朝の光は、なぜかまぶしすぎた。翔太郎は教室の自席にうつ伏せながら、昨日の記憶を何度も繰り返していた。
神社での扉、見えてしまったアニマたち、屋上で真吾と過ごした時間。すべてがあまりに現実離れしていて、けれど妙に“肌感”だけはリアルだった。
「おはよ、翔太郎」
璃桜の声がする。隣の席に荷物を置きながら、そっと視線を寄せてきた。
「顔、疲れてるね」
「寝不足。アニマが夢に出てきて、枕の横でずっと“起きてますか〜?”ってささやいてきたんだよ」
「……それ、たぶん夢じゃなくて実際にいたんじゃ……」
「やめてくれ、現実と夢の区別がつかなくなる」
璃桜は小さく笑って、それ以上は何も言わなかった。教室では、いつものようにクラスメイトが騒がしくしている。だが、昨日から翔太郎の目には、別の“生活層”が見えてしまうようになっていた。
黒板の上を這うミミズ状のアニマ。女子の筆箱から浮き上がって踊っている付箋のアニマ。蛍光灯の影に佇む、逆さまの狐面。
誰にも気づかれないまま、日常の隙間に存在する不確かな“異物”。
「……俺、いつか脳がバグると思う」
「最初はみんなそう思うよ。慣れるよ、たぶん」
「軽く言うな、璃桜」
「……でも、翔太郎って無難を好むからこそ、意外とこういう異常事態でも冷静になれる気がする」
「それって、褒めてんの?」
「うん。もちろん」
璃桜は微笑んだ。真っ直ぐなその笑顔は、見えてしまった世界の中でも、確かな“支え”のように思えた。
ホームルームが終わると、担任の滝先生が黒板を背に立って言った。
「今日、3階の女子トイレ、また一時的に使えなくなってるそうだ。設備の関係で、詳しくは先生もわかってないんだが……まあ、1階か2階を使うように」
「え? また?」
教室のあちこちから、女子たちの不満の声が上がった。
翔太郎はふと璃桜を見る。彼女もまた、思案顔になっていた。
「翔太郎、これ……おかしいよ」
「だよな。たしか、先週も“急に消えてた”って話が出てた気が……」
「私の友達、3階に入ろうとしたら、扉ごとなくなってたって言ってた」
「扉ごと……?」
「で、1限目が終わったら、元に戻ってたって」
「それってもう、アニマ案件確定じゃね……?」
翔太郎が背筋を伸ばすと、ちょうどそこに別の生徒が近寄ってきた。
「ねぇ、それって本当?」
その声の主は、鮮やかなスカーフを頭に巻いた少女――華子だった。
「3階のトイレが……消えた?」
「え、あ……うん、まあ、そういう話を聞いたけど……」
「すばらしい……!」
「……へ?」
「見えないトイレ……それは存在と無の狭間に浮かぶ、思想の便器!つまり、これは芸術!」
翔太郎は、急激に距離を詰めてくる華子に引き気味になりながら、後ろをちらりと振り返った。クラスの一部はもう、朝の騒ぎの余韻から離れて通常運転に戻っていた。
「璃桜、こいつ、なんとかして……」
「無理。華子ちゃんは、こういうとき止まらないから」
「芸術って便利だな……」
さらにその直後、教室のドアがガラリと開いて、一人の男子生徒が現れた。
「よぉ、翔太郎!」
それは翔平だった。翔太郎と同じクラスではないが、時々この教室に遊びに来ては、まるで自分の部屋かのように居座る変人である。
「トイレが消えるって聞いたぜ。やべーじゃん!なにそれ、都市伝説か?それとも異界か?俺、どっちでも対応できる!」
「翔平、お前……楽しんでない?」
「そりゃあな。異変が起きてんのに、素通りなんてできないだろ。俺は正義の傍観者でいたくないんだ!」
「……どうしてうちの学校、変な奴に好かれるのかな……」
翔太郎は泣きそうな顔になりながらも、心のどこかで確信していた。
これだけメンバーが揃って、異変が起きているなら――調査するしかない。
「放課後、3階トイレ前、集合ってことで」
璃桜が言うと、翔平が即座に拳を上げた。
「了解!不可視トイレ、待ってろよ!俺たちが突撃するからな!」
「いや、突撃はダメだろ。消えるんだから」
「じゃあ、そーっと突撃する!」
「意味わかんねえよ!」
放課後の3階廊下には、ひと気がなかった。
そして、そこに確かに、“ぽっかりと空白の空間”が存在していた。
本来あるはずの女子トイレのドアが、壁ごと消えていた。
翔太郎は息を呑み、璃桜はゆっくりとノートを開いた。
「観測、開始」
廊下の空気は、まるで温度だけが数度下がったように冷たく、薄暗かった。
放課後の校舎は本来なら、部活帰りの生徒の声や雑音で満ちているはずだったが、この3階の西側だけは、まるで世界から切り離されたかのように静まり返っていた。
翔太郎たちは並んで廊下に立ち、確かにそこに“ない”はずのものを見つめていた。
「……ほんとに、消えてるな」
翔太郎が唸るように呟くと、翔平はその空白の壁に近づき、指を伸ばした。
「おいおい、壁は触れるぞ?触感的にはただのコンクリだ。でも、絶対ここにトイレあったよな?」
「ええ、あった。確かに昨日は……私、使ったもん」
璃桜がぽつりと告げる。彼女は観測日誌に、ペンで『15:58、壁化現象持続中、対象位置は空間歪曲の兆候あり』と記録している。
翔平はその横で、指を鼻の下に添えて言った。
「うーん……匂いはしない。ってことは、完全に空間が封じられてるってことか?」
「なにそれ、鼻探知機?」
「俺の嗅覚は犬並みだからな。中学のとき、理科の先生に“異能か”って言われたぜ」
「それほめられてないだろ……」
翔太郎がつっこむと、横で華子が「美しい……」と感嘆の声を漏らした。
「まるで、存在していたはずのものが、時間ごと切り取られてしまったかのよう……ああ、“消えるという概念”そのものがアートだわ」
「……お前が来ると、話がアート方向に飛ぶからややこしくなるんだよ……」
「でも、実際この空間、明らかに“何かがいた”気配がある」
璃桜の視線は壁の端へ向けられていた。そこは、他の壁とは異なる微細なひび割れが無数に走っていて、まるで何かが“そこ”を押して存在を主張していたような名残がある。
「……空間が、ねじれてる感じだ」
翔太郎もじっと見つめる。視線の先で、確かに光の揺らぎのようなものが、ゆらゆらと波を立てていた。水面のように、壁の一部がごく僅かに波打っている。
「トイレって、アニマ的にどうなんだ?」
「うーん、“流す”“閉じこもる”“解放する”……概念として、いろいろ強そうではあるね」
「お前、トイレを概念で語るなよ……」
翔太郎が困惑していると、突如、その波打つ壁の一部から“ぬるっ”とした音がして、何かが突き出てきた。
「うわあああああああ!」
翔平がすかさず後退し、翔太郎も一歩引いた。
それは、人間の手の形をした“水の塊”だった。明らかに液体なのに、骨と筋肉の構造をなぞったような指があり、それがふるふると震えている。
「璃桜、なんだこれ!」
「わからないけど……多分、“トイレのアニマ”の一部かもしれない」
「トイレの……アニマ……」
翔太郎は、思わず涙が出そうになった。
“見えてしまった世界”の第一の異変が、トイレだったとは。
「……俺のファンタジー像、もっとこう……中二病っぽいやつだったのに……!」
「諦めて。現実の異界って、たぶん“生活感”のあるところから侵食されるものだから」
「嫌すぎる……!」
その間にも、水の手は壁からじわじわと這い出してくる。その動きは、のろいが、確実だった。
翔平が腰のポーチから、何やら怪しいスプレー缶を取り出した。
「バルサン持ってきたぜ!」
「殺すな!それ絶対相性悪いから!」
「でもこれ、どっかの霊能サイトで“霊的存在にも効く”って書いてた!」
「誰の言葉を信じて生きてんだお前は!」
璃桜が冷静に制止し、その間に華子はすでに壁の前にしゃがみ込んでスケッチブックを開いていた。
「この流線、曲線美、液体構造と静物性の共存……今までにない“存在感”……!」
「お前は現実を直視しろ!」
翔太郎がもう限界ぎりぎりの精神で絶叫したそのとき、突如――
壁が“ごぽっ”という音を立てて、沈んだ。
いや、正確には、トイレが再び“現れた”。
ゆがんだ空間が一気に戻り、今までなかったドアが、ぬるりと音を立てて出現した。
水の手は、トイレの扉の中にすーっと引っ込んでいく。
その瞬間――
「失礼します!」
誰かの声がして、偶然通りかかった生徒がふつうに入っていった。
「おいおいおいおいおい!」
「今のって、見えてない人間だったよね……?」
「てことは……やっぱこの現象、こっち側だけに見えてるやつだったのか?」
「でも、空間が実際に変化してたのは間違いない」
璃桜が再びノートに走り書きをする。
翔平は未だにスプレー缶を握ったままフリーズしていた。
「……あのスプレー、いつか使ってみようとは思ってたけど……今日はやめとくわ」
「ていうか、まず使用用途を考えろ」
翔太郎は思わず笑いながら、ふっと肩の力を抜いた。
彼らの観測は、まだ始まったばかりだ。
次に待ち受けるのは、どんな不可視の異変だろうか――
校舎の3階廊下に突如現れた“再出現トイレ”の前に、翔太郎たちは誰からともなく立ち尽くしていた。
先ほどまで確かに“なかった”空間に、今やしれっと存在している女子トイレ。まるで「最初からここにありましたよ?」と涼しい顔をしているそれを前にして、翔太郎は心の中で絶叫していた。
(……なんでこんな日常的な場所に限って異界と繋がるんだよぉぉぉ!)
「なあ、これ……結局、どういう仕組みだったんだ?」
翔平がトイレの入口をじっと見つめながら尋ねた。
璃桜は、ノートのページをめくりながら言う。
「推測だけど……“空間の巻き込み型アニマ”による、局所的な現実の断絶と再接続。タイミング的に、一日のうち“誰もトイレに入っていない時間帯”を狙って消失してるっぽい」
「つまり、“目撃されないこと”が条件になってるってこと?」
「うん。観測が入ると現実が再構築される。さっき誰かが入ったとたんに、急に元通りになったでしょ?あれ、物理的に戻ったというより、“あるように”再演された感じ」
「くぅぅぅ……説明はわかるけど、納得が追いつかねぇ……!」
翔平が頭を抱える横で、華子が再び一人、トイレのドアの前に進み出た。
「……このドアの存在感、さっきまでの無の余韻をしっかり纏ってる。今にも消えてしまいそうな、でも確かに“ここにある”という気配……!」
「お願いだから入らないでね、華子。君はアートになりすぎると、戻ってこれなくなる気がするから」
翔太郎の声に、華子はくすりと笑った。
「心配しなくても大丈夫よ、私は“見てる”だけで満足できるタイプだから」
「……なんかその発言、別の意味で怖いわ」
そのときだった。トイレの壁のタイルの一角が、微かに震えた。
「……おい、見たか?」
「見た。今、絶対揺れたよな……?」
「まさか、まだ何かいる……?」
全員が静かにその場に注目する。しばらくして、カタ……カタカタ……と、タイルの目地から何かが這い出してきた。
それは、タイルの破片でできたような小さな虫のようなものだった。見た目はセミとカナブンの中間。複数の目がキラキラと輝き、尾にブラシのような毛が生えている。
「……また出た」
「アニマ、第二波か……?」
「いや、これは……副産物かもしれない」
璃桜が前に出て、しゃがみこむ。
「このアニマ……多分、“掃除”に特化してる。トイレの時間断絶中、内部で働いてたんじゃない?」
「えっ、じゃあ、あれ……勝手に掃除してたの?」
「うん……というより、掃除すること自体が存在意義なのかも。空間を維持するために生まれた自己修復型アニマ……」
「……異界の掃除当番ってこと?」
「そう聞くと、なんかすごく……地味だな」
翔太郎は思わず眉をひそめた。
けれどその瞬間、掃除アニマはくるりと振り返り、明らかに“見られている”ことを理解したような仕草を見せた。
そして、次の瞬間。
「シャッ、シャッ、シャー!」
タイルの隙間から無数の同種アニマが湧き出し、翔太郎たちの方へと大行進を始めた。
「ぎゃああああああああ!」
「待って!落ち着いて!これは威嚇じゃなくて……!」
「いや、十分威嚇だろこれ!」
翔太郎が悲鳴を上げる横で、翔平は持ち前の“突撃精神”でしゃがみ込み、アニマの一体とアイコンタクトを試みていた。
「お、おまえ……喋れるか?」
「シャッ、シャン!」
「ごめん、無理っぽいわ!」
「知ってたよ!!」
数分後、掃除アニマたちは廊下を一掃し、何事もなかったかのように壁の隙間へと引き返していった。
「……お前ら、プロ意識高すぎだろ……」
翔太郎はへたり込みながら、じわっと汗を拭った。
璃桜は淡々とメモを取っている。
『観測者が現場に入ることで、関連アニマが清掃行動を完遂。空間は安定。再消失の兆候なし』
「璃桜、メンタル強すぎないか……?」
「慣れ、だよ」
「俺たちの“慣れ”の基準、完全に世間からズレてきてないか……?」
翔太郎は遠い目で廊下の端を見つめた。
その先には、確かに“普通の校舎”が広がっている。
だけど、もう自分の目には、それだけじゃないものが映っている。
それが、“観測者”になってしまった代償。
けれど、その代わりに――
「俺、もうちょっと見てみたいかも。こういうの」
「うん。私も」
「……やっぱ変だよ、お前ら……」
真吾のため息が、どこか優しく響いた。
日もすっかり落ち、校舎の窓の向こうには、群青色の空が広がっていた。帰り支度をするクラスメイトたちのざわめきが階下から聞こえてくる中、翔太郎たちは未だに三階の廊下にいた。
「結局……異変は解決、でいいんだよな?」
翔平が床にぺたんと座り込み、手にしていたスプレー缶をくるくると回す。彼の目の前では、何事もなかったかのように静まり返った女子トイレの扉が、しれっと存在感を取り戻していた。
「現象そのものは“時間限定”だったみたいだね。だけど、アニマが関わってた可能性は高いし……根本的には、異界の“影”がこの空間に食い込んでる状態だと思う」
璃桜が言いながら観測ノートに追加の記録を書き込んでいた。
『現象名:トイレ消失現象一号
発生時刻:午前8時前後〜9時
構造物の空間断絶・再編成、及びアニマの挙動あり
特記事項:観測により現実再構成が起きる。掃除アニマの出現、作業後は安定。』
「ねえ、それ……命名したの?」
「うん。“一号”って付けといたほうが、また起きたときに対処しやすいから」
「“一号”ってことはさ、つまり、次もある前提?」
「あると思う。これ、きっと……まだ“始まり”だから」
その一言に、翔太郎は不思議と反論できなかった。
確かに、“一件落着”の空気はある。けれど同時に、何かがひっそりと世界の底で動き続けている気配もあった。
この“校舎”にすら異常が起きているのなら、街全体では、もっと不可思議な現象が進行しているのではないか――そんな直感があった。
「それにしても、今回の現象……やっぱ、翔太郎が発端だったんじゃね?」
唐突に翔平が言い出し、翔太郎が眉をひそめた。
「なんで俺?」
「昨日の夜、あの神社でお前が扉に触ってからだろ?現象がどんどん活性化してるの」
「ちょ、ちょっと待て。つまり、俺がウイルスみたいな扱いか?」
「いや、ウイルスっていうより……“観測者起動装置”?あ、違う、“世界のバグ引き出し装置”!」
「どっちにしろ失礼すぎる!」
「でもさ、こういうのって、誰か一人の目覚めをきっかけに、周囲が引っ張られて変わるって、よくある展開だよ?」
「誰だよ、そんなテンプレ書いたの……!!」
翔太郎は天を仰ぎ、魂が抜けるような声を上げた。
そのとき、不意に華子がぽつりと呟いた。
「……“構造的美”だと思うの」
「え?」
「トイレの空間が一度削ぎ落とされ、何もない壁として無化される。そして、時間経過とともに、それが“意味”として再構築されるプロセス……それって、“失われたものを描き直す”っていう、アートの本質とすごく似てる」
「いや……トイレを“本質的アート”にされても困るんだけど……」
「失われたトイレが“再生された”ということ。それはきっと、世界がまだ“元に戻れる余地”を残してるってことよ」
「ちょっと感動しかけたけど、やっぱりトイレの話なんだよなあ……」
翔太郎は頭を抱えながら、壁にもたれた。
不意に、制服のポケットの中でスマホが震えた。
メッセージアプリの通知だった。
送り主は――“麗奈”。
【ねえ、翔太郎くん。最近、見えちゃってるでしょ?】
「……!」
翔太郎の肩がぴくりと動いた。
「翔太郎? どうしたの?」
璃桜がすぐに気づいて覗き込む。翔太郎はスマホの画面を璃桜に見せた。
「……麗奈……“見えてる”側かも」
その一言で、全員の空気が引き締まった。
「となると……彼女、これまでの出来事も何か知ってたってことか?」
「やっぱ、人気者で腹黒キャラって設定は、伊達じゃなかったか……!」
翔平が腕を組んで唸った。
「とにかく、話を聞いたほうがいい。情報が少なすぎるし、彼女の記憶改変の件も気になるし……」
璃桜がすぐに切り替える。
「明日、放課後。直接話そう。彼女を“観測者”か、それとも……“何かに取り込まれている側”なのか、見極めなきゃいけない」
翔太郎は無言でうなずいた。
異変は、まだ始まったばかり。
だがそれは、ほんの小さな導火線にすぎなかった。
次に燃え上がるのは、誰の“記憶”なのか。
そして、“現実”とはどこまでが本物なのか。
観測者たちの物語が、さらに深く“街の裏側”へと踏み込んでいく。
(第2話 完)