深夜の校舎。誰もいないはずの理科準備室の奥で、ひとりの男子が息を潜めていた。
翔太郎は、懐中電灯の光を片手に、ぼろぼろのカーテンをめくった。
「やっぱり……ある。最初の“あの扉”……」
そこには、数ヶ月前に彼と璃桜が“見てしまった”異界の入口、“アークゲートの最初の裂け目”が、今も静かに息をしていた。
壁の亀裂のように見えるそれは、実際には揺れ動いている。まるで“こちら側”と“あちら側”の境界が、いまだ決着をつけかねて迷っているかのように。
「おい翔太郎、こんな夜にどこ行ってんだよ!」
翔平の声が背後から飛んできた。
「待て、俺も行く!お前が“またヤバいとこ”行こうとしてるときって、大体“なんか面白いこと”になるから!」
「遊園地じゃねぇんだよここは!異界のゲートだぞ異界の!」
璃桜も静かに立っていた。
「でも、翔太郎がこれを“確かめよう”と思ったのは、きっと理由がある。だから、私も行く」
翔太郎は静かにうなずいた。
「俺、ずっと思ってたんだ。なんで“俺”だったのか。なんで“見えた”のか。何もしてないのに、“選ばれた”のかって」
「それは……“見ようとした”からよ」
璃桜が言う。
「他の人が“怖いから見ない”って思う瞬間、お前は“なんで?”って近づくやつだから」
翔太郎は目を細めた。
「それ、誉めてる?」
「誉めてない。危なっかしいって言ってる」
「やっぱりかよ!」
そのとき、ゲートが“ぼぉっ”と青白く光った。
翔太郎の胸ポケットで、観測者の紋章が脈を打つ。
「これは……俺に反応して……?」
壁の向こうから、声が聞こえた。
『ようこそ、観測者。“選ばなかった道”へ』
「うわっ、喋った!?扉喋った!!?」
翔平が一歩下がるが、翔太郎は前に出た。
「“選ばなかった道”ってなんだよ……?」
『お前が最初に開いたとき、“一つの可能性”が封印された。“全員がこの現実を忘れる”という選択肢が、否定された』
璃桜が息を呑んだ。
「まさか……このゲート、“やり直しの選択肢”を提示してたの?」
『今なら選べる。“なかったこと”にするか、“すべてを保存するか”』
翔太郎は拳を握った。
「それって……俺たちの記憶も、絆も、全部“消える”ってことか……?」
『もしくは、“それだけが現実として残る”ということも、できる』
翔平が口を開く。
「おい、それ、つまり“この現実を上書き”できるってことか?お前が“どの物語を本物にするか”を決められるって……?」
「ふざけんなよ……俺にそんな選択、できるわけないだろ……!」
翔太郎の声が震える。
「だって……全部、大事なんだよ!馬鹿みたいな事件も、笑ったことも、泣いたことも……消すかどうかって、そんな単純に選べるわけないだろ!!」
扉が再び光を放った。
『ならば、“新たな選択肢”を与えよう』
その瞬間、ゲートの奥が大きく開き、無数の道が広がった。
『これは“選び直す”ための選択ではない。“生きたまま受け止める”ための道だ』
翔太郎は、光のなかに手を伸ばした。
「じゃあ、俺は……この現実、全部“持ってく”。いいことも、悪いことも、“全部あった”ってことで残す」
「それが、俺たちの物語だから」
ゲートの向こうは、光の回廊だった。床は存在しないのに足が沈まず、空気は感じるのに風は吹いていない。白でも黒でもない色で塗られたような空間の中、翔太郎はゆっくりと前へ進んだ。
「なんだここ……夢の中みたいだけど、逆に“現実以上に現実味”ある……」
背後では璃桜と翔平が静かに後を追っていた。
「気をつけて、ここの空間は“選択の履歴”で構成されてる。どこかに、“過去のお前自身”が残っているかもしれない」
「俺の、過去?」
そのとき、ふいに前方に“子どもの自分”が現れた。
ランドセルを背負い、川沿いの道で泣いている少年。
「……これ、俺じゃん。小学校のとき、友達とケンカして、ひとりで帰れなくなった日だ……」
璃桜が言う。
「これは、“選ばなかった感情”の記録。“怒りたかったのに我慢した”とか、“泣きたかったのに強がった”とか……そういうのが、残像としてこの空間に記録されてるの」
「うわ、なんか“痛すぎる黒歴史アルバム”みたいでやだな……!」
「でも、見る価値はあると思う」
翔平が言った。
「そういう“忘れたくなかったこと”も、“思い出したくなかったこと”も、全部含めて“今のお前”になってる」
翔太郎は、小さな自分を見下ろしながら、そっと言った。
「俺さ……本当は、ずっと“無難”でいたかった。波風立てず、怒られず、失敗せず、平均点で。ずっと“その他大勢”でいいって思ってた」
少年の姿が、翔太郎を見上げた。
「でも結局、俺は“見ちゃった”んだよな。普通じゃないこと。アークゲートも、アニマも、仲間の異常も、全部」
「だから今、ここにいる」
璃桜が並んで立ち、静かに頷いた。
「翔太郎。あなたが選ばれた理由、たぶんそれは“見てしまった”からじゃない。“見ようとした”から、なの」
「……」
「“無難”を望む人が、“無難じゃないもの”に手を伸ばすとき。その人は、きっと“変わる”覚悟がある人よ」
翔太郎は目を閉じた。
「……もう、“元の世界”に戻っても、俺、何も知らなかったフリはできねぇな」
「じゃあ、どうする?」
翔平が問う。
翔太郎は、ふっと笑って言った。
「記憶も、変化も、全部“残す”。それが俺の選択。今までの全部、忘れない。“無難じゃなかった”この日々を、“経験として”持って帰る」
すると、空間の奥で“中心の扉”が現れた。
それは初めて見たときと同じ、“世界の輪郭を崩す裂け目”だった。だが今は、もう怯えていない。
翔太郎が手を伸ばすと、扉が開いた。
その向こうに――22人の仲間の姿が、並んでいた。
誰もが、“選ばなかった過去”と、“選び続けた今”を背負ったまま、翔太郎を見ていた。
「戻るか。俺たちの、“あの街”に」
光が翔太郎を包み、彼はゲートをくぐった。
そして、扉は――静かに、開いたまま残った。
(第50話 完)