう放り出すつもりなんでしょ?」

深田美智子は、結衣が手強いと悟ったのか、私に矛先を向けてきた。


母のことを持ち出されて胸が痛んだ。

けれども、結衣は何も言わずに一歩前に進み、深田美智子に向かって行こうとした。


やばい、これ殴る気だ。

私は慌てて彼女を引き止めた。


殴りたい気持ちはわかるけど、もうすでに周囲に見物人が増えてる。

これ以上騒ぎを大きくしたら、私たちの方が悪く見られかねない。


結衣は私の意図を汲み取ってくれたのか、それ以上進まず、腕を組みながら鋭い目つきで深田美智子を上から下まで見つめた。


「ねえ、“愛人さん”。一発で【有名】になる方法って知ってる?」


突然の一言に、深田美智子はきょとんとした顔をし、私も一瞬何を言うのかと思った。


結衣の視線が彼女の腹に向けられる。そして、口元に皮肉な笑みを浮かべた。


「そのお腹が大きくなったり、子供を引き連れて結婚するとき――あなたは一発で有名になるのよ。それが“一発で【有名】になる”ってこと。」


結衣の言葉が理解できないのか、深田美智子は呆然としたままだった。

しかし、周囲から失笑が漏れ始めると、ようやく気づいたようで、顔が青くなったり白くなったりした。


その後、再び私を攻撃してきた。


「それがどうしたの?悠人は私と結婚したがってるし、子供も望んでる。洋子、あなたこそ笑えるわね。こんな格好でここに来て、一体誰を誘惑するつもり?あなたみたいな人、誰も相手にしないわよ。」


――そこまで言われたら黙ってられない。


「確かにね、昔は誘惑したい馬鹿な人が一人いたけど、今その馬鹿は別の馬鹿に引き継がれたね。」


私がそう言うと、結衣がニヤリと笑いながら親指を立てた。


悠人は顔を真っ赤にして、言葉も出ない。


深田美智子は、自分の言葉を利用されて悠人まで侮辱されたことに気づき、慌てて悠人の腕にしがみついた。


「悠人、聞いた?こんなに酷いこと言うのよ。昔の優しさなんて全部演技だったんだから!」


私は冷笑し、軽く肩をすくめて言った。

「私、優しいフリなんてしないわよ。もし私の言葉があなたを傷つけたなら、それはわざとよ。」


その言葉を聞いて、結衣が小さく笑いながら壁に寄りかかった。

どうやら、私がこの二人に十分対処できると信じてくれたみたいだ。


その時ふと思い付いて、軽く微笑みながら悠人の前まで歩み寄った。


「洋子、何をするつもり?」


深田美智子が怯えたように悠人を引き寄せる。


私は悠人のスーツポケットにガムを一枚押し込み、無表情のまま囁いた。

「キスの前に噛んでみたら?女性への最低限のマナーよ。」


――悠人の顔が引きつる。


そして私は振り返り、彼らを背にして去ろうとしたその時――


背後から強引に腕が伸びてきて、壁に押し付けられる。


「もう噛んだ。」


桐生宗介の低い声が、私の耳元で囁いた。


「準備はいいか?……キスするぞ。」

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