空が落ちてきそうなほど低く、重く、そして澱んでいた。灰色の雲がぎゅうぎゅうに押し合い、光を押し留めたような午後五時、街全体が静まり返るような気配の中、僕――翔太郎は、ため息を飲み込んだ。
「なんでこうなるんだろうな……」
声に出すほどの不満でもなかった。ただ、夕暮れの商店街で、人通りが薄れゆく中、自分の存在が浮いているような心持ちになって、そんな言葉が口から零れた。
隣を歩く璃桜は、その言葉にすぐ反応を返すことなく、少しだけ視線を落としてから、静かに言った。
「翔太郎は、"なんで"って言うけど……。ほんとは自分で原因わかってるでしょ?」
「……え?」
「今日、放課後にあんなに時間潰したのは、駅前のミスドじゃなくて……わざとだよね?」
図星だった。璃桜の言葉が喉元に刺さる。いつもそうだ。彼女は、僕が言わなかった感情を、まるで観測するみたいに拾ってしまう。
「いや、あれは……だって、あの神社の裏道、通りたくなかったから……」
「で、避けようとしたら迷ったってわけ?」
璃桜は口角だけを少し動かして笑う。でもその表情には、揶揄の色はなかった。単に確認するように、僕の言い訳を並べただけだ。
僕たちは、駅前の繁華街を外れて、住宅街の細い路地に入っていた。中学の頃に、遠足の帰り道で一度通ったきりの裏通り。いまでは雑草に埋もれ、舗装も所々割れ、通る人もいない。夕暮れ時に歩くには、少しだけ心細い。
「でも、方向感覚だけは信じてたんだよ、俺は……」
「……信じるなら、スマホ使えばよかったのにね」
「……いや、それは……バッテリーが……」
「満タンだったの、知ってるよ?」
うっ、と詰まる。やっぱり、璃桜には敵わない。
僕が歩を止めたのと、璃桜が小さく息を飲んだのは、ほぼ同時だった。
目の前に、それはあった。
住宅の並びが突然途切れ、崩れかけた石段が現れた。その上には、朽ちた鳥居と、苔に覆われた石灯籠、そして誰も近づいていないことが一目でわかる小さな神社の建物。
「……この場所、昔からあったっけ?」
「たぶん……いや、見たことない……」
神社に詳しいわけじゃない。でも、こんな道を通った覚えが一度でもあるなら、確実に記憶に残っていたはずだ。異様な雰囲気だった。空気がひやりとして、周囲の音が、まるで吸い込まれていくように静かだった。
「戻ろう。変な感じがする」
璃桜が言ったその瞬間。
ごぉん、と重い風の音が鳴った。
風ではない。低いうなり声のような、地の底から這い上がる音。その瞬間、鳥居の向こう――神社の建物の脇に、黒い穴のようなものが、ぬっと現れた。
「あれ……ドア?」
「違う……なんか、空間が……歪んでる?」
翔太郎の足がすくんだ。璃桜は反射的に一歩引き、彼の腕を掴んだ。
そのときだった。
翔太郎の視界の端に、小さな影が映った。白くて、揺らいでいて……まるで、毛糸玉のような丸い生き物が、彼の足元をすり抜けた。
「い、今、何か……」
「見えた?」
璃桜の声が震えていた。翔太郎は頷きながら、神社の奥の黒い“穴”に、無意識のまま手を伸ばしていた。
触れた瞬間――視界が、裏返った。
目の前の景色がぱきり、と音を立てて割れた気がした。まるで、ガラス越しの世界を覗いていたのが、急に直接触れるようになった感覚。世界が、ひとつ、増えたのだ。
鳥の羽音が聞こえた。
……違う。羽じゃない。骨と皮だけの何かが、空をすり抜けていた。ビルの間に大きな目玉が浮かび、道路の隅では、歯車の脚を持つ猫が歩いていた。
「なにこれ……!」
璃桜が叫んだ。でも、その叫びも、どこか遠く感じられる。翔太郎の意識は、景色に吸い込まれていた。
アニマだ。
言葉にならないけれど、そう確信した。目に見えるはずのない“存在たち”。それが今、街のあちこちに溢れている。
すべては――神社の奥にあった“あの穴”に触れたせいだ。
世界のルールが、音もなく変わってしまった。
鳥居の下で立ち尽くす翔太郎の腕を、璃桜の指が強く握っていた。
「……戻ろう。今すぐ」
璃桜の声は、理性で無理やり抑え込んだ恐怖の膜に包まれていた。彼女の目もまた、異形の存在を捉えていたのだ。あの歯車猫や、空に漂う目玉、電柱の影から背骨だけで立ち上がるようなものたちを。
だが、翔太郎はその場から動けなかった。
恐怖とは違う。頭の中に、何かを「知った」感覚が残っていた。まるで、世界がずっと嘘をついていて、それに気づいてしまったような。
それは、少年にとっては呪いにも似た好奇心だった。
「……これって、もしかして」
「……観測者になったのかもね」
璃桜の声が、少し震えていた。
「見えてはいけないものを、見てしまった。触れちゃいけない扉を……」
「でもさ。見えたってだけで、何か変わるのか?」
言いながら翔太郎は振り返る。確かに――街はいつもの街だった。アーケードのネオン、通り過ぎる人影、コンビニの明かり。
でも、その隙間に、いた。
誰にも気づかれず、誰にも触れられず、空間に溶け込むように“アニマ”たちがうごめいている。ふわふわと浮かぶ花のような小さな生き物。骨だけの蝶。頭が3つあるカラス。傘の柄にぶら下がる目玉。
「……今まで、こんな世界で暮らしてたのか、俺たち」
「きっと、みんな知らなかっただけ。でも、もう私たちは……見える」
璃桜の言葉に、翔太郎はただ頷くしかなかった。
そのまま、二人は神社の階段を駆け降りた。重く垂れ込めていた空は、いつの間にか夜の気配を帯びていた。街灯がぽつりぽつりと灯り、道の端では、ひときわ小さな“アニマ”がコンビニのチラシを読んでいた。
自転車置き場の脇では、新聞紙でできた蛇が、くるくると回って踊っていた。
「……あれ、どう考えてもおかしいだろ」
「翔太郎、声に出さないで」
「いや、無理だろ。あれ、“週刊チャンピオン”を音読してるぞ……!?」
璃桜は何も言わず、彼の手首を引いた。そのまま駅前まで走り抜けた。
自宅に帰り、部屋のドアを閉めたとき、ようやく翔太郎は腰から崩れ落ちた。
息が、浅い。
頭が、ぐるぐるしている。
だが、夢ではない。あれは、現実だった。
机の上に置いたカバンのチャックが、ゆっくりと開いた。
「……っ!?」
中から、くしゃくしゃになったプリントが浮かび上がった。まるで自分の意志を持ったように、ふよふよと空中を舞う。
そして、文字が空中に浮かび始めた。
【翔太郎へ 見たね? ようこそ、観測者へ】
翔太郎は絶句した。喉が詰まり、汗が背中を伝った。
けれど――そのとき、不思議なことに、恐怖よりも先に、妙な覚悟のようなものが浮かんできた。
これは、逃れられない。
そう思った。
“見えてしまった以上、戻ることはできない”。
「……なにこれ」
翔太郎は、浮かぶプリントの文字をじっと見つめた。文字が空中に滲んでゆき、再び別の文になった。
【“観測者”へ。君の目はもう、真実を避けられない】
「いや、そんなポエムみたいな言い回し……誰が書いてんだよ!」
すかさず突っ込んだが、部屋には翔太郎ひとりだけ。空中の文字は無言のまま、ふわりと宙を舞って消えていった。プリントはぺらりと床に落ち、ただの紙に戻ったように見えた。
翔太郎は、恐る恐るそれを拾い上げた。
「……普通の……プリント、だよな」
見た目はそうだった。日付とクラス、担任の赤ペン、雑なプリンターのインクのかすれ具合。全部が、当たり前の日常にあるものだった。
だが、確かに見た。さっき、空中に浮かび上がった文字を。
「やばいなこれ……もしかして、頭イッた……?」
頬を軽く叩いてみる。鈍い音が返ってくる。夢じゃない。
現実に、何かが起きていた。
そのとき、窓の外から「シャー!」という奇声が聞こえた。
「……猫? いや、違う、あれはたぶん猫じゃない……」
窓に近づいてそっとカーテンを開けると、電線の上で“それ”は踊っていた。
全身が蛍光灯のように光っていて、骨格はカマキリ、尻尾のようなコードが風になびいている。
「アニマ……だよな」
これが見えるのは、自分だけ。
そう思った瞬間、背筋がぞわりとした。
つまり、自分はもう、普通の世界にはいない。
どこかで切り替わった。誰も気づかないうちに、知らない“もの”が見える世界へと足を踏み入れていた。
ピロリン♪
突然、スマホが鳴った。液晶には「璃桜」の名前。
【通話中です】
「翔太郎、落ち着いてる?」
「全然」
「……だよね。私も」
璃桜の声はいつも通りの静かなトーンだが、その奥には張り詰めた緊張が透けていた。
「さっきから……周り、変だよ。街中に……変なものがいる。透明じゃない、はっきりと……輪郭が見える」
「俺も。さっき、プリントが空中に浮かんで文字出してきた」
「……本格的にバグってるね」
「お前は冷静すぎるだろ」
「混乱しても意味ないから」
璃桜はそれだけ言って、しばし黙った。
沈黙が続く中、ふと翔太郎は言った。
「なあ、明日、学校……行く?」
「行くよ」
即答だった。
「私たち、いま“見えてしまってる”けど……だからこそ、何が起きてるのか、ちゃんと調べないと。ほら、さっきのドア。あれ、まだ気になってるでしょ?」
図星だった。
「……あれ、もう一回……見に行くのか?」
「うん、でも一人じゃ危ない。だから……一緒に」
電話の向こうで、璃桜が小さく呼吸を整える音がした。
翔太郎は天井を見上げて、深く息を吐いた。
「……じゃあ、明日放課後。神社で」
「うん。気をつけてね」
通話が切れたあと、翔太郎は枕に顔を押しつけて叫んだ。
「なんでこんなことにぃぃぃ!」
その叫びに反応するかのように、棚の上の鉛筆立てから、ひときわキュートな“花の妖精”のようなアニマが、ちょこんと顔を出してこちらを見ていた。
翔太郎はもう、驚かなかった。
いや、驚きすぎて、感覚がバグってきていた。
翌朝、目覚めと同時に、翔太郎は思い出してしまった。
見たもの。聞いた声。感じた気配。あれは夢なんかじゃなく、間違いなく現実だった。
だが、カーテンを開けて差し込む朝の光は、妙に穏やかで、あまりにいつも通りで、まるで昨夜の異変など存在しなかったような空気を漂わせていた。
……いや、違う。いる。
電線の上に、まだ“カマキリ蛍光灯”がいた。しかも今朝は二体に増えて、なにやら上下運動でラジオ体操のようなことをしている。
「……朝から元気だな、お前ら」
乾いた声が漏れる。もはやツッコミすら習慣になりつつある自分に驚きながらも、制服に着替え、トーストをくわえて玄関を出た。
通学路。住宅街。コンビニ前。全部、いつも通り……に見えるが。
道端で、自販機の陰から覗いてくる毛玉。バス停のベンチに座る、顔がテレビになった存在。歩道橋の欄干に並ぶ、目が十個あるハト。
全部、誰にも気づかれていない。誰も見ていない。
「俺たち、やっぱおかしなもん見えてるんだな……」
横断歩道を渡っているとき、背後から肩を軽く叩かれた。
振り返ると、璃桜がいた。
「おはよう」
制服姿に、真面目そうな表情。ぱっと見は普通の女子高生そのものなのに、その手には、なぜかA4ノートとカメラが握られていた。
「……何それ?」
「観測日誌と証拠写真用」
「完全に研究者のノリじゃねえか!」
「記録しないと、混乱するから」
璃桜の冷静さは、本当に不安になるレベルで常軌を逸していた。でも、その冷静さのおかげで、翔太郎もギリギリ保っていられる。
二人で歩きながら、登校する。途中、郵便ポストから生えた触手が「チラシ受け取り拒否!」と叫んでいたが、二人は見なかったふりをした。
校門の前に着くと、ひときわ大きな“それ”がいた。
体育館くらいのサイズの、ふわふわした風船のような何かが、空中に浮かびながら、生徒たちの頭の上をゆっくり漂っていた。
「……あれ、誰も気づいてないの?」
「たぶん、私たちだけ」
翔太郎はごくりと唾を飲み込んだ。
教室に入ると、騒がしいいつもの空間が広がっていた。黒板には授業予定。生徒たちはわいわいと談笑していて、机の下では、アニマたちがラジコンのように動いていた。
「……日常って、なんだっけ」
「翔太郎、意識飛びそうになってるよ」
「いやもう、誰か助けてほしい」
休み時間、翔太郎は自販機で買ったオレンジジュースを開けた瞬間、中から声がした。
「せんきゅー!オレん家最高だろ!」
びっくりして手を離しかけたが、璃桜に支えられて難を逃れた。
「このジュース……喋るんだけど」
「生きてる飲み物は初めてだね」
「さも当然みたいに言うなや!」
そのやりとりを見ていたのか、前の席の女子――麗奈が、にこにこと近づいてきた。
「翔太郎くん、なに話してるの?」
「あ、いや……ジュースが喋って……えーと、気のせいかも……」
「そっかあ。最近、翔太郎くんってちょっと変わったよね?」
その笑顔に、翔太郎は背筋を凍らせた。
この笑顔の裏には、なにかある。
思えば、麗奈は以前から少し“周囲の反応が不自然”だった。話した覚えのない話題を知っていたり、記憶が繋がっていないようなことがあった。
もしかして――彼女も“観測者”なのか?
いや、それとも……
「翔太郎、昼休み、屋上行こうか」
隣で璃桜がさらりと提案した。その声には、ほんのわずかに緊張が混じっていた。
翔太郎も、即座にうなずく。
このままでは、普通の生活は無理だ。
なにかを掴まなければならない。
昼休みのチャイムが鳴ったと同時に、翔太郎と璃桜は机を離れた。購買部へ走る同級生たちを横目に、階段を上がり、人気のない屋上へ。
鍵はいつも開けっぱなしだった。この校舎で唯一の“自由な空間”のように、生徒たちの間では暗黙の了解がある場所。
ただ今日は、誰もいなかった。
鉄の扉を開けて、一歩踏み出した瞬間、翔太郎は目を見張った。
「……うわ、空、めっちゃ綺麗じゃん……」
「あれはたぶん……アニマの仕業」
璃桜が指差した先には、校舎の上空をぐるぐると舞う、雲のようなアニマの群れがあった。それは虹色にきらめきながら、空に模様を描いている。校庭の真上には、巨大な『今日もがんばろう!』の文字。
「おまえ……応援してるつもりか……?」
翔太郎が呆れたように言うと、璃桜は笑いをこらえきれず、吹き出した。
「優しいじゃん」
「いや、優しすぎて逆に不安になるわ」
二人でベンチに腰を下ろす。翔太郎はゆっくり深呼吸した。
「……なあ、璃桜。俺、もう普通に戻れないのかな」
璃桜は少し考えてから言った。
「たぶん、戻れない。でも……普通じゃないって、悪いことじゃないと思うよ」
「そうか?」
「見えてしまった以上、どう付き合うかは、私たち次第」
その言葉に、翔太郎はしばらく黙り込んだ。
足元を、文房具のような姿をした小さなアニマが通り過ぎていく。鉛筆の胴体に定規の羽、消しゴムの頭がちょこんと揺れている。
「でもさ、これって……他の人にも影響出たりしないのかな。ほら、今朝さ、俺のプリントが勝手に喋ったり、浮いたりしてたんだけど……」
「それ、たぶん……観測者の“影響圏”が広がってる」
「影響圏?」
「見えるようになると、アニマたちも“見られてる”ってわかるの。で、接触しやすくなる。多分、私たちに反応して、周囲の“物”も活性化してる」
「それって、つまり……俺らがウイルスみたいに?」
「……うん。やや迷惑な感染源みたいな」
「やめてくれ、その例え。泣きそうになる」
翔太郎が頭を抱えたそのとき、階段の下から誰かの足音が響いてきた。
「……あれ?」
屋上の扉が開いた。
「先客、いたのか。おーい、翔太郎ー!」
現れたのは、先輩――真吾だった。
「お前、また屋上でサボってんのかと思って来てみたら……お、璃桜もいるじゃん。やっぱカップルってやつか?」
「ち、違います!」
翔太郎が反射的に否定すると、真吾はにやにやと笑った。
「冗談だよ、冗談。でもさ、最近……お前ら、なんか変じゃね?」
その一言に、空気がピリリと緊張する。
翔太郎は言葉を探す。だが言い訳を並べる間もなく、真吾の目が翔太郎の肩越しに向けられた。
「……あれ、なに?」
翔太郎の背後。ベンチの背もたれに乗っていた、さっきの“文房具アニマ”。
本来なら、普通の人には見えないはず――だが、真吾は、はっきりと見ていた。
「これって、鉛筆に消しゴムついて……羽生えてる?」
「見えてる……のか?」
翔太郎が思わず呟くと、真吾は一拍置いてから、あっさりと頷いた。
「……たまに見るんだよ。なんか、ちょっと昔から」
「う、うそだろ……?」
璃桜も目を丸くした。
「え、じゃあ真吾先輩って……前から“観測者”だったってこと?」
「かんそく……? なんだそれ?」
「……知らずに、ずっと?」
「たぶん、な。でも誰にも言ったことないし、言っても信じてくれねーし、怖がられるだけだったから……放っといてた」
それを聞いて、翔太郎は膝に置いた手をぎゅっと握りしめた。
自分たちだけじゃなかった。
見えてしまっても、生きていける。
少しずつ、謎が繋がりはじめていた。
翔太郎は真吾の言葉に、ただ呆然とした。璃桜も黙ったまま、じっと先輩を見つめている。三人の間に、微妙な間が生まれた。
「なあ、翔太郎……“見える”ってさ、いつからなんだ?最近だろ?」
「うん。昨日の夕方。あの神社……裏の廃れたとこで、変な扉に触れた瞬間から」
「ああ……やっぱ、あそこか」
「知ってたんですか?」
璃桜の鋭い問いに、真吾は首をかしげた。
「なんとなく、あの辺……変だったんだよな。小学生の頃から、あの鳥居の奥だけ、色が違って見えた。俺は怖くて近づかなかったけど……でも、あの日からかな。目に入るようになったの」
「それ、いつの話ですか?」
「中一のとき」
それを聞いた翔太郎と璃桜は、思わず顔を見合わせた。
「……じゃあ、先輩は、もう何年も“観測者”だった……」
「そんなかっこいい名前、今初めて聞いたけどな」
真吾は苦笑いしながら、肩をすくめた。その仕草に、少しだけ安心を覚える。
「でもさ、あのさ……お前らもそうだけど……“見える人間”って、他にもいるんじゃね?」
その問いに、誰もすぐには答えられなかった。
璃桜は、静かにノートを取り出し、ページをめくる。
「観測者になったあと、いくつか特徴的な現象があった。文字が浮かぶ、物体が動く、感情に反応するアニマが寄ってくる、あとは……周囲の人間の記憶に“違和感”が生じることも」
「記憶に……違和感?」
翔太郎は、ふと今朝の麗奈の言葉を思い出した。
――翔太郎くん、なんか変わったよね?
そのとき、確かに背筋がざわついた。
「あの子……麗奈。何か気づいてるかもしれない」
「彼女……たまにおかしいよね。妙に記憶が曖昧で、でも誰からも疑われてない。存在感が強すぎて、逆に“偽装”されてるような感じ」
「それって、アニマの影響……?」
「可能性はある。でも、決めつけるには早い」
翔太郎は、屋上のフェンス越しに、街を見下ろした。
どこにでもある地方都市。静かな午後。だけど、そのすべての隙間に“異形”が潜んでいる。
「俺、怖いよ。正直。だけど……もう見ちゃったから。何が起きてるのか、知りたい。誰が関わってるのかも」
「……私も」
璃桜の声は、ゆるやかに震えていた。
「私たち……選ばれたんじゃない。偶然、足を踏み外しただけ。でも、だからこそ、進むしかないんだと思う」
翔太郎はうなずいた。
その瞬間、校庭の花壇に突き刺さったシャベルから、突如「ワタシモ!タスケル!」という機械音が聞こえ、真吾が椅子から落ちた。
「……な、なんだこれ……!?喋ったぞ!スコップが!?」
翔太郎と璃桜は顔を見合わせたあと、堪えきれずに笑い出した。
「ようこそ、観測者チームへ、真吾先輩」
「や、やめてくれ……俺、そういうの、あんまり乗り気じゃないんだけど……」
「でも、見えてる時点で仲間ですよ」
「そ、そんなバカな……!」
真吾が嘆く横で、シャベル型アニマが「ヤッタネ!」と叫びながら土を掘り続けていた。
日常と異界の境界線が、静かに、確実に崩れはじめていた。
翔太郎は空を見上げた。
昨日とは、違う世界。
見えなかったものが、見える。
聞こえなかった声が、聞こえる。
それでも、自分はここで生きていくしかない。
「璃桜……明日も、また神社、行こう」
「うん。真吾先輩も、来てください」
「うわぁ……逃げられないやつだ、これ……」
観測者たちの物語が、こうして始まった。
誰にも知られず、誰にも信じられない世界の“裏側”を、彼らはこれから歩んでいくことになる。
それが、見えてしまった者の、宿命なのだから。
(第1話 完)