見渡す限り砂の続く大地を、一人の少女が歩いていた。
太陽は中天にあり、少女の被った笠越しでもその陽差しの強さが分かるほどだ。
重たい歩みを一度止め、ふうと息ついた少女――
まだまだ目的地は見えてこない。
こめかみの汗が頬を伝って顎先から落ちていく。首元の包帯が張りついて気分が悪かった。
仕事だからと官服を着てきたが丈の長い服は歩きにくくてかなわない。それでも陽差しに晒すと瞬く間に肌が焼けるだろうと容易に想像出来るので、まくることも出来ないのだ。上司である
燈霞が最寄りの街――
それなのに燈霞の深紅の瞳には、依然として砂、砂、砂――見渡す限りの砂漠である。
(懍葉さんは日暮れまでにはつけるって言ってたけど……)
果たして本当か。燈霞はここへ来る前に聞いた上司の言葉に疑問を持ち始めていた。
だってこうも見晴らしがいいのに、視界には砂しか映らない。
もしや方角を間違えたかと懐の羅針盤を確認するが、迷子にはなっていないらしい。まあ、この羅針盤が壊れていたら迷っていることにすら気づくことは出来ないのだが。
「それにしても春になったばかりなのになんだってこんなに暑いの」
それこそ三蕗に泊まったときは春の過ごしやすい陽気だったはずだ。それなのに街を出て砂漠に一歩入った途端、気候は激変した。
柔らかく降り注いでいた陽差しはギラギラと肌を焼くように突き刺さり、辺り一面を重たい熱気が包み込んだのだ。
「まさかここら一帯が全部
そんなわけ……と思いつつ、そうでもないとこの異常気象を説明できない。仙法とは人の
こんな大がかりな術を施せるなど、とことん仙師は人からかけ離れた存在なのだと実感する。
素直に感嘆を覚えつつ、その術でこうして苦労させられている身としては悪態の一つや二つ自然とこぼれるものだ。
「いくら囚人に逃げられちゃかなわないからって、こんな辺り一面砂漠にすることないじゃない、の、よ!」
緩やかな斜面になっていた砂山を大股で登りきった。すると、砂の地平線の上に指先程度の黒いものがぽつんと見えた。
あれがお目当ての
こんな砂漠地帯にそれ以外の建造物があるはずがない。
まだまだ距離はありそうだが、それでも目の届く範囲に終点が見えただけでも気が楽になる。
よし、もう一踏ん張りね。
燈霞は心の中で自身を鼓舞し、そうして意気込んだ足並みで獄舎へと向かった。
燈霞は法術科挙に合格した呪師官吏だが、所属は都――
しかも呪史
呪史とは呪法の史料のことであり、呪法とは法術の中の一つだ。
法術には呪法、解法、仙法の三つが存在する。
「まじないの法術」と書いて呪法と読む。呪法とはあらゆる物質、生命に対して意図的に特定の効果を付与するものだ。例えば人に対して足を速くする、力を強くする効果を与えたり、また物の強度を上げたり、逆に脆くしたり。その効果は千差万別。
解法とは、読んで字のごとく呪法でかけられた効果を「解く」術のこと。
そして、呪法、解法ともに極めた者のごく一部の人間だけが辿り着ける境地が仙法である。
法術を学んだ者の大半は呪法のみの会得に限られる。合わせて解法を駆使できるのはその半分程度。仙法を会得したものは歴史上でもそう数はみない。
燈霞の所属する呪史編纂部とは、呪法にまつわる記録をつける係のことだ。
新たな呪法の発明、または既存術の改正、呪法による事件や事故などとにかく呪法がらみのことはなんでも記録をつけ、毎年呪法の史料――呪史を作る。
同じように解史編纂部、仙史編纂部も存在するが、会得人口の差もありその二つは都の本部のみで、地方にまで部署が置かれているのは呪史のみだ。
そして、法術関連の部署は圧倒的に実務部隊が花形であって、ほぼ内勤である呪史編纂部は、比喩だけでなく実際に窓際に置かれている部署なのである。
そして、そんな部署部屋からほとんど出ない燈霞がこんな遠方まで一人足を運ぶのは、つい一週間前に上司からもたらされたある言葉のせいだった。
「燈霞ちゃん、あなたちょっと囚人の監視役になってきてくれる?」
欠伸を携えた燈霞が登庁して早々――それも荷物を置くよりも前に、待ち構えていた上司である懍葉はそう言い放った。
女性でもうっとりしてしまうほどの美貌をもつ懍葉は、官服の襟元を緩めて大胆に首筋や胸元を露わにしているが、いやらしさがないのだからすごいものだ。鎖骨にある花のような痣は普通なら傷物と揶揄されるだろうに、彼女にすれば蠱惑的な魅力の一つにしかならない。
肌を大きく見せた姿は神々しいという言葉さえふさわしく思えるほどだ。そういえば廊下ですれ違った別部署の新人の男がこの美しさに平伏しているところを見たな、と燈霞は目の前の上司から逃避するように思い出した。
「聞こえてる? それとも燈霞ちゃんの頭はそんなにお寝坊さんだったかしら」
「それって
「ふふ。私がそんなミスに気づかないと思うの?」
「懍葉さんだってそんなときがあるかもしれないじゃないですか」
「気づかないと思うの?」
「……思いません」
圧のある笑顔に屈した燈霞は逃げるように自身の執務机についた。が、話は終わってないとばかりに呼び戻されてしまい、ダメか……と諦めて懍葉のもとに向かう。
「函神獄舎の囚人の一人がなんでも『
「
「そう、呪いよ」
それは珍しいこともあるものだ。
呪法は正しくは「まじない」と「呪い」の二種類に分けられる。だが、呪いはすでに廃れたもので、しかも公には術の使用が禁止されている。
「それで? まさか珍しい事例だから間近で観察してこいとか言うんじゃないですよね?」
「燈霞ちゃんのそういう察しのいいところが私は大好きよ」
「うっそ……本当に言ってます?」
冗談半分……いや、もう丸っきり冗談のつもりで言ったので燈霞は蒼白して慌てる。
「だって囚人てことは極悪人ですよね? そんな人のそばに可愛い部下をやるんですか!?」
「可愛いからこそよ。可愛い子には旅をさせろっていうでしょ?」
それに燈霞ちゃんなら大丈夫よ、と微塵も崩れない笑みが告げてくる。なにを根拠にと内心で毒づいた。
「監視って言うと物騒に聞こえるけど、正確には呪いを解くお手伝いをしてきて欲しいの」
「手伝いですか?」
「そうなの。なんでもその死刑囚の子、死ねない呪いにかかっちゃったみたいでね。刑を執行できないから、呪いを解かなきゃいけないのよ」
「は――? 今死刑囚って言いました?」
「呪いを解くために一時的に出獄させるみたいなんだけど、燈霞ちゃんにはそれに付き添って欲しいの……まあいわゆる監視役ね」
「いや、それより今死刑囚って――」
「言われた期日が一週間後なのよ。少しギリギリだけど、今すぐ出て急げば間に合うと思うから」
よろしくね、燈霞ちゃん。
紅を引いた唇がにっこりと深い笑みを作る。
半ば放心していた燈霞は、あれよあれよと急かされるままにこうして砂漠を闊歩しているわけだ。
「ここの区域担当の役人がいるだろうに、どうしてわざわざ遠方の私が……!」
たしかに燈霞は法術を会得しているので最低限の身を守ることは出来るだろう。その力が一般的な呪師の中でも優れたものである自覚もある。
だが、それは呪史編纂部の仕事ではない。荒事は専ら実務部隊の役割だ。
「私は窓際部署で目立たずひっそりお金もらって質素に生きていきたいのに!」
疲労が重なるにつれて零れる文句も増えていく。
そうしてやっとの思いで辿り着いた獄舎は、あまり見ない建築様式をしていた。これも仙師の創造物なのだろうか。
「これが獄舎?」
すでに陽は傾き始めている。濃くなった陽差しに照らされる獄舎はずいぶんと黒々としていた。
夜の闇よりも濃い黒だ。
遠目で見たときには砂漠に黒い箱が置かれているようにも見えた。建物というよりも、四角い大きな部屋のようだ。
「これ、どこが玄関口?」
見渡してみても扉とおぼしきものがない。どころか見る限り窓もない。本当にここが獄舎なのだろうか。それとも獄舎だからこういう造りなのか。
つるりとした艶のある壁が真っ直ぐ広がっているだけだ。恐る恐る手のひらで触ってみたり、指の関節でこんこんと叩いてみる。
「すみませーん! 呪史編纂部の汐燈霞です! どなたかいらっしゃいませんかぁ!」
すかさず耳をそばだてるが応える声はない。
途方に暮れ、燈霞はぐったりとため息をついた。
もしかして自分が獄舎だと思っているだけで本当にただの馬鹿でかい箱なんじゃ……そんなことが頭を過ったときだ。
「すみません遅くなりました!」
「ひょっ――!」
突然目と鼻の先に青年が現れた。自分でも聞いたことのない細い悲鳴が漏れて崩れ落ちかける。尻の引けた体勢で目を瞠っていると、現れた青年はのほほんとした顔で笑いかけてきた。
「汐燈霞さんですよね。お話は聞いてます。思っていたより早い到着だったので出迎えが遅れてすみません」
どうぞどうぞと中へ促される。
どうやら壁と思われていた一部分はちゃんと玄関口だったようだ。
燈霞の知る扉とはずいぶん違う。押戸でも引き戸でもなく、壁の一部がそのまま四角く切り抜かれたような門をおずおずとくぐり抜ける。
「あの、あなたは……?」
「あ、申し遅れました。僕はここの獄吏の
「あなたが獄吏……?」
「はい、そうですよ?」
どうしてですかと首を傾いだ青年は、年の頃は十九の燈霞とそう変わらないように思える。
穏やかそうな顔立ちの裕洵と囚人を囲う獄舎というのは、どうにも繋がらない。もっと体格の良い厳めしい男が務めていると思っていたから、想像と現実とのズレに妙な心地になる。
「燈霞さんは
「まあ、はい」
にこにこした顔で言われると、まるで自分が率先してやって来たお人好しのようだ。懍葉の前での無駄な抵抗を思い返し、少し苦い思いで曖昧に頷く。と同時に、颯天か――と今回の担当する囚人の名を刻んだ。
今回の任務の話を聞いてから出立まで時間がなかったのと、変な先入観を持たないようにと担当する死刑囚に関する情報は教えてもらえなかった。
唯一知っているのが、
「今日はもう日が暮れますから颯天くんと会うのは明日にしましょうって
「ありがとうございます」
ここまでの道のりで疲労がたまっていたから助かる。
到着してすぐに囚人と引き合わされてほっぽり出されたんじゃたまらないと思っていたところだ。
通された部屋は獄吏のための生活拠点なのだと思う。必要な家具はすでに用意されていたが、誰かが暮らしている生活感はない。余り部屋なのだろうか。
ここに来るまでにも思ったが、見慣れない外観とは打って変わって、内装はむしろ親しみ深いものだ。
獄舎というからもっと冷たく硬質な印象を抱いていたが、むしろ誰もが親しみを持つ一般住居のような柔らかさがある。廊下を歩いているだけでは、ここが獄舎だと忘れてしまいそうだ。
「ほかの獄吏の方はまだお務め中ですよね。あとでご挨拶に伺っても?」
訊くと、裕洵は質問の意味を図るように首を捻り、そうして合点がいったように「ああ」と声をあげた。
「ここで働いているのは僕と功篤さんだけなので気にしないで大丈夫ですよ」
「ふた、二人だけ?」
「はい。といっても、函神獄舎に収容される人は少ないですし、監視や拘束などもほとんど功篤さんの法術でまかなえてしまうので……僕のやることはほとんどないんです」
「はあ……そうだったんですね」
「はい。あと一人いるんですけど、僕でもお会いするのが稀なので……だからお気になさらず今日はゆっくり休んでください!」
では! と元気のよいかけ声を置いて、裕洵は持ち場へ戻っていった。のんびりした後ろ姿は、やはり獄吏だとは思えない。
部屋には燈霞一人がぽつんと残された。
「二人だけなんてそんなことある……?」
こんなことならもっと懍葉に根掘り葉掘り訊いておくんだったな、と燈霞は後悔した。けれど、頭を働かせる余力もなく、ふらふらと吸い寄せられるように寝台へと向かった。
落ち着ける場所についたからか、どっと緊張の糸が切れて身体がだるさを覚え始めたのだ。
(お腹もすいたけど、ひとまず今は休もう)
長時間不安定な砂の上を歩き続けた身体は、一休みと称して布団に横になると同時に簡単に寝入ってしまった。