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第6話

 通路の先、目の前に広がった空間に俺は思わず息を呑む。


 広大な祭壇の間。闇の中で、渦巻く模様が床一面を覆っている。その模様はまるで生きているかのように、青緑の光を放ちながら脈動していた。血管の中を毒が流れているような、そんな不気味さもあり、音もなく震えるようなハミングが、耳ではなく胸の奥に響いてくる。


 この広間が一番空気が重い。湿った息を吸い込むたびに、肺の奥まで何かに侵食されるような感覚がする。


 なぜかルーンの手綱を握っている手の力が抜け、ひとりでに足が前へ進む。俺とほかの人を分断するように、天井から厚い壁が落ちてきた。大きな音をたてたそれに驚いて振り返っているのに、意思とは別にして何かに導かれるように祭壇の前に進み出る。


「願いに見合う犠牲を捧げなさい、アレックス。両親の記憶を――お前の最後の温もりをよこせ」


 その声は耳ではなく、頭の内側からはっきりと聞こえた。それは誰かの声でも、幻聴でもない。もっと根源的な、魂の芯に届く“命令”だった。


 次の瞬間、視界がゆらりと滲む。意識が引き裂かれ、幻覚が一気に流れ込んできた。


 俺を嬉しそうに見つめる母の笑顔。寒い日の朝、手を包んでくれた温もり。 頼りがいのある父の大きな背中。言葉少なに、でも確かにそこにいた存在。その記憶が、砂の城のように見る間に崩れていく。優しい声が消え、温もりが抜け落ち、俺の中から何かが――“支え”が――無理やり剥がされていった。


 否応なしに両手が震える。指からふっと力が抜け、剣がカチンと床を打った。


 心が軋んで、言いようのない不安が胸を駆け巡る――。


「ああ、両親との思い出を……永遠に失うなんて……」


 息が詰まり、涙がこみ上げる。だけど俯いた視線の先、壁画に描かれた人々の姿が目に留まった。


 群衆が手を伸ばし、共に立ち上がろうとしていた。互いを助け合い、支え合う姿――それはまるで、今の俺たちのように見える。


(――そうだ、ガレンが言ってたじゃないか。俺はもう、ひとりじゃない!)


「一人じゃ駄目だ。皆でやらなきゃ……!」

「どけ、馬の世話係!」


 重たい石の壁を壊したのだろう。怒声と共に、バルド様が傍に駆け込んできた。剣を抜いた姿は荒々しく、でもその目には恐怖と……それ以上に強い、自分を守ろうとする必死さがそこにあった。


「願いを叶える石は俺のものだ! 俺が英雄になる!」


 その言葉は虚勢のよう。バルド様の声は、なぜだか震えている。


 そして彼が飛びついたのは、俺の目の前にある本物の祭壇ではなく、広間の影に隠された不気味に黒光りする祭壇。明らかに偽りの罠と思われるそれに近づく彼に、大声で叫んだ。


「バルド様、罠ですっ!」


 思わず体が動いた。俺は地面を蹴り、バルド様に向かって跳んだ。馬の世話で鍛えた脚力と反射神経――今だけは自分の経験すべてを信じ、叫ぶと同時に、肩からぶつかるように彼を突き飛ばした。

 ドッと胸にぶつかる重み。だがその瞬間――。


 ズズン!


 偽りの祭壇が青黒く輝き、床が炸裂するように割れた。そこから噴き出したのは、無数の黒い触手だった。まるで蛇のようにしなるそれらは空気を裂いてうなりを上げ、俺たちを標的に襲いかかる。


「うわああぁっ!」


 視界がぐるりと反転した。俺はバルド様と共に地面を転がりながら、背後から襲いくる一本の触手を予備で持っていた短剣で叩き落とす。だが別の一本が足に絡みつき、強引に引き戻された。


 ずるずると石の床を引きずられ、体が宙に浮く――次の瞬間、胴を締め上げられた。肺がつぶれるような圧迫感に呻き声が漏れる。


「ぐ、く……っ!」


 腕に激痛が走る。焼けつくような苦しみに目をしかめると、皮膚に渦巻き模様が浮かびあがっていくのが見えた。


(これが……呪い……!?)


 焼けるようなビリビリした痛み。皮膚が灼かれ、腕に渦巻きの紋様がどんどん刻まれていく。叫んでしまうほどの激痛の中、バルド様の呻きが聞こえた。


「俺……忘れられたくなかっただけなのに――」


 その言葉はまるで、俺自身の心の奥を代弁しているようだった。


 俺だって、ずっとそうだった。誰かに必要とされたくて、誰かのためになりたくて、でも何も持っていない自分が嫌で仕方なかった。


 どうにもならない状況に諦めかけたその時、鋭い嘶きがこだました。


「ルーン……!」


 視線を向けるとルーンが何度も前足を蹴り上げ、扉の前に立っていた。俺の方を見て、短く吠える。その動きは狂気にも似て、まるで「しっかりしろ!」と俺に怒鳴っているようだった。


 その一声が、心に火を灯した。


「バルド様! 諦めないでください!  俺たちで姫様を救わなければ!」


 バルド様は目を見開き、そして悔しそうに唇を噛んで力なく頷いた。そのタイミングで駆け込んできたのは、レイナ様とガレンだった。


 レイナ様の剣が躍るように風を切り、渦の触手を鮮やかに薙ぎ払い、すべてを斬る。ガレンはルーンに支えられ、血だらけの顔で叫んだ。


「アレックス、壁画を見ろ! 一緒に触るんだ!」


 レイナ様が俺の肩を強く掴む。その瞳には、恐れも迷いもなかった。


「リリアーヌ姫はあなたを信じてた。私もよ」


 言葉が魂に届く。誰かに信じてもらえるなんて――それだけで心が満たされる気がした。


 だからこそ、覚悟が生まれた。


「……姫のために。王国のために。皆のために!」


 バルド様も、しぶしぶながら一歩前に出てきた。そして、ぼそっと言う。


「後悔させんなよ、馬の世話係」


 俺たち四人は、ひとつの祭壇の前に並んだ。


「一人が払え」


 石が最後の問いを俺たちに突きつけてくる。だが、もう迷わない。


「皆で払う! これが俺たちの願いだ!」


 四人の手が石に触れると、鋭い痛みが全身に駆け抜けた。皆で同じ場所に触れているからか、互いの思考が手に取るようにわかる。


 俺は父と母の記憶を失った。心が裂けるようだったが、不思議と空っぽにはならなかった。仲間が隣にいる。その事実が支えになった。


 ガレンはぐらりと膝をつき、呼吸が乱れた。レイナ様の目には涙が浮かび、リリアーヌ姫の思い出の一部が消えていくのを感じた。バルド様は叫びもせず、ただ拳を固く握っていた。誇りの一部が崩れていくのを、じっと耐えているようだった。


 そして石が光を放った。まばゆい閃光が闇を貫くと、壁に蠢く渦巻き模様が消え去っていく。重苦しかった空気が澄み、部屋がようやく“空間”として落ち着いたように感じた。


 祭壇がゆっくりと沈み、入れ替わるように地上に続く階段が現れる。四人で触れた石は俺の掌に収まり、まるで夏の朝のような温かな光を放っていた。


「やった!」


 成功した感動で胸が震えた。喜びで。誇りで。涙が滲む。だがその直後、渦巻き模様の焼け跡がじくりと疼いた。


 掌の中にある石が、皆に呼びかけるように囁く。


「呪いは見ている」


 その言葉に、背筋がぞわりと凍る。この戦いは終わってなどいない――そう告げていた。


 レイナ様がガレンを支えながら言った。


「急いで城に戻りましょう。間違いなくリリアーヌ姫の時間が少ないわ」


 バルド様が静かに言った。


「馬の世話係、お前の活躍悪くなかったぞ」


 俺はルーンのたてがみに手を添え、にっこりとほほ笑む。


「行こう。リリアーヌ姫を救いに!」


 掌の石を胸に抱いて仲間と共に、俺たちは遺跡を後にする。希望という名の重みを抱えて。

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