目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報
ひとつとせ、舟唄は夜を越えて
ひとつとせ、舟唄は夜を越えて
秋初夏生
現実世界青春学園
2025年05月18日
公開日
2.4万字
完結済
潮の香りに包まれた港町。 高校生の航は、古びた町と未来の見えない日々に息苦しさを感じながら、音楽だけを支えに過ごしていた。 ある夏、東京から帰郷した卒業生に誘われ、町おこしの夏祭りで和太鼓とのコラボステージに参加することに。 仲間と音を重ね、祖父が口ずさむ古い舟唄と向き合う中で、航の中に変わり始めるものがあった──。 「ひとつとせ、舟唄は夜を越えて」 これは、海辺の町で継がれてきた歌が、一人の少年の夢と旅立ちに寄り添う、静かで熱い音の物語。

第1話

 朝日が、ゆらゆらと波に揺れる小舟のへりを金色に染めていた。

 カモメの鳴き声、岸辺に打ち寄せる潮の音。町の目覚めを告げるように、漁師たちの掛け声が空へ溶けていく。


「……もう朝か」


 わたるは重たいまぶたを持ち上げ、寝癖のついた髪を手ぐしでかき上げた。階下から母の声が飛んでくる。


「航! 七時よ、遅刻するわよ!」


 ふう、と息をつき、布団をはねのけて立ち上がる。

 エアコンの冷気が残る部屋の床はひやりと冷たく、指先がわずかに身を縮めた。机の上には昨夜、寝落ち寸前まで向き合っていたノート。

 メロディーの断片と、ところどころ空白のままの歌詞。ちらりと眺めてから、近くにあった教科書ごと鞄に押し込んだ。


 階段を降りると、ふわりと湯気が鼻先をくすぐる。味噌汁の香り、焼いたアジの匂い。

 どこか機械的な安心感。毎朝決まってそこにある匂いは、もはや「家庭」という記号のようにも思える。


 食卓には白ご飯、味噌汁、漬物、小さな干物。華やかさはないが、整っている。

 その向こう、窓際には祖父がいた。新聞を膝に広げたまま、かすれた声で歌っている。


「♪ 星を見上げ 北を頼りに夜を越え〜」


 ──また、あの歌だ。


 毎朝欠かさず歌う、祖父の持ち歌。音程は少し外れていて、声も年齢を感じさせる。でも、それでも歌う。

 昔のように、力強く、胸を張って──ではなくなった。


 かつて、港で網を干しながら、ロープを巻きながら、大きな声で歌っていた祖父。

 魚の匂いも、海水の冷たさも、全部が冒険だった子どもの頃。その世界の真ん中にいた祖父は、太陽の下で笑いながら、まるでヒーローみたいに見えた。


「じいちゃん、今度の漁、連れてって!」


 せがんでは、困らせて。けれど祖父はいつも、やれやれと笑いながらも、どこか嬉しそうだった。

 海の底のようにきらめいていた、あの目。今も──どこかに、残っているのだろうか。


 椅子に深く腰掛けた祖父の背中は、すっかり小さくなっていた。肩は細く、指先はかすかに震えている。

 昔の祖父を、この姿に重ねようとするたび、胸の奥がきしんだ。


 航は視線をそらす。

 悲しいわけじゃない。寂しいだけでもない。

 ただ、思い出と現実を並べることが、苦しかった。


「じいちゃん、……おはよう」


 口からこぼれた声は、少し遅れて、そして不自然にどこか硬かった。


「……おう」


 祖父は顔も上げず、新聞をめくる音だけが続く。その隙間から、歌だけがまだ漏れていた。


 「味噌汁、冷めるわよ」


 母が流しから声をかける。


「うん」


 椅子に腰を下ろし、味噌汁に口をつけた。

 煮干しの出汁がふわりと広がる。でも、味を感じる前に、飲み込んでしまった。


「昨日の模試、どうだった?」


 母の声は何気ない。けれど、その裏にある“期待”は、隠しきれていない。


「普通」


 口の中に残っていたご飯を飲み込みながら、できるだけ淡々と答える。

 本当は、何を言っても“正解”じゃない気がしていた。

 頑張ってると答えれば、「もっと早く言いなさい」と返されるし、迷ってるといえば、「そんなんじゃダメよ」と続く。


「進路の相談は? 先生、何か言ってたでしょ?」


 心がざらりとささくれた。

 何気ない問いに見せかけて、こちらの反応を測ってくるような、そんな空気。

 味噌汁の香りが、一瞬だけ苦く感じられた。


「……行ってくる」


 箸を置いた。カチ、と少し大きな音が鳴る。

 わざとじゃない。でも、わざとだと受け取られてもおかしくない程度の勢いで。


 椅子を引いて立ち上がる。残したご飯は、茶碗の半分ほど。


「ちょっと、まだ食べかけでしょ」


 母の声が背中に飛んでくる。小言のトーン。

 でも振り返る気にはなれなかった。


「だから朝はちゃんと起きなさいって言ってるのよ。せっかく作ったのに、いつも途中で出ていって……」


 言葉は続いていたけれど、航はすでに廊下に向かっていた。

 ギターケースを背負いながら、ただ無言で靴を履く。


 背後から、祖父のかすれた歌声がまだ漏れ聞こえていた。


「♪ 舵を離すな〜 進むだけ……」


 ──まるで、その歌だけが、この家の“朝”を成り立たせているみたいだった。


 玄関の扉を開けると、潮の匂いを孕んだ風が吹きつけた。ぬるくて、重たくて、肌の奥まで染み込んでくる空気。


 ──これさえなければ、もっと息がしやすいのに。

 そう思いながら、航は黙って家を出た。



 その日、あの曲が、街に広がるきっかけになるとは──まだ誰も知らなかった。

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?