ギルドの朝は早い。
薄曇りの空の下、石畳の広場には、冒険者たちが今日も集まってくる。駆け出しの少年少女、筋骨隆々の戦士、ローブ姿の魔術師、獣耳を揺らす亜人族――年齢も種族も装備も様々だが、皆が目指すは同じ、「冒険者ギルド」の扉。
その受付で、今日もエリナは笑顔を絶やさない。
「おはようございます! 本日のご依頼、何かご相談でしょうか?」
エリナ。
このギルドの顔ともいえる受付嬢である。
その姿は、人混みの中でもすぐに分かる。
肩までまっすぐに伸びたエメラルドグリーンの髪。光を浴びて揺れるたび、翡翠のような艶が浮かぶ。瞳も同じ色合いで、見つめられるとふと心が鎮まるような、不思議な安心感を覚える。
整った顔立ちだが、きつさよりも柔らかさのほうが際立っていた。すっと通った鼻筋と、ほんのり紅を差した唇。笑うと頬に小さなえくぼができ、どこか少女のような幼さも残している。
彼女の制服は深緑色のベストと白いブラウス、足元には膝丈のスカート。事務的なはずなのに、どこか清楚で上品な雰囲気が漂っている。まっすぐ伸びた背筋と、しなやかな手の動き――まるで舞台女優のように、堂々としていて、かつ動作の一つ一つに気品があった。
「エリナさん、おはよう!」
「昨日の依頼、助かったよ!」
「また紹介してくれ!」
朝から絶え間なくカウンターに押し寄せる冒険者たち。誰もが彼女の前ではちょっとだけ猫をかぶってしまう。
リュカはその様子をカウンターの柱の陰から見ていた。
自分はまだ冒険者になりたての新米。ギルドに登録したのも、ほんの一週間ほど前。
エリナに初めて「がんばってくださいね」と微笑まれた日のことが、今でも忘れられない。
リュカが感じているのは、ただの美人受付嬢としての憧れではなかった。
エリナの一挙手一投足には、ギルド全体を包みこむような温かさがある。たとえば、依頼を受けてきた冒険者には必ず「傷はありませんか?」と声をかけ、心なしか体調の悪そうな者にはさりげなく回復薬を手渡している。
まだ幼い見習い魔法使いが不安げに順番を待っていれば、エリナはしゃがみ込んで視線を合わせ、「最初はみんな緊張しますよ」とそっと背中を押してやる。
かと思えば、馴れ馴れしい古参の大男に対しては、決して相手のペースに流されず、きっちり「ご依頼内容は正確にご記入をお願いします」と諭している。
どんな相手にも平等で、しかし一人ひとりに寄り添っている。
それが、リュカの目には眩しかった。
リュカは、自分がエリナのような立派な冒険者になれる日は来るのだろうか、とぼんやり考えながら、その横顔を見つめていた。
ふと、エリナがこちらに気づく。
「リュカくん、おはようございます。今日も来てくれて嬉しいです」
リュカは一瞬にして顔が熱くなり、慌てて立ち上がった。
「あ、はいっ、今日も……!」
言葉がどもる。
そんなリュカを、エリナは優しく微笑んで迎えてくれる。
「今日は、最初の依頼に挑戦してみますか? 簡単なおつかい系のものなら、きっと大丈夫ですよ」
差し出された依頼書。達筆な文字で「薬草採取」と書かれている。
「う、うん、やってみます!」
「無理はしないでくださいね。何かあればすぐ戻ってきて。……リュカくんなら、きっと大丈夫です」
その言葉が、まるで魔法のようにリュカの背中を押してくれる。
胸を張って依頼書を受け取り、リュカはギルドを飛び出した。
けれど、ギルドの一日はいつだってトラブルの連続だ。
筋骨隆々の大男が二人、まるで荒馬のようにどかどかとカウンターに近づいてくる。
「おい、受付! なんだこの報酬は!?」
「昨日の討伐依頼、俺たちが一番苦労したんだぞ!」
低い怒鳴り声がロビーに響く。机を乱暴に叩く音に、カウンターがミシミシと軋む。
冒険者たちは一斉に声をひそめ、誰もトラブルに巻き込まれたくないとばかりに距離をとる。
しかしエリナだけは、普段通りに静かな声で応じる。
「昨日の討伐依頼、ですね。少々お待ちください」
彼女は冷静に台帳をめくり、記録を確認し始めた。
「依頼主の証言では、報酬額は規定通りで……特に不備はありませんが?」
「はあ? 俺たちの働き、ちゃんと見てたのかよ!」
「もっと上乗せしろよ、受付!」
大男たちが身を乗り出し、カウンターの奥で他の受付嬢が小さく身をすくめる。
だがエリナの態度は変わらない。まるでこの程度の騒ぎなど、毎日茶碗を洗うくらい当たり前だと言わんばかりだった。
「申し訳ありません。ギルドの規定は公平です。ご納得いただけない場合は、正式に異議申し立てを――」
「うるせえ!」
大男の拳がカウンターに振り下ろされる。コップが跳ねて、依頼書が舞い上がった、その瞬間。
バシンッ!
気がつけば、エリナは机の上に立っていた。
誰もがエリナがどう動いたかを見ていない。ただ、大男の腕をがっしりと掴み、細い指でその拳を完全に押さえ込んでいる。
「大声は、他のお客様のご迷惑になります」
エリナの声はいつも通り柔らかいが、その瞳の奥に一瞬だけ、冷たい光が走った気がした。
「て、てめえ……!」
男が無理に腕を引こうとするが、びくともしない。細いはずのエリナの手が、まるで鋼のような力で男の手首を封じている。
もう一人の男が掴みかかろうとした。……が。
ドンッ。
二人の大男は、気づけばカウンターの前で正座していた。
「さて。お話は伺いました。ですが、ギルドの規定は規定です。ご理解いただけない場合は、これからギルドマスターに直接ご相談いただきますが……よろしいですね?」
「い、いえ……すみませんでした……」
「もう文句言いません……」
二人は、さっきの勢いが嘘のように大人しくなっていた。
エリナは、にっこり笑って彼らにコップを差し出す。
「では、落ち着いたところで、お水でもどうぞ。汗をかいているようですから」
「……ありがとうございます」
「……はい」
二人は借りてきた猫のようにコップを握る。
ロビーの空気が再び穏やかに戻っていく。
その様子を入口の陰から眺めていたリュカは、ただ唖然と立ち尽くすしかなかった。
(い、今の……本当に、あの受付嬢さん……?)
冒険者たちは知っている。
――このギルドで一番敵に回してはいけないのは、受付嬢・エリナだと。
◇
「……はぁ」
リュカはギルドの裏手の中庭で、小さくため息をついた。
薬草採取の依頼を受けたはいいが、街の外に出る前に、どうしてもエリナのことが頭から離れなかった。
さっき見た光景……大男たちを、まるで子どもをなだめるみたいに、いや、それ以上に圧倒的な力でねじ伏せたエリナ。あんなふうに人が動けるのか。
しかもそのあと、まるで何事もなかったように、いつものやわらかい笑顔で仕事を再開していた。
まるで舞台裏のない、完璧な女優。
いや、それ以上だ。
リュカは、改めてエリナのことを考える。
彼女は見た目も性格も「理想のお姉さん」という感じだ。困っている人には必ず手を差し伸べ、強い相手にも物怖じせず、どこまでも公平で優しい。
でも、その奥に、「触れてはいけない何か」がある。
……それを感じ取っているのは、自分だけじゃない。
さっきの一件を見ていた他の冒険者たちも、エリナに対して妙な距離感を持って接しているように思える。
親しみやすいのに、近寄りがたい。
矛盾しているはずなのに、それが不思議と両立している。
「やっぱり、エリナさんは特別なんだな……」
リュカは呟き、ギルドの建物を見上げた。
窓の向こう、カウンターに立つエリナの姿が、今日も変わらずに輝いているように見えた。
◇
ギルドの昼下がりは、朝の賑わいとはまた違った空気が流れる。
依頼の受付、報酬の精算、簡単なケガの治療や書類のやりとり。エリナはどんなに仕事が立て込んでいても、絶対に焦ったそぶりを見せない。
カウンターの内側を、しなやかな所作で行き来する。複数の書類を一瞬で振り分け、冒険者からの質問にも即座に答える。
ときには小さなトラブルにもきっちり対応する。たとえば、報酬を受け取ったはずの冒険者が「金額が違う」と言い出したときも、エリナはすぐに記録をチェックし、冷静に状況を整理してみせた。
「ご確認ありがとうございます。たしかに今回の報酬は銀貨八枚です。先ほど、間違いなくお渡しした記録が残っております。もし不足があれば、今ここで確認しましょうか?」
「……え、いや、たぶん俺の勘違いだ。悪い、すまん!」
冒険者はたじたじになって引き下がる。
その様子に周囲はくすくすと笑い、エリナは何もなかったように次の依頼者に声をかけた。
リュカは、その光景をギルドの片隅からぼんやり眺めていた。
自分はまだ、薬草採取に出る勇気が出ないでいた。エリナのことを考えているうちに、なんとなくまた受付の近くに戻ってきてしまったのだ。
「俺も、いつかあんなふうに堂々とした冒険者になれるのかな……」
そう思ったとき、エリナがふとリュカの方を見た。
すぐに近づいてきて、優しい声をかける。
「リュカくん、大丈夫ですか? 不安なことがあれば、なんでも相談してね」
「……あ、えっと、だいじょうぶ、です」
リュカは目をそらし、うつむいた。
「最初は、誰でも緊張するものですよ。私も、初めてギルドで働いた日は本当に手が震えて……ペンを落としちゃったくらい」
「エリナさんが、そんなふうになるなんて想像できません」
リュカは思わず本音を漏らしてしまった。
エリナは少し笑って、小さく首を傾げた。
「うふふ。私も最初は怖いことだらけでしたよ。でも、みんなに助けられて、今の自分があります。……だから、リュカくんにも、誰かの力になってほしいんです」
リュカはその言葉を、しっかりと胸に刻み込んだ。
エリナの笑顔が、心の奥まで染み込んでいく気がした。
◇
リュカはついに意を決して、街の外へと足を踏み出した。
薬草が生えているという丘は、ギルドから小一時間ほど歩いた場所にある。
依頼書に書かれた地図を何度も確認しながら、リュカは草原を進んだ。
途中、森の入口で道に迷ったり、足元の泥で転びそうになったりもしたが――。
そのたび、エリナの「リュカくんなら大丈夫です」という言葉を思い出して、立ち上がった。
日が傾き始めた頃、リュカはようやく薬草の群生地にたどり着いた。
小さな白い花が咲く薬草を摘みながら、リュカはどこか誇らしい気分になった。
まだ自分は弱い。でも、こうして一歩ずつ進んでいる。
薬草を集め終えた帰り道。リュカがギルドの建物に戻ると、ロビーはすっかり夕焼け色に染まっていた。
「おかえりなさい、リュカくん」
エリナがカウンターの向こうから声をかける。その声に、リュカはなぜか涙が出そうになった。
「薬草、ちゃんと集めてきたよ」
「うん、とてもよく頑張りましたね。今日はゆっくり休んでください」
エリナは、リュカの手からそっと薬草を受け取り、満足そうに微笑んだ。
その笑顔は、どこまでもあたたかく、やさしかった。
ギルドの一日は、いつも平和に終わるわけではない。
夜になれば、酔っ払いの冒険者が絡んできたり、外の魔物が街を脅かしたり――。
でも、受付カウンターの奥で、エリナが変わらず微笑んでいるかぎり、このギルドは、きっと大丈夫だ。
それはリュカだけでなく、ここに集う全ての冒険者たちが感じていることだった。
◇
翌朝。
ギルドのロビーには、昨日と同じように多種多様な冒険者たちが集まっていた。
けれど、その雰囲気にはどこか張り詰めたものが漂っている。
リュカは入口の近くで、少しそわそわしながら様子を窺っていた。
昨日、薬草採取の依頼を無事にこなしたとはいえ、まだまだ自信はない。それでも、ギルドという場所が、「帰ってきたくなる場所」に思えている自分に、少しだけ驚いていた。
カウンターでは、エリナがいつも通りに受付の仕事をしている。
「ご依頼の確認、承りました。……次に並んでいる方、どうぞ」
その声には張りがあり、カウンターに立つだけで場の空気が引き締まる気がする。
だが、その柔らかな表情は昨日と同じで、誰に対しても分け隔てなく優しい。
「やっぱり、あの人がいるだけで、ギルド全体が守られてる感じがするな……」
リュカがそんなことを考えていると、突然ギルドの扉が荒々しく開いた。
中に入ってきたのは、見覚えのある連中――昨日エリナに正座させられた大男たちが、仲間を引き連れてやってきたのだった。
「おい、また来たぞ!」
「今日はちゃんと話を聞いてもらうからな!」
数を盾にした彼らは、昨日よりもさらに威圧的な態度で、カウンターへと突進する。
ギルドの空気が、一気に緊張に包まれた。
「な、なんだ、あれ……?」
「またゴロツキどもがトラブルか……?」
周囲の冒険者たちはそっと距離を取る。
受付嬢たちも、エリナの背後に身を隠すようにしている。
エリナだけが、昨日と変わらぬ態度で、静かに彼らを見つめていた。
「皆さん、何かご用件でしょうか?」
「昨日の件だ。あれじゃ納得いかねぇ!」
「俺たちをバカにしたツケ、払ってもらうぞ!」
大男がエリナの目前に身を乗り出し、大剣を振り上げる。
周囲が凍りついた。
けれど、エリナは微動だにしない。
「ギルド内での暴力行為は禁止されています。どうかお控えください」
その言葉に、一瞬だけ男の動きが止まる。だが、すぐに凄みを増して叫んだ。
「うるせえ! 昨日の仕返しだ!」
剣が振り下ろされる――。
その瞬間、エリナが動いた。
目にもとまらぬ速さだった。
小柄なエリナが、まるで空気のように男の懐へと滑り込む。
バシィッ――!
乾いた音が響き、次の瞬間、大男の動きがピタリと止まる。
エリナの白い手が、男の手首を掴み、無理なく止めていた。
「もう一度だけ、申し上げます。ギルド内での暴力は禁止です」
「う、うぐ……」
大男は顔を歪めた。
エリナの指先が、ほんの少しだけ力を込める。
それだけで、まるで鋼鉄の枷にはめられたように、男の腕はまったく動かなくなる。
「な、なんだこいつ……!」
後ろの仲間が、エリナを取り囲むように詰め寄る。
「おい、離しやがれ!」
「やっちまえ!」
だが、エリナはまったく慌てた様子もない。
むしろ静かに、淡々とした口調で続ける。
「ギルドは、すべての冒険者が安心して集える場所です。暴力を持ち込むなら、しかるべき手続きを取らせていただきます」
「ふざけんな!」
「女のくせに、調子に乗るなよ!」
怒号が飛ぶ。
リュカは思わず息をのんだ。
けれど――。
エリナの小さな身体がふわりと舞う。
そして、次の瞬間には男たちの前に立ちはだかっていた。
「……!」
バタバタ、と次々に大男たちが床に倒れ伏す。
まるで一陣の風が吹き抜けたかのように、エリナは軽やかに、しかし一切の無駄なく男たちをいなしていく。
「ぐっ……」
「な、なんでだ、こいつ……」
圧倒的な力の前に、屈強な冒険者たちはただ呆然とするしかなかった。
しばらくして、倒れた男たちがようやく立ち上がる。
エリナはその一人ひとりに、きっちりと目を合わせる。
「申し訳ありませんが、規定により本日以降、皆さまのギルド利用を一定期間停止させていただきます。ご不服の場合は、ギルドマスターに直接申し立ててください」
「……っ!」
男たちは何も言い返せず、そのままうなだれてギルドを出て行った。
静寂が戻ったロビー。
冒険者たちが一斉に息をつく。
「すげぇ……」
「あれが、俺らのギルドの受付嬢……」
囁き声が広がる。
リュカもまた、その光景に圧倒されていた。
◇
事件の後、ギルド内は驚きと安堵でいっぱいだった。
受付カウンターでは、他の受付嬢たちがエリナに小声で声をかけている。
「エリナさん、すごかったです……」
「本当に、助かりました……!」
エリナはいつもの穏やかな微笑みを浮かべて、みんなを安心させる。
「大丈夫ですよ。私の仕事は、みなさんが安心して働ける場所を守ることですから」
その言葉に、冒険者も受付の仲間たちも、誰もが心から頷いた。
リュカは、カウンターの端から、エリナの横顔をじっと見つめていた。
あんなに強いのに、ぜんぜん偉ぶったりしない。それどころか、みんなを支えることが一番だって、本気で思っている……。
自分が冒険者として何者でもないことが、なんだか恥ずかしくなった。
でも、それ以上に、あんな人のそばで自分も何かできるようになりたい、と強く思った。
「リュカくん?」
気づけば、エリナがすぐそばまで来ていた。
「だ、大丈夫です、僕……!」
緊張して言葉が詰まる。
でも、エリナは小さく笑って、肩をポンと叩いてくれた。
「リュカくんなら大丈夫。自分を信じてくださいね」
「……はい!」
エリナの手の温かさが、じんわりと心に沁みていく。
リュカは「また明日も来よう」と思いながら、ギルドをあとにした。
◇
ギルドには穏やかな日常が戻った。
リュカは毎日のようにギルドに通った。まだ大きな依頼は受けられないけれど、小さな雑用やおつかいを重ねては、受付に報告するのが日課となっていた。
そのたびにエリナは、「お疲れさまでした」「とても助かりましたよ」と優しく声をかけてくれる。リュカにとってそれは、ご褒美そのものだった。
ある日の夕方、リュカは依頼から帰ってくると、カウンターの向こうで何やら書類仕事に追われているエリナの姿を見つけた。
今日のエリナは、いつもより少しだけ疲れたように見える。制服のベストの胸元を、ほんの少しだけ緩め、額にかかる髪を指先で払うしぐさが、どこか大人びて見えた。
リュカは思いきって声をかけた。
「あの、何かお手伝いできること、ありますか?」
エリナは一瞬驚いたように顔を上げたが、すぐに微笑む。
「ありがとうございます。リュカくんは本当に優しいですね。でも、ここは私たち受付の仕事なので……」
「いえ、受付の仕事じゃなくても、その……。エリナさん、昨日からほとんど休んでいないって、他の受付嬢さんが話してて……。ぼく、何か役に立ちたいんです」
エリナは少しだけ驚いた表情のまま、リュカをじっと見つめる。
静かな沈黙が二人のあいだに流れた。
やがて、エリナは小さく微笑む。
「ありがとう、リュカくん。……でも、みんなの前ではあんまり心配をかけたくなくて。少し無理をしちゃったかもしれません」
「やっぱり……無理してたんだ」
「受付はね、冒険者さんたちが無事に帰ってきてくれるのが一番嬉しいんです。だから、つい自分のことは後回しにしてしまうの。でも、こうやってリュカくんが声をかけてくれたのは、とても嬉しいです」
エリナは手を止め、そっと椅子に腰かけた。珍しく、ふぅっと深い息を吐く。
「たまには甘えてもいいんですね、私も」
その言葉に、リュカは思わず胸がどきどきした。
「もちろんです! ぼく、エリナさんの役に立ちたいんです!」
そのまっすぐな言葉に、エリナの顔がほんのり赤くなる。
「うふふ、ありがとうございます。じゃあ、今日の帰りに書類をギルドマスターの部屋まで運ぶのを手伝ってくれる?」
「はい、任せてください!」
◇
仕事が終わった後の静かなギルド。
受付の明かりだけが優しく灯る。
リュカはエリナと一緒に廊下を歩き、ギルドマスターの部屋まで書類を運ぶ。普段は入ることのない廊下も、エリナと一緒だと不思議と心細さは感じなかった。
途中、エリナがふと立ち止まる。
「リュカくん、ギルドって、どんな場所だと思いますか?」
「え……えっと、冒険者が依頼を受けて、報酬をもらう場所……?」
「そうですね。もちろん、それも大事な役割。でも私にとっては、ギルドは『誰かの人生が動き始める場所』だと思っています」
「人生が、動き始める……?」
「はい。冒険者さんはそれぞれ違う過去や夢を持っていて、ギルドに来て、一歩を踏み出す。……私も、実は昔、ただの平凡な村娘だったんです」
リュカは目を丸くする。
あの強くて優しいエリナにも、普通の女の子だった時代があったのか。
「初めてギルドで働いた日は、本当に緊張して、何度も失敗ばかりでした。でも、先輩や冒険者さんたちに支えられて、だんだん仕事が楽しくなっていって……。今はこの場所が、私にとって一番大切な居場所になったんです」
「……僕も、ここが好きです」
リュカは素直な気持ちを口にした。
「え?」
「まだ大したことはできないけど、ギルドに来ると、自分も何かできるかもしれないって思えるんです。……それはきっと、エリナさんのおかげです」
エリナは小さく微笑み、リュカの頭を軽く撫でる。
「ありがとう、リュカくん」
二人はそのまま廊下を歩き、ギルドマスターの部屋の前までたどり着いた。
書類を渡すと、ギルドマスターは重々しい声で言った。
「エリナ、そしてリュカ。よく手伝ってくれたな。おまえたちがいるおかげで、このギルドは今日も無事に回っている」
「ありがとうございます。……でも、今日はリュカくんのおかげです」
「ふむ、それは心強いな」
ギルドマスターは豪快に笑い、二人を見送った。
廊下に戻ると、外はすっかり夜になっていた。
ギルドの灯りがぽつぽつと窓から漏れている。
「今日は本当に助かりました。……リュカくんのおかげで、また明日も頑張れそうです」
エリナがそう言って微笑む。その横顔は、どこか弱さも垣間見えて、リュカは胸がきゅんとなった。
それは、あの「鉄拳の受付嬢」のイメージとはまったく違う、ただの、一人の女の人としての素顔だった。
「……あの、エリナさん」
「はい?」
「ぼく、いつか……エリナさんみたいな人になりたいです。困っている人を助けて、みんなに信頼されて――」
「リュカくんなら、きっとなれますよ」
エリナは自信たっぷりにそう言った。
その夜、リュカはいつもより少しだけ誇らしい気分で、家に帰った。
◇
けれど、平穏な日々は長くは続かなかった。
翌朝、ギルドが開くと同時に、慌ただしい足音と悲鳴がロビーに響き渡った。
「大変だ! 街の門の近くに魔物が出たぞ!」
「しかも、ただの魔物じゃない。伝説級の魔獣だ!」
冒険者たちが騒然とする。
ギルドマスターはすぐに出動命令を出し、強い冒険者たちが武器を手に駆け出していく。
リュカも不安でいっぱいになりながら、エリナの顔を見る。
エリナは一瞬だけ表情を引き締めた後、いつも通りの微笑みに戻った。
「みなさん、慌てずに行動してください。怪我をした人はすぐこちらに!」
その声に、騒然としていた冒険者たちも少しずつ落ち着きを取り戻していく。
しかし、状況は悪化していく。
「ギルドの外に魔獣が現れたぞ! 門番がやられた!」
「誰か助けてくれ――!」
混乱が広がる。
重苦しい空気がギルド中に満ちていく。
リュカは息を呑んだ。
エリナが静かに立ち上がる。
「受付嬢は、ギルドの顔です。……みなさん、落ち着いて、私についてきてください」
◇
ギルドの外には、黒雲のような重い気配が立ち込めていた。
伝説級の魔獣――それは、かつてこの街に災厄をもたらしたとされる「黒炎のケルベロス」。三つ首の巨体から黒い炎を撒き散らし、並の冒険者では歯が立たないと噂される怪物だ。
街の門は既に破壊され、門番たちは逃げ惑い、勇敢な冒険者たちすらもその咆哮に立ちすくんでいた。
リュカもギルドのロビーから様子を窺い、足がすくんでしまう。
冒険者の一人が血相を変えて戻ってきて叫ぶ。
「ダメだ! あいつは本物の化け物だ! 隊長たちが全滅した!」
「誰か、誰か……!」
カウンターに立つエリナは、制服の上から、深緑のケープをふわりと羽織った。
いつもの穏やかな笑顔は消え、凛とした真剣なまなざしが浮かんでいる。
「皆さん、私が前に出ます。そのあいだ、ギルドの中に避難してください。けが人の手当ては他の受付嬢たちが行います。ギルドマスター、指揮をお願いします」
その言葉に、誰もが息を呑んだ。
「エリナさん、まさか……!」
「ま、待ってください! あんな魔獣にひとりで……!」
だがエリナは、静かに首を振る。
「受付嬢は、ギルドの顔です。同時に――『ギルドの盾』でもあるのです」
リュカは、その横顔を見つめていた。
受付嬢としての優しさも、誰よりも強い覚悟も、すべてを背負って立つエリナ。
その背中には、もう迷いはなかった。
「リュカくん、ここで皆さんのサポートをお願いします。大丈夫、きっと乗り越えられます」
「エリナさん……!」
何か言いたかった。でも、リュカにはその背中を止める言葉が浮かばなかった。
エリナは外に歩み出る。
魔獣の咆哮が、石畳の広場に響き渡る。
冒険者たちが立ちすくむ中、たったひとり、エリナだけが魔獣の前に立ちはだかる。
その姿はまるで、荒れ狂う嵐の前に咲く一輪の花のよう。
細く、小さく見えるのに、不思議なほど堂々としていた。
「こちらです。……ギルドに手を出す者は、誰であろうと許しません」
三つ首のケルベロスが牙をむき、黒炎を吐きかけてくる。
エリナはケープを翻し、片手で炎を受け流す。
炎は一瞬だけ彼女の周囲にまとわりつき、そしてすぐにかき消えた。
「嘘だろ……?」
「人間なのか、あの受付嬢……?」
誰かが呆然と呟く。
魔獣が跳びかかってくる。
エリナは紙一重で身をかわし、逆に魔獣の足元へ滑り込む。
「ギルドの平和は、私が守ります……!」
その言葉と同時に、エリナの拳が地面を叩く。
――ズドンッ!!
まるで大地ごと揺らすような一撃だった。
魔獣の巨体が浮き上がり、三つ首が苦しげに吠える。
「……すごい」
リュカは息を呑む。
他の冒険者たちも、目を見開いて立ち尽くしている。
エリナは微動だにせず、魔獣の前に立ちはだかる。
「もう一度だけ警告します。これ以上、ギルドに近づくなら……次は、容赦しません」
魔獣が咆哮し、再び黒炎を吐く。
エリナは一歩も引かず、拳を掲げて叫ぶ。
「受付嬢は――ギルドの誇りです!」
エリナの拳が、閃光のように魔獣の顎を打ち抜いた。
三つ首が一斉にのけぞり、魔獣は轟音とともに地面へ倒れ伏す。
沈黙。
やがて、魔獣はもがきながらも立ち上がることなく、ゆっくりとその身を溶かすように霧散していった。
――ギルドの前に、再び静けさが訪れる。
誰もが息を呑み、やがて歓声が湧き上がった。
「やった……!」
「すごいぞ、受付嬢!」
「俺たちのギルドは、エリナさんがいる限り絶対に大丈夫だ!」
エリナはゆっくりとギルドの中へ戻る。
仲間の受付嬢たちが駆け寄り、涙ぐみながら彼女を囲む。
「エリナさん、本当に……!」
「ありがとうございます……!」
リュカも、言葉にできない感情を胸いっぱいにしながら、エリナのそばへと駆け寄った。
「エリナさん、すごかったです……!」
エリナは、少しだけ息を切らしながら、微笑む。
「ありがとう、リュカくん。みんなのおかげです。私は、みんながここで頑張る姿を見ているから、強くなれるんです」
そのとき、ギルドマスターが大声で宣言した。
「本日、ギルドは最大の危機を乗り越えた! これは、受付嬢エリナの勇気と、全ての仲間たちの絆の勝利だ! 皆、誇りに思え!」
冒険者たちは一斉にエリナに拍手を送った。
リュカも、胸を張って手を叩いた。
夕暮れ時、ギルドのロビーは安堵と喜びの空気に包まれていた。
エリナは受付カウンターに戻り、いつものように穏やかな声で皆に呼びかける。
「今日もお疲れさまでした。怪我をした方は、受付までお越しください。明日の依頼の準備もお忘れなく」
その声を聞くだけで、誰もが安心してギルドに身を預けられる気がした。
リュカはカウンターの前に立ち、改めて思う。
「僕も、いつか……エリナさんみたいになりたい」
その日から、リュカは冒険者としてだけでなく、ギルドを支える仲間としても、成長していくことを誓った。
ギルドの受付嬢・エリナは、今日も笑顔で皆を迎える。
困ったことがあれば、すぐに駆けつけてくれる。
暴れるならず者が現れれば、一瞬でねじ伏せる。
そして本当の危機が訪れたときには、誰よりも前に立ってギルドを守る。
――彼女こそが、ギルドのもうひとつの顔。
皆が誇りに思う、「伝説の受付嬢」なのだ。