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ギルドの受付嬢は今日も鉄拳で解決します
ギルドの受付嬢は今日も鉄拳で解決します
さわじり
異世界ファンタジー冒険・バトル
2025年05月17日
公開日
1.1万字
完結済
 新米冒険者リュカが憧れる受付嬢・エリナは、美しさと優しさ、そして圧倒的な強さを併せ持つ「ギルドの顔」だった。  どんなトラブルにも冷静に対応し、時に鉄拳でならず者をねじ伏せ、ギルドの平和を守る彼女。その本当の強さと覚悟に触れたリュカは、自らも成長しようと決意する。  やがて伝説級の魔獣が街を襲いギルドが危機に陥る中、エリナは皆を守るためただ一人立ち向かう――。

ギルドの受付嬢は今日も鉄拳で解決します

 ギルドの朝は早い。


 薄曇りの空の下、石畳の広場には、冒険者たちが今日も集まってくる。駆け出しの少年少女、筋骨隆々の戦士、ローブ姿の魔術師、獣耳を揺らす亜人族――年齢も種族も装備も様々だが、皆が目指すは同じ、「冒険者ギルド」の扉。


 その受付で、今日もエリナは笑顔を絶やさない。


「おはようございます! 本日のご依頼、何かご相談でしょうか?」


 エリナ。

 このギルドの顔ともいえる受付嬢である。

 その姿は、人混みの中でもすぐに分かる。


 肩までまっすぐに伸びたエメラルドグリーンの髪。光を浴びて揺れるたび、翡翠のような艶が浮かぶ。瞳も同じ色合いで、見つめられるとふと心が鎮まるような、不思議な安心感を覚える。

 整った顔立ちだが、きつさよりも柔らかさのほうが際立っていた。すっと通った鼻筋と、ほんのり紅を差した唇。笑うと頬に小さなえくぼができ、どこか少女のような幼さも残している。


 彼女の制服は深緑色のベストと白いブラウス、足元には膝丈のスカート。事務的なはずなのに、どこか清楚で上品な雰囲気が漂っている。まっすぐ伸びた背筋と、しなやかな手の動き――まるで舞台女優のように、堂々としていて、かつ動作の一つ一つに気品があった。


「エリナさん、おはよう!」

「昨日の依頼、助かったよ!」

「また紹介してくれ!」


 朝から絶え間なくカウンターに押し寄せる冒険者たち。誰もが彼女の前ではちょっとだけ猫をかぶってしまう。


 リュカはその様子をカウンターの柱の陰から見ていた。

 自分はまだ冒険者になりたての新米。ギルドに登録したのも、ほんの一週間ほど前。

 エリナに初めて「がんばってくださいね」と微笑まれた日のことが、今でも忘れられない。


 リュカが感じているのは、ただの美人受付嬢としての憧れではなかった。


 エリナの一挙手一投足には、ギルド全体を包みこむような温かさがある。たとえば、依頼を受けてきた冒険者には必ず「傷はありませんか?」と声をかけ、心なしか体調の悪そうな者にはさりげなく回復薬を手渡している。

 まだ幼い見習い魔法使いが不安げに順番を待っていれば、エリナはしゃがみ込んで視線を合わせ、「最初はみんな緊張しますよ」とそっと背中を押してやる。


 かと思えば、馴れ馴れしい古参の大男に対しては、決して相手のペースに流されず、きっちり「ご依頼内容は正確にご記入をお願いします」と諭している。

 どんな相手にも平等で、しかし一人ひとりに寄り添っている。

 それが、リュカの目には眩しかった。


 リュカは、自分がエリナのような立派な冒険者になれる日は来るのだろうか、とぼんやり考えながら、その横顔を見つめていた。

 ふと、エリナがこちらに気づく。


「リュカくん、おはようございます。今日も来てくれて嬉しいです」


 リュカは一瞬にして顔が熱くなり、慌てて立ち上がった。


「あ、はいっ、今日も……!」


 言葉がどもる。

 そんなリュカを、エリナは優しく微笑んで迎えてくれる。


「今日は、最初の依頼に挑戦してみますか? 簡単なおつかい系のものなら、きっと大丈夫ですよ」


 差し出された依頼書。達筆な文字で「薬草採取」と書かれている。


「う、うん、やってみます!」

「無理はしないでくださいね。何かあればすぐ戻ってきて。……リュカくんなら、きっと大丈夫です」


 その言葉が、まるで魔法のようにリュカの背中を押してくれる。

 胸を張って依頼書を受け取り、リュカはギルドを飛び出した。


 けれど、ギルドの一日はいつだってトラブルの連続だ。

 筋骨隆々の大男が二人、まるで荒馬のようにどかどかとカウンターに近づいてくる。


「おい、受付! なんだこの報酬は!?」

「昨日の討伐依頼、俺たちが一番苦労したんだぞ!」


 低い怒鳴り声がロビーに響く。机を乱暴に叩く音に、カウンターがミシミシと軋む。

 冒険者たちは一斉に声をひそめ、誰もトラブルに巻き込まれたくないとばかりに距離をとる。

 しかしエリナだけは、普段通りに静かな声で応じる。


「昨日の討伐依頼、ですね。少々お待ちください」


 彼女は冷静に台帳をめくり、記録を確認し始めた。


「依頼主の証言では、報酬額は規定通りで……特に不備はありませんが?」

「はあ? 俺たちの働き、ちゃんと見てたのかよ!」

「もっと上乗せしろよ、受付!」


 大男たちが身を乗り出し、カウンターの奥で他の受付嬢が小さく身をすくめる。

 だがエリナの態度は変わらない。まるでこの程度の騒ぎなど、毎日茶碗を洗うくらい当たり前だと言わんばかりだった。


「申し訳ありません。ギルドの規定は公平です。ご納得いただけない場合は、正式に異議申し立てを――」

「うるせえ!」


 大男の拳がカウンターに振り下ろされる。コップが跳ねて、依頼書が舞い上がった、その瞬間。


 バシンッ!


 気がつけば、エリナは机の上に立っていた。

 誰もがエリナがどう動いたかを見ていない。ただ、大男の腕をがっしりと掴み、細い指でその拳を完全に押さえ込んでいる。


「大声は、他のお客様のご迷惑になります」


 エリナの声はいつも通り柔らかいが、その瞳の奥に一瞬だけ、冷たい光が走った気がした。


「て、てめえ……!」


 男が無理に腕を引こうとするが、びくともしない。細いはずのエリナの手が、まるで鋼のような力で男の手首を封じている。

 もう一人の男が掴みかかろうとした。……が。


 ドンッ。


 二人の大男は、気づけばカウンターの前で正座していた。


「さて。お話は伺いました。ですが、ギルドの規定は規定です。ご理解いただけない場合は、これからギルドマスターに直接ご相談いただきますが……よろしいですね?」

「い、いえ……すみませんでした……」

「もう文句言いません……」


 二人は、さっきの勢いが嘘のように大人しくなっていた。

 エリナは、にっこり笑って彼らにコップを差し出す。


「では、落ち着いたところで、お水でもどうぞ。汗をかいているようですから」

「……ありがとうございます」

「……はい」


 二人は借りてきた猫のようにコップを握る。

 ロビーの空気が再び穏やかに戻っていく。


 その様子を入口の陰から眺めていたリュカは、ただ唖然と立ち尽くすしかなかった。


(い、今の……本当に、あの受付嬢さん……?)


 冒険者たちは知っている。

 ――このギルドで一番敵に回してはいけないのは、受付嬢・エリナだと。



「……はぁ」


 リュカはギルドの裏手の中庭で、小さくため息をついた。

 薬草採取の依頼を受けたはいいが、街の外に出る前に、どうしてもエリナのことが頭から離れなかった。


 さっき見た光景……大男たちを、まるで子どもをなだめるみたいに、いや、それ以上に圧倒的な力でねじ伏せたエリナ。あんなふうに人が動けるのか。

 しかもそのあと、まるで何事もなかったように、いつものやわらかい笑顔で仕事を再開していた。

 まるで舞台裏のない、完璧な女優。

 いや、それ以上だ。


 リュカは、改めてエリナのことを考える。

 彼女は見た目も性格も「理想のお姉さん」という感じだ。困っている人には必ず手を差し伸べ、強い相手にも物怖じせず、どこまでも公平で優しい。


 でも、その奥に、「触れてはいけない何か」がある。

 ……それを感じ取っているのは、自分だけじゃない。


 さっきの一件を見ていた他の冒険者たちも、エリナに対して妙な距離感を持って接しているように思える。

 親しみやすいのに、近寄りがたい。

 矛盾しているはずなのに、それが不思議と両立している。


「やっぱり、エリナさんは特別なんだな……」


 リュカは呟き、ギルドの建物を見上げた。

 窓の向こう、カウンターに立つエリナの姿が、今日も変わらずに輝いているように見えた。



 ギルドの昼下がりは、朝の賑わいとはまた違った空気が流れる。

 依頼の受付、報酬の精算、簡単なケガの治療や書類のやりとり。エリナはどんなに仕事が立て込んでいても、絶対に焦ったそぶりを見せない。

 カウンターの内側を、しなやかな所作で行き来する。複数の書類を一瞬で振り分け、冒険者からの質問にも即座に答える。


 ときには小さなトラブルにもきっちり対応する。たとえば、報酬を受け取ったはずの冒険者が「金額が違う」と言い出したときも、エリナはすぐに記録をチェックし、冷静に状況を整理してみせた。


「ご確認ありがとうございます。たしかに今回の報酬は銀貨八枚です。先ほど、間違いなくお渡しした記録が残っております。もし不足があれば、今ここで確認しましょうか?」

「……え、いや、たぶん俺の勘違いだ。悪い、すまん!」


 冒険者はたじたじになって引き下がる。

 その様子に周囲はくすくすと笑い、エリナは何もなかったように次の依頼者に声をかけた。


 リュカは、その光景をギルドの片隅からぼんやり眺めていた。

 自分はまだ、薬草採取に出る勇気が出ないでいた。エリナのことを考えているうちに、なんとなくまた受付の近くに戻ってきてしまったのだ。


「俺も、いつかあんなふうに堂々とした冒険者になれるのかな……」


 そう思ったとき、エリナがふとリュカの方を見た。

 すぐに近づいてきて、優しい声をかける。


「リュカくん、大丈夫ですか? 不安なことがあれば、なんでも相談してね」

「……あ、えっと、だいじょうぶ、です」


 リュカは目をそらし、うつむいた。


「最初は、誰でも緊張するものですよ。私も、初めてギルドで働いた日は本当に手が震えて……ペンを落としちゃったくらい」

「エリナさんが、そんなふうになるなんて想像できません」


 リュカは思わず本音を漏らしてしまった。

 エリナは少し笑って、小さく首を傾げた。


「うふふ。私も最初は怖いことだらけでしたよ。でも、みんなに助けられて、今の自分があります。……だから、リュカくんにも、誰かの力になってほしいんです」


 リュカはその言葉を、しっかりと胸に刻み込んだ。

 エリナの笑顔が、心の奥まで染み込んでいく気がした。



 リュカはついに意を決して、街の外へと足を踏み出した。

 薬草が生えているという丘は、ギルドから小一時間ほど歩いた場所にある。

 依頼書に書かれた地図を何度も確認しながら、リュカは草原を進んだ。


 途中、森の入口で道に迷ったり、足元の泥で転びそうになったりもしたが――。

 そのたび、エリナの「リュカくんなら大丈夫です」という言葉を思い出して、立ち上がった。


 日が傾き始めた頃、リュカはようやく薬草の群生地にたどり着いた。

 小さな白い花が咲く薬草を摘みながら、リュカはどこか誇らしい気分になった。

 まだ自分は弱い。でも、こうして一歩ずつ進んでいる。


 薬草を集め終えた帰り道。リュカがギルドの建物に戻ると、ロビーはすっかり夕焼け色に染まっていた。


「おかえりなさい、リュカくん」


 エリナがカウンターの向こうから声をかける。その声に、リュカはなぜか涙が出そうになった。


「薬草、ちゃんと集めてきたよ」

「うん、とてもよく頑張りましたね。今日はゆっくり休んでください」


 エリナは、リュカの手からそっと薬草を受け取り、満足そうに微笑んだ。

 その笑顔は、どこまでもあたたかく、やさしかった。


 ギルドの一日は、いつも平和に終わるわけではない。

 夜になれば、酔っ払いの冒険者が絡んできたり、外の魔物が街を脅かしたり――。

 でも、受付カウンターの奥で、エリナが変わらず微笑んでいるかぎり、このギルドは、きっと大丈夫だ。

 それはリュカだけでなく、ここに集う全ての冒険者たちが感じていることだった。



 翌朝。

 ギルドのロビーには、昨日と同じように多種多様な冒険者たちが集まっていた。

 けれど、その雰囲気にはどこか張り詰めたものが漂っている。

 リュカは入口の近くで、少しそわそわしながら様子を窺っていた。


 昨日、薬草採取の依頼を無事にこなしたとはいえ、まだまだ自信はない。それでも、ギルドという場所が、「帰ってきたくなる場所」に思えている自分に、少しだけ驚いていた。


 カウンターでは、エリナがいつも通りに受付の仕事をしている。


「ご依頼の確認、承りました。……次に並んでいる方、どうぞ」


 その声には張りがあり、カウンターに立つだけで場の空気が引き締まる気がする。

 だが、その柔らかな表情は昨日と同じで、誰に対しても分け隔てなく優しい。


「やっぱり、あの人がいるだけで、ギルド全体が守られてる感じがするな……」


 リュカがそんなことを考えていると、突然ギルドの扉が荒々しく開いた。

 中に入ってきたのは、見覚えのある連中――昨日エリナに正座させられた大男たちが、仲間を引き連れてやってきたのだった。


「おい、また来たぞ!」

「今日はちゃんと話を聞いてもらうからな!」


 数を盾にした彼らは、昨日よりもさらに威圧的な態度で、カウンターへと突進する。

 ギルドの空気が、一気に緊張に包まれた。


「な、なんだ、あれ……?」

「またゴロツキどもがトラブルか……?」


 周囲の冒険者たちはそっと距離を取る。

 受付嬢たちも、エリナの背後に身を隠すようにしている。

 エリナだけが、昨日と変わらぬ態度で、静かに彼らを見つめていた。


「皆さん、何かご用件でしょうか?」

「昨日の件だ。あれじゃ納得いかねぇ!」

「俺たちをバカにしたツケ、払ってもらうぞ!」


 大男がエリナの目前に身を乗り出し、大剣を振り上げる。

 周囲が凍りついた。

 けれど、エリナは微動だにしない。


「ギルド内での暴力行為は禁止されています。どうかお控えください」


 その言葉に、一瞬だけ男の動きが止まる。だが、すぐに凄みを増して叫んだ。


「うるせえ! 昨日の仕返しだ!」


 剣が振り下ろされる――。


 その瞬間、エリナが動いた。

 目にもとまらぬ速さだった。


 小柄なエリナが、まるで空気のように男の懐へと滑り込む。


 バシィッ――!

 乾いた音が響き、次の瞬間、大男の動きがピタリと止まる。

 エリナの白い手が、男の手首を掴み、無理なく止めていた。


「もう一度だけ、申し上げます。ギルド内での暴力は禁止です」

「う、うぐ……」


 大男は顔を歪めた。

 エリナの指先が、ほんの少しだけ力を込める。

 それだけで、まるで鋼鉄の枷にはめられたように、男の腕はまったく動かなくなる。


「な、なんだこいつ……!」


 後ろの仲間が、エリナを取り囲むように詰め寄る。


「おい、離しやがれ!」

「やっちまえ!」


 だが、エリナはまったく慌てた様子もない。

 むしろ静かに、淡々とした口調で続ける。


「ギルドは、すべての冒険者が安心して集える場所です。暴力を持ち込むなら、しかるべき手続きを取らせていただきます」

「ふざけんな!」

「女のくせに、調子に乗るなよ!」


 怒号が飛ぶ。

 リュカは思わず息をのんだ。

 けれど――。


 エリナの小さな身体がふわりと舞う。

 そして、次の瞬間には男たちの前に立ちはだかっていた。


「……!」


 バタバタ、と次々に大男たちが床に倒れ伏す。

 まるで一陣の風が吹き抜けたかのように、エリナは軽やかに、しかし一切の無駄なく男たちをいなしていく。


「ぐっ……」

「な、なんでだ、こいつ……」


 圧倒的な力の前に、屈強な冒険者たちはただ呆然とするしかなかった。


 しばらくして、倒れた男たちがようやく立ち上がる。

 エリナはその一人ひとりに、きっちりと目を合わせる。


「申し訳ありませんが、規定により本日以降、皆さまのギルド利用を一定期間停止させていただきます。ご不服の場合は、ギルドマスターに直接申し立ててください」

「……っ!」


 男たちは何も言い返せず、そのままうなだれてギルドを出て行った。


 静寂が戻ったロビー。

 冒険者たちが一斉に息をつく。


「すげぇ……」

「あれが、俺らのギルドの受付嬢……」


 囁き声が広がる。

 リュカもまた、その光景に圧倒されていた。



 事件の後、ギルド内は驚きと安堵でいっぱいだった。

 受付カウンターでは、他の受付嬢たちがエリナに小声で声をかけている。


「エリナさん、すごかったです……」

「本当に、助かりました……!」


 エリナはいつもの穏やかな微笑みを浮かべて、みんなを安心させる。


「大丈夫ですよ。私の仕事は、みなさんが安心して働ける場所を守ることですから」


 その言葉に、冒険者も受付の仲間たちも、誰もが心から頷いた。

 リュカは、カウンターの端から、エリナの横顔をじっと見つめていた。


 あんなに強いのに、ぜんぜん偉ぶったりしない。それどころか、みんなを支えることが一番だって、本気で思っている……。

 自分が冒険者として何者でもないことが、なんだか恥ずかしくなった。

 でも、それ以上に、あんな人のそばで自分も何かできるようになりたい、と強く思った。


「リュカくん?」


 気づけば、エリナがすぐそばまで来ていた。


「だ、大丈夫です、僕……!」


 緊張して言葉が詰まる。

 でも、エリナは小さく笑って、肩をポンと叩いてくれた。


「リュカくんなら大丈夫。自分を信じてくださいね」

「……はい!」


 エリナの手の温かさが、じんわりと心に沁みていく。

 リュカは「また明日も来よう」と思いながら、ギルドをあとにした。



 ギルドには穏やかな日常が戻った。


 リュカは毎日のようにギルドに通った。まだ大きな依頼は受けられないけれど、小さな雑用やおつかいを重ねては、受付に報告するのが日課となっていた。

 そのたびにエリナは、「お疲れさまでした」「とても助かりましたよ」と優しく声をかけてくれる。リュカにとってそれは、ご褒美そのものだった。


 ある日の夕方、リュカは依頼から帰ってくると、カウンターの向こうで何やら書類仕事に追われているエリナの姿を見つけた。

 今日のエリナは、いつもより少しだけ疲れたように見える。制服のベストの胸元を、ほんの少しだけ緩め、額にかかる髪を指先で払うしぐさが、どこか大人びて見えた。

 リュカは思いきって声をかけた。


「あの、何かお手伝いできること、ありますか?」


 エリナは一瞬驚いたように顔を上げたが、すぐに微笑む。


「ありがとうございます。リュカくんは本当に優しいですね。でも、ここは私たち受付の仕事なので……」

「いえ、受付の仕事じゃなくても、その……。エリナさん、昨日からほとんど休んでいないって、他の受付嬢さんが話してて……。ぼく、何か役に立ちたいんです」


 エリナは少しだけ驚いた表情のまま、リュカをじっと見つめる。

 静かな沈黙が二人のあいだに流れた。

 やがて、エリナは小さく微笑む。


「ありがとう、リュカくん。……でも、みんなの前ではあんまり心配をかけたくなくて。少し無理をしちゃったかもしれません」

「やっぱり……無理してたんだ」

「受付はね、冒険者さんたちが無事に帰ってきてくれるのが一番嬉しいんです。だから、つい自分のことは後回しにしてしまうの。でも、こうやってリュカくんが声をかけてくれたのは、とても嬉しいです」


 エリナは手を止め、そっと椅子に腰かけた。珍しく、ふぅっと深い息を吐く。


「たまには甘えてもいいんですね、私も」


 その言葉に、リュカは思わず胸がどきどきした。


「もちろんです! ぼく、エリナさんの役に立ちたいんです!」


 そのまっすぐな言葉に、エリナの顔がほんのり赤くなる。


「うふふ、ありがとうございます。じゃあ、今日の帰りに書類をギルドマスターの部屋まで運ぶのを手伝ってくれる?」

「はい、任せてください!」



 仕事が終わった後の静かなギルド。

 受付の明かりだけが優しく灯る。

 リュカはエリナと一緒に廊下を歩き、ギルドマスターの部屋まで書類を運ぶ。普段は入ることのない廊下も、エリナと一緒だと不思議と心細さは感じなかった。


 途中、エリナがふと立ち止まる。


「リュカくん、ギルドって、どんな場所だと思いますか?」

「え……えっと、冒険者が依頼を受けて、報酬をもらう場所……?」


「そうですね。もちろん、それも大事な役割。でも私にとっては、ギルドは『誰かの人生が動き始める場所』だと思っています」

「人生が、動き始める……?」

「はい。冒険者さんはそれぞれ違う過去や夢を持っていて、ギルドに来て、一歩を踏み出す。……私も、実は昔、ただの平凡な村娘だったんです」


 リュカは目を丸くする。

 あの強くて優しいエリナにも、普通の女の子だった時代があったのか。


「初めてギルドで働いた日は、本当に緊張して、何度も失敗ばかりでした。でも、先輩や冒険者さんたちに支えられて、だんだん仕事が楽しくなっていって……。今はこの場所が、私にとって一番大切な居場所になったんです」

「……僕も、ここが好きです」


 リュカは素直な気持ちを口にした。


「え?」

「まだ大したことはできないけど、ギルドに来ると、自分も何かできるかもしれないって思えるんです。……それはきっと、エリナさんのおかげです」


 エリナは小さく微笑み、リュカの頭を軽く撫でる。


「ありがとう、リュカくん」


 二人はそのまま廊下を歩き、ギルドマスターの部屋の前までたどり着いた。

 書類を渡すと、ギルドマスターは重々しい声で言った。


「エリナ、そしてリュカ。よく手伝ってくれたな。おまえたちがいるおかげで、このギルドは今日も無事に回っている」

「ありがとうございます。……でも、今日はリュカくんのおかげです」

「ふむ、それは心強いな」


 ギルドマスターは豪快に笑い、二人を見送った。

 廊下に戻ると、外はすっかり夜になっていた。

 ギルドの灯りがぽつぽつと窓から漏れている。


「今日は本当に助かりました。……リュカくんのおかげで、また明日も頑張れそうです」


 エリナがそう言って微笑む。その横顔は、どこか弱さも垣間見えて、リュカは胸がきゅんとなった。

 それは、あの「鉄拳の受付嬢」のイメージとはまったく違う、ただの、一人の女の人としての素顔だった。


「……あの、エリナさん」

「はい?」

「ぼく、いつか……エリナさんみたいな人になりたいです。困っている人を助けて、みんなに信頼されて――」

「リュカくんなら、きっとなれますよ」


 エリナは自信たっぷりにそう言った。

 その夜、リュカはいつもより少しだけ誇らしい気分で、家に帰った。



 けれど、平穏な日々は長くは続かなかった。

 翌朝、ギルドが開くと同時に、慌ただしい足音と悲鳴がロビーに響き渡った。


「大変だ! 街の門の近くに魔物が出たぞ!」

「しかも、ただの魔物じゃない。伝説級の魔獣だ!」


 冒険者たちが騒然とする。

 ギルドマスターはすぐに出動命令を出し、強い冒険者たちが武器を手に駆け出していく。

 リュカも不安でいっぱいになりながら、エリナの顔を見る。

 エリナは一瞬だけ表情を引き締めた後、いつも通りの微笑みに戻った。


「みなさん、慌てずに行動してください。怪我をした人はすぐこちらに!」


 その声に、騒然としていた冒険者たちも少しずつ落ち着きを取り戻していく。

 しかし、状況は悪化していく。


「ギルドの外に魔獣が現れたぞ! 門番がやられた!」

「誰か助けてくれ――!」


 混乱が広がる。

 重苦しい空気がギルド中に満ちていく。

 リュカは息を呑んだ。


 エリナが静かに立ち上がる。


「受付嬢は、ギルドの顔です。……みなさん、落ち着いて、私についてきてください」



 ギルドの外には、黒雲のような重い気配が立ち込めていた。


 伝説級の魔獣――それは、かつてこの街に災厄をもたらしたとされる「黒炎のケルベロス」。三つ首の巨体から黒い炎を撒き散らし、並の冒険者では歯が立たないと噂される怪物だ。


 街の門は既に破壊され、門番たちは逃げ惑い、勇敢な冒険者たちすらもその咆哮に立ちすくんでいた。

 リュカもギルドのロビーから様子を窺い、足がすくんでしまう。

 冒険者の一人が血相を変えて戻ってきて叫ぶ。


「ダメだ! あいつは本物の化け物だ! 隊長たちが全滅した!」

「誰か、誰か……!」


 カウンターに立つエリナは、制服の上から、深緑のケープをふわりと羽織った。

 いつもの穏やかな笑顔は消え、凛とした真剣なまなざしが浮かんでいる。


「皆さん、私が前に出ます。そのあいだ、ギルドの中に避難してください。けが人の手当ては他の受付嬢たちが行います。ギルドマスター、指揮をお願いします」


 その言葉に、誰もが息を呑んだ。


「エリナさん、まさか……!」

「ま、待ってください! あんな魔獣にひとりで……!」


 だがエリナは、静かに首を振る。


「受付嬢は、ギルドの顔です。同時に――『ギルドの盾』でもあるのです」


 リュカは、その横顔を見つめていた。

 受付嬢としての優しさも、誰よりも強い覚悟も、すべてを背負って立つエリナ。

 その背中には、もう迷いはなかった。


「リュカくん、ここで皆さんのサポートをお願いします。大丈夫、きっと乗り越えられます」

「エリナさん……!」


 何か言いたかった。でも、リュカにはその背中を止める言葉が浮かばなかった。


 エリナは外に歩み出る。

 魔獣の咆哮が、石畳の広場に響き渡る。

 冒険者たちが立ちすくむ中、たったひとり、エリナだけが魔獣の前に立ちはだかる。


 その姿はまるで、荒れ狂う嵐の前に咲く一輪の花のよう。

 細く、小さく見えるのに、不思議なほど堂々としていた。


「こちらです。……ギルドに手を出す者は、誰であろうと許しません」


 三つ首のケルベロスが牙をむき、黒炎を吐きかけてくる。

 エリナはケープを翻し、片手で炎を受け流す。

 炎は一瞬だけ彼女の周囲にまとわりつき、そしてすぐにかき消えた。


「嘘だろ……?」

「人間なのか、あの受付嬢……?」


 誰かが呆然と呟く。

 魔獣が跳びかかってくる。

 エリナは紙一重で身をかわし、逆に魔獣の足元へ滑り込む。


「ギルドの平和は、私が守ります……!」


 その言葉と同時に、エリナの拳が地面を叩く。


 ――ズドンッ!!


 まるで大地ごと揺らすような一撃だった。

 魔獣の巨体が浮き上がり、三つ首が苦しげに吠える。


「……すごい」


 リュカは息を呑む。

 他の冒険者たちも、目を見開いて立ち尽くしている。

 エリナは微動だにせず、魔獣の前に立ちはだかる。


「もう一度だけ警告します。これ以上、ギルドに近づくなら……次は、容赦しません」


 魔獣が咆哮し、再び黒炎を吐く。

 エリナは一歩も引かず、拳を掲げて叫ぶ。


「受付嬢は――ギルドの誇りです!」


 エリナの拳が、閃光のように魔獣の顎を打ち抜いた。

 三つ首が一斉にのけぞり、魔獣は轟音とともに地面へ倒れ伏す。


 沈黙。

 やがて、魔獣はもがきながらも立ち上がることなく、ゆっくりとその身を溶かすように霧散していった。


 ――ギルドの前に、再び静けさが訪れる。

 誰もが息を呑み、やがて歓声が湧き上がった。


「やった……!」

「すごいぞ、受付嬢!」

「俺たちのギルドは、エリナさんがいる限り絶対に大丈夫だ!」


 エリナはゆっくりとギルドの中へ戻る。

 仲間の受付嬢たちが駆け寄り、涙ぐみながら彼女を囲む。


「エリナさん、本当に……!」

「ありがとうございます……!」


 リュカも、言葉にできない感情を胸いっぱいにしながら、エリナのそばへと駆け寄った。


「エリナさん、すごかったです……!」


 エリナは、少しだけ息を切らしながら、微笑む。


「ありがとう、リュカくん。みんなのおかげです。私は、みんながここで頑張る姿を見ているから、強くなれるんです」


 そのとき、ギルドマスターが大声で宣言した。


「本日、ギルドは最大の危機を乗り越えた! これは、受付嬢エリナの勇気と、全ての仲間たちの絆の勝利だ! 皆、誇りに思え!」


 冒険者たちは一斉にエリナに拍手を送った。

 リュカも、胸を張って手を叩いた。


 夕暮れ時、ギルドのロビーは安堵と喜びの空気に包まれていた。

 エリナは受付カウンターに戻り、いつものように穏やかな声で皆に呼びかける。


「今日もお疲れさまでした。怪我をした方は、受付までお越しください。明日の依頼の準備もお忘れなく」


 その声を聞くだけで、誰もが安心してギルドに身を預けられる気がした。


 リュカはカウンターの前に立ち、改めて思う。


「僕も、いつか……エリナさんみたいになりたい」


 その日から、リュカは冒険者としてだけでなく、ギルドを支える仲間としても、成長していくことを誓った。


 ギルドの受付嬢・エリナは、今日も笑顔で皆を迎える。

 困ったことがあれば、すぐに駆けつけてくれる。

 暴れるならず者が現れれば、一瞬でねじ伏せる。

 そして本当の危機が訪れたときには、誰よりも前に立ってギルドを守る。


 ――彼女こそが、ギルドのもうひとつの顔。

 皆が誇りに思う、「伝説の受付嬢」なのだ。

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