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第3話


「まさか半日近く寝ちゃうなんて……」

 つまり昨日の昼餉も夕餉もとらずに朝までぐっすり眠ってしまったのだ。食に関しては貪欲だと自覚がある燈霞は、自分が二食も抜いたことに――強いては空腹で目を覚まさなかったことに衝撃を受けた。

「三蕗からここまで距離がありますし、歩き通しだったからきっとそのせいですよ。朝餉はいっぱい食べられたんだしいいじゃないですか」

 隣を歩く裕洵は、やっぱり脳天気さを前面に出した顔で慰めるように言った。

「裕洵さんてここに配属されて長いんですか?」

「ここにですか? えーと、ひい、ふう……今年で三年目になりますね」

「辛くありません? 周りになんにもないし、人の少なさを見れば休みだってほとんどないですよね?」

 いくら仕事が少ないと言っても、囚人と隣り合わせな閉鎖空間では息も詰まるはずだ。

 人の良さが顔にも態度にも出るような裕洵にはことさら辛いだろう。

 「早く異動があるといいですね」と燈霞は同情した。半分は形式的な労りだったが、裕洵はきょとりとしてから邪気のない顔で笑った。

「僕は意外とここでの生活気に入ってますよ。配属だって希望通りですし」

「え、わざわざ獄舎に希望を出したんですか?」

「はい! だって函神獄舎って響きが可愛いじゃないですか!」

 憐れむ気持ちが一瞬で飛び去った。残されたのは理解出来ない疑念だけだ。

「あ、ここです! ここが颯天くんのいる部屋ですよ」

 前方に見えた部屋に裕洵が小走りで向かうと、振り返って大きく手を振って呼びかけてくる。燈霞はそれに無意識に振り返しながら「変な人だなあ」と失礼なことを思った。



 裕洵が案内してくれた部屋は、面会室のようだった。

 部屋はそう広くはなく、中央には質素な卓が一つ。そしてそこに向かい合うように座る二人――手枷をはめられた女とずいぶん年を召した男性が温かいお茶を嗜んでいる。は? お茶?

「え……?」

 てっきり屈強な死刑囚が不機嫌そうに、または不敵に笑って待ち構えているものだと思った。そして、その隣にはそんな囚人を鋭い目で見る獄吏がいるのだろうと。

 そんな燈霞の想像を打ち砕くように、女と老爺ろうやはまた一口湯気の立つ茶を飲んだ。

「あー! 颯天くん功篤さん、それって僕が買っておいた茶葉じゃないですか! 高かったんですよ!」

 ずるいです。二人だけで飲んじゃって。と、燈霞を通り越した裕洵がぶうぶう文句を言って自分の分もお茶を淹れ始めた。

 茶器を片手に燈霞を振り返る。

「燈霞さんもいかがですか? このお茶、実は胡毘のほうで大大大流行中の高級茶葉らしいですよ!」

「はあ……じゃあ一杯だけ」

 開いた口が塞がらないまま促されて、用意された椅子に座った。

 本来二人掛けだろう卓の四方に四人でかけるとずいぶん狭苦しい。

(いや、どういう状況?)

 我に返りかけ、しかし「どうぞ」と目の前に差し出されたお茶を反射で受け取ってつい口に含んでしまう。

 お茶はまずまずの出来に思えた。高級茶葉だと言っていたが、それほどのものとは思えない。

 思わず手元の茶器をまじまじと見てしまう。

 都でそこまで流行っているというのもなんだか疑わしい。そこまで大流行してたらさすがに燈霞だって耳にしたことぐらいはありそうなものだ。

 女官たちほど流行に鋭いわけではないが、かといって鈍感すぎるとも思わない。

「おい裕洵~。お前絶対またぼられたぜ。これそんなに美味くねえもん」

 女は行儀悪く指先だけで空にした茶器を持ってぶらぶらと揺らしながら不満を口にする。その向かいの功篤は皺だらけの両手で茶器を抱えたままこくりと頷いて同意を示した。

「え~そんなあ。またかあ」

 ガクリと肩を落とした裕洵だが、次の瞬間には持ち直して「これはこれで美味しいけどなあ」と茶を飲んでいた。

 まるで茶屋の軒先のような気楽さだ。

 ここに囚人と獄吏が揃っているなど、事情を知らないものから見れば信じられないだろう。

 かくいう燈霞も空気に飲まれてしずしずと茶を楽しんでいたわけだ。

「って、お茶を飲んでる場合じゃありません! これは一体どういうことですか!?」

 我に返り、机に両手をついて立ち上がる。

「杏颯天は男だと聞いています。まさかこの老爺が杏颯天だと!?」

「いえ、こっちのおじいちゃんは功篤さんです。颯天くんはこっちですね」

 裕洵の示した先には、やはり手枷をはめた女が乱暴に椅子にかけている。

「女性じゃないですか!」

 少女といっても良さそうな小柄で愛らしい面差しの女だ。しかし、囚人用の簡素な服を纏う身体は肉付きのよい女性らしい体つきをしている。くりくりした丸い金眼は長い睫毛に縁取られているし、円やかな頬は薔薇色に染まって愛らしい。黒い髪も艶やかで、囚人生活を送っているようには到底見えない。

 言動に粗野が見える以外は、背ばっかり高くてひょろりとしてる燈霞よりよっぽど女性らしいじゃないか。一体どこを見て男だと言うのだ。

「燈霞さん、もしかして颯天くんがなんの呪いにかかったか訊いてないんですか?」

「……死刑囚なのに死ねない呪いにかかったと」

「それもあるんですけど、こうやって女性になる呪いにもかかってるんです」

「はあ!?」

 目を剥いて女――颯天を見る。彼、いや彼女は、燈霞と目が合うと「そうなんだわ」とあっけらかんとした様子で手を上げた。



 裕洵からの話では、颯天は現在二つの呪いにかかっているという。

 一つ、死ぬことが出来ない。

 二つ、女になっている。

「つまり、今回私はこの杏颯天を男に戻して死刑の執行が出来るように呪いを解けってことですか?」

 面会室の椅子に座っていた燈霞は額を抑えて唸るように言った。

「はい。ですよね、功篤さん?」

 裕洵の問いに、老爺の首がまたこくりと動く。

 それまで静かに茶を飲んでいた功篤が不意に茶器を置いて立ち上がった。三人が――主に燈霞が騒いでいる間にちゃっかり飲み終えている。

 動いた功篤に、裕洵がすかさず「あ、枷を外します?」と意図を汲み取った。

「お、枷外してくれんのか?」

 颯天が両手を差し出すと、功篤は指を二本立てて枷に向かって滑らせた。

 途端、鉄枷が重たい音を立てて床に落ちる。

 軽くなった腕に颯天が喜色ばんだ。しかし、続けて功篤が颯天の手首に向けて滑らかに指を動かすと、彼の顔が瞬く間に曇る。

「おい、功篤の爺さん。今なにやったんだ?」

「鉄枷をしたままじゃ外に出られないから、見えない枷に変えたんですよ。ね?」

 裕洵の言葉に頷く功篤。「げえっ」と颯天はおおよそ今の愛らしい姿からは想像出来ない濁った声で鳴いた。

 燈霞はというと、目の前で起こった事実に目を見開いていた。

 今さっき功篤が施したのは、元々鉄枷にかけられていた「拘束」の術をとくための解法。そして、今度は枷という物体ではなく、颯天という生身の人間に対して条件付きでの行動を許すという呪法を重ねた。

 物への効果付与はそう難しいものではないが、対象が生き物となると難易度は格段に上がる。本来はもう少し儀式的な手順を踏むところを、なんと功篤は略式の一文字を描くだけで術を施して見せたのだ。

(解法まで習得してるみたいだし、もしかしてこのお爺さんとんでもない実力者なんじゃ……)

 生唾を飲んで功篤を見下ろす。

 まさかここら辺一体の仙法はこの人のものじゃ――と疑問を持ったとき、功篤は髭を携えた口許をぱかりと開けて欠伸をこぼした。

 気づいた裕洵が時刻を確認する。

「あ、そろそろいつもの昼寝の時間ですね」

 昼寝だと? まだ朝餉を食べてそう経っていないだろう。

(……この人が仙師なんてことあり得ないわね)

 拍子抜けした燈霞はのそのそと部屋を出て行く老爺の小柄な背中を、乾いた笑いで見送った。

 引き継ぐように、裕洵が二人に説明する。

「颯天くんは一時的に出獄できますが、今功篤さんがつけてくれた枷の効果で燈霞さんから長距離離れることが出来ないので気をつけてくださいね。逃げようなんて思っちゃだめですよ?」

「それって具体的にどれぐらいの距離だよ」

「それは功篤さんに訊かないと」

「じゃあ功篤の爺さんに今すぐ訊いてこい!」

 裕洵の襟元を掴んで引き寄せた颯天が吠える。ガクガク揺さぶられながら裕洵は弱った顔になった。

「無理だよ~功篤さん一回寝るとお腹がすくまで起きないもん」

 それは颯天も聞き及んでいることなのか、一転して彼は脅し目的の拳をすぐにおろして仕方がないと席についた。しかし不満は簡単には収まらないのかぶつぶつと小さい声で悪態をついている。

「それよりも早くでないと日暮れまでに三蕗につけないよ」

 夜の砂漠はすっごく冷えるから死んじゃうよ? と、裕洵が言うので颯天と燈霞はつい目を合わせた。



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