朝日が、ゆらゆらと波に揺れる小舟のへりを金色に染めていた。
カモメの鳴き声、岸辺に打ち寄せる潮の音。町の目覚めを告げるように、漁師たちの掛け声が空へ溶けていく。
「……もう朝か」
「航! 七時よ、遅刻するわよ!」
ふう、と息をつき、布団をはねのけて立ち上がる。
エアコンの冷気が残る部屋の床はひやりと冷たく、指先がわずかに身を縮めた。机の上には昨夜、寝落ち寸前まで向き合っていたノート。
メロディーの断片と、ところどころ空白のままの歌詞。ちらりと眺めてから、近くにあった教科書ごと鞄に押し込んだ。
階段を降りると、ふわりと湯気が鼻先をくすぐる。味噌汁の香り、焼いたアジの匂い。
どこか機械的な安心感。毎朝決まってそこにある匂いは、もはや「家庭」という記号のようにも思える。
食卓には白ご飯、味噌汁、漬物、小さな干物。華やかさはないが、整っている。
その向こう、窓際には祖父がいた。新聞を膝に広げたまま、かすれた声で歌っている。
「♪ 星を見上げ 北を頼りに夜を越え〜」
──また、あの歌だ。
毎朝欠かさず歌う、祖父の持ち歌。音程は少し外れていて、声も年齢を感じさせる。でも、それでも歌う。
昔のように、力強く、胸を張って──ではなくなった。
かつて、港で網を干しながら、ロープを巻きながら、大きな声で歌っていた祖父。
魚の匂いも、海水の冷たさも、全部が冒険だった子どもの頃。その世界の真ん中にいた祖父は、太陽の下で笑いながら、まるでヒーローみたいに見えた。
「じいちゃん、今度の漁、連れてって!」
せがんでは、困らせて。けれど祖父はいつも、やれやれと笑いながらも、どこか嬉しそうだった。
海の底のようにきらめいていた、あの目。今も──どこかに、残っているのだろうか。
椅子に深く腰掛けた祖父の背中は、すっかり小さくなっていた。肩は細く、指先はかすかに震えている。
昔の祖父を、この姿に重ねようとするたび、胸の奥がきしんだ。
航は視線をそらす。
悲しいわけじゃない。寂しいだけでもない。
ただ、思い出と現実を並べることが、苦しかった。
「じいちゃん、……おはよう」
口からこぼれた声は、少し遅れて、そして不自然にどこか硬かった。
「……おう」
祖父は顔も上げず、新聞をめくる音だけが続く。その隙間から、歌だけがまだ漏れていた。
「味噌汁、冷めるわよ」
母が流しから声をかける。
「うん」
椅子に腰を下ろし、味噌汁に口をつけた。
煮干しの出汁がふわりと広がる。でも、味を感じる前に、飲み込んでしまった。
「昨日の模試、どうだった?」
母の声は何気ない。けれど、その裏にある“期待”は、隠しきれていない。
「普通」
口の中に残っていたご飯を飲み込みながら、できるだけ淡々と答える。
本当は、何を言っても“正解”じゃない気がしていた。
頑張ってると答えれば、「もっと早く言いなさい」と返されるし、迷ってるといえば、「そんなんじゃダメよ」と続く。
「進路の相談は? 先生、何か言ってたでしょ?」
心がざらりとささくれた。
何気ない問いに見せかけて、こちらの反応を測ってくるような、そんな空気。
味噌汁の香りが、一瞬だけ苦く感じられた。
「……行ってくる」
箸を置いた。カチ、と少し大きな音が鳴る。
わざとじゃない。でも、わざとだと受け取られてもおかしくない程度の勢いで。
椅子を引いて立ち上がる。残したご飯は、茶碗の半分ほど。
「ちょっと、まだ食べかけでしょ」
母の声が背中に飛んでくる。小言のトーン。
でも振り返る気にはなれなかった。
「だから朝はちゃんと起きなさいって言ってるのよ。せっかく作ったのに、いつも途中で出ていって……」
言葉は続いていたけれど、航はすでに廊下に向かっていた。
ギターケースを背負いながら、ただ無言で靴を履く。
背後から、祖父のかすれた歌声がまだ漏れ聞こえていた。
「♪ 舵を離すな〜 進むだけ……」
──まるで、その歌だけが、この家の“朝”を成り立たせているみたいだった。
玄関の扉を開けると、潮の匂いを孕んだ風が吹きつけた。ぬるくて、重たくて、肌の奥まで染み込んでくる空気。
──これさえなければ、もっと息がしやすいのに。
そう思いながら、航は黙って家を出た。
その日、あの曲が、街に広がるきっかけになるとは──まだ誰も知らなかった。