その日は雨の翌日で、道がぬかるんでいた。
しかし僕たちは予定を変更せずに山登りを決行した。
当日が快晴だったため、前の日の雨のことなど考慮に入れていなかったのだ。
結果として、ぬかるんだこの道で飯沼は足を滑らせた。
僕は飯沼の手を握ろうとしたが、間に合わず……飯沼は崖から落ちた。
「だけどここから落ちた飯沼は、落ちる途中で姿が消えて……そのまま僕は飯沼のことを忘れた」
崖から落ちた飯沼は、地面に衝突することはなかった。
手品のようにこの世界から姿を消してしまったのだ。
そして僕の記憶からも、誰の記憶からも、飯沼は消えた。
まるで最初からいなかったかのように。
この日自分がどうやって家に帰ったのかも定かではない。
気付いたら自宅の縁側で昼寝をしていたような気がする。そしてそのことを不思議だとも思わなかった。
「こんなに大事なことを忘れてたなんて!」
自身の不甲斐なさに悔しさが募る。
飯沼は幼馴染で、恋人で、誰よりも近くにいたのに。助けられなかったどころか、存在を丸ごと忘れていたなんて。
そんなのあまりにも酷い仕打ちだ。
「クソッ、僕はどうして……!」
屈みこんで頭を抱える僕の背後から、サクサクと草を踏む音が聞こえてきた。
「思い出してしまったんですね」
振り返って顔を上げると、何の感情も無い能面のような阿久津さんが立っていた。
「……阿久津さん?」
「まさかこの山の都市伝説が本物だったなんて。私たちが消したはずの記憶を蘇らせるとは困ったものですね。これは本部に報告をしないといけません」
阿久津さんは淡々と訳の分からない言葉を並べた。
この山の都市伝説が本物? 私たちが消したはずの記憶? 本部に報告?
「阿久津さんは、何を言ってるんだ」
混乱した頭では、こう言うことが精一杯だった。
なんとか絞り出した僕の問いに、阿久津さんは感情の無い顔のまま答えた。
「私は異世界転移管理局の職員です」
阿久津さんに冗談を言っている様子は無い。大真面目にこの言葉を述べているのだ。
「は、え、異世界転移、管理局?」
「異世界転移させる人間を選定し、異世界転移をさせ、その人間が元の世界で生きていた痕跡を抹消する組織です」
阿久津さんは、異世界転移が不思議な都市伝説ではなく、ただの業務の一つであるかのような物言いをした。
異世界転移は、空想の現象ではなく、当然のように身近にあるもの。
まるでそう言っているみたいだ。
「冗談、だよな?」
阿久津さんの様子から冗談ではないと確信しつつも、こう聞くほかなかった。
「冗談だと思いますか? 飯沼さんの異世界転移を思い出したのに?」
どうやら阿久津さんは飯沼のことを覚えているようだ。
ということは、蘇った僕の記憶は、本当に起こった出来事なのだろう。
「どうして、どうして異世界転移なんてさせたんだよ! 飯沼を返せよ!」
気付くと心からの叫びが口をついて出ていた。
飯沼は僕にとって大事な存在だった。
きっと同じ幼馴染である酒井にとっても大事な存在だっただろう。
それなのに、僕たちは飯沼を失い、飯沼の記憶さえ失った。
そんなのはあんまりだ。
「あら。その部分に関しては感謝をしてもらえると思っていたのですが。だって死ぬはずだった飯沼さんを異世界転移という方法で生かしたんですから」
「それは……」
飯沼が落ちた崖を眺めた。確かにここから落ちて地面に衝突したら、死んでいた可能性が高い。
その点に関して言うなら、異世界転移は飯沼の命を救った。
「飯沼を助けてくれたことには、感謝をするべきなんだろうけど……」
だが、異世界転移管理局とやらがやったことはそれだけではない。
むしろ異世界転移をさせたことよりも、こっちの方が酷い行為だ。
「なんで飯沼が生きてきた痕跡を消したんだよ!? 飯沼は確かにこの世界で生きてたのに。それを無かったことにするなんて。あんたらには人の心が無いのか!?」
僕に怒鳴られても、阿久津さんは眉一つ動かさなかった。
「飯沼さんが異世界転移をしたという話を、誰が信じるんですか? 飯沼さんの失踪は周囲の人を混乱させ、悲しませるだけです」
「でも、飯沼が生きてきた痕跡を消すなんて、そんなの、飯沼が最初からこの世界にいなかったみたいじゃないか!」
「最初からこの世界にいなかった方が都合が良いんですよ。誰にとっても」
都合が良い。そういう考え方をするのであれば、そうかもしれない。
飯沼のことが大事な人たちは飯沼の喪失に悲しまなくて済むし、見つかるわけもない飯沼を探すことに時間を費やす人もいなくなる。不自然な失踪を怪しむ人も現れない。
だけど、都合が悪かったとしても、飯沼がいなくなった事実は認知されるべきじゃないのか!?
飯沼がこれまでこの世界で生きてきた事実は、認められるべきじゃないのか!?
必死で生きてきたこれまでの人生を周囲に覚えていてもらうことは飯沼の権利であり、飯沼のことを記憶することは僕たちの権利だ。
その権利を無理やり奪われるなんて、看過できない。
そんな暴力的な組織は、最低だ!
「飯沼と過ごした日々は僕にとって大事なものだったのに! それを勝手に奪うなんて!」
「そんなことを私に言われましても。私はただの末端の職員ですから」
僕に怒りをぶつけられても、阿久津さんの顔には何の表情も浮かばない。
「絶対に許さない! あんたらのことを恨んでやる!」
「はい、どうぞご勝手に」
阿久津さんは異世界転移管理局とやらの仕事をどれだけこなしてきたのだろう。
阿久津さんからしたら理不尽だろう怒りを爆発させる僕に、こんなにも淡々と対応するなんて。
阿久津さんは教室でも山登りの道中でも年相応に笑っていたのに、今の彼女は無表情を貫いている。
まるで阿久津さんではない、初対面の知らない人みたいだ。