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第6話

 廊下の板が小さく軋む音に、航は足を止めた。

 ふすまの奥、祖父の部屋には明かりがなく、月の光だけが障子越しに淡く差していた。


 時間はまだ21時前。

 けれど、その日の祖父はもう布団に入り、じっと天井を見つめていた。


 いつもと同じ。言葉はなく、視線は空を漂っている。

 まるで、誰にも届かない場所を見つめているようだった。


「……じいちゃん」


 返事はない。けれど、航はそっと部屋に入り、ギターを抱えて座り込む。


 部屋の隅に置いてあるアコースティックギターは、夏休みに入る前、拓に借りたままのものだった。

 電気を通さないぶん、音はどこまでも素朴で、どこか古い記憶の中の音に似ていた。


「……あのさ」


 ギターを膝に乗せたまま、航は言った。


「いつも歌ってる“舟唄”って、あるだろ?……教えてほしいんだ。最初から最後まで」


 言葉は、空気に溶けたまま返ってこない。


 航は、ギターの弦に指を置き、ゆっくりと一音を鳴らす。コードを押さえ、あのメロディに指を這わせる。


「♪ ひとつとせ〜 帆をあげろ……」


 音はかすかで、震えを含んでいた。

 でも、その震えが、静まり返った部屋の隅々へと届いていく。


 祖父の眉が、わずかに動いた。


 「星を見上げ 北を頼りに 夜を越え……」


 航が声を重ねていくと、祖父の唇がわずかに揺れた。


「……風に押されて……帆を張れば……」


 それは、かすれた声だった。

 言葉の輪郭は弱く、聞き取りづらい。

 けれど、確かに航の耳に歌として届いた。


「……朝日を目指して……櫂を鳴らす……」


 航は必死に、その言葉を追いかけた。

 一語一語、記憶の底から浮かび上がるように語られる断片を、何ひとつ落とさぬよう心のなかに刻みつける。


 祖父の眼差しは、どこか遠いところを見ている。

 だが今、その瞳の奥に、微かに揺れる光が見えた。


「……約束の島へ……祈りを運ぶ……」


 それが終わると、祖父は目を閉じた。

 静かな息が、布団の中でゆっくりと上下している。


 航は、音を止めた。

 ギターの弦が揺れを残したまま、室内に余韻を溶かしていく。


 音が、祖父の記憶を呼び戻した。


 ほんの一瞬だったかもしれない。

 けれどそれは確かに、かつての“船乗り”としての祖父がそこにいた時間だった。


 航は、ギターの弦をそっと撫で、頭を下げるようにして、静かに立ち上がった。


 月の光は変わらず障子を透かしていたが、その色が、どこか少しだけあたたかくなったような気がした。


 ◇


  翌日、航はギターケースを肩にかけ、少し早めに部室へ入った。


 いつもなら静まり返っている放課後の音楽準備室には、すでに低く重い打音が鳴り響いていた。

 見慣れたドラムセットの横に据えられているのは──和太鼓。

 先週から商工会議所の練習用に貸してもらっているもので、今は軽音部の部室に鎮座している。


 その前に立ち、バチを握っているのは拓だった。

 Tシャツの袖をまくり、腕をしならせて──ドン、ドドン。

 普段のドラムスティックよりも大きく重いバチで、舟唄のリズムをなぞるように繰り返していた。


 航は机の上にギターケースを置き、開いたノートをそっと確認する。

 そこには、昨夜祖父から聴き取った舟唄の歌詞が、断片的にメモとともに貼られていた。


「“ひとつとせ、帆をあげろ/星を見上げ 北を頼りに 夜を越え──”」


 低く呟くように、航が声に出す。

 まだ言葉は重たく、旋律に馴染ませるには硬い。けれど、その奥には確かに何かが息づいていた。


「それ、航のじいちゃんから聞き出したのか?」


 太鼓を叩き終えた拓が、バチを床に立てかけながら問いかけた。


「昨日、歌ってくれた。……一部かもしれないけど、なんとか“十とせ”まで繋がった」

「すげえ……数え歌だから、そこまで揃えば十分じゃん!」

「メロディも、今ある形が本当に正しいかはわかんない。でも……形にしたい」


 航の言葉に、明澄が顔を上げる。


「これって、アレンジ……しますよね?」

「うん。和太鼓とのコラボでやる曲にしたいと思ってる」

「コード進行は? 繰り返しの構成は?」

「ベースライン、あまり動かさずに音数絞った方が、太鼓と呼応できるかもしれないですね」


 陸と明澄が、ノートとタブレットを見比べながら話を詰めていく。


 ──だが、最初の音合わせは、決して簡単ではなかった。


 航がギターを鳴らす。

 その背後で、拓が太鼓を叩く。

 響きは太く、深く──だが、どこかズレていた。


 明澄のサンプラーが、波打ち際のような低音を流し込むが、リズムはちぐはぐで、音の重なりはまるで合わない。


「ストップ、もう一回……ごめん、俺がずれてた」

「音量のバランス、変えた方がいいかも。ギター、ちょっと沈んでる」

「いや、それより太鼓の拍が……一小節、早い?」

「……そっちが遅れてるんじゃない?」


 音の軌道が噛み合わない。

 だが、誰も投げ出そうとはしなかった。


 何度もやり直す。キーを落とし、テンポを引き直し、陸がベースの音を減らし、明澄がパッドの設定を調整する。


 拓はバチの角度を変えながら、何度も舟唄のリズムを叩き直した。


 そして──。

 航が静かに息を吸い、声を響かせた。


「♪ ひとつとせ──帆をあげろ──」


 拓の太鼓が応える。

 低く、深く、静かな波のように。


 そこにベースが重なり、ギターがすべり込み、サンプラーの音が空間を包み込んだ。


 ──音が、ひとつの波になった。

 誰かの手が止まった。


「……いまの、ちょっと……来てましたね」


 明澄が声を上げた。

 航は小さく頷く。


「……揃ってた、少しだけど」

「じゃあ、もう一回」


 拓が笑みを浮かべてバチを構える。


 音が重なる。呼吸が繋がる。

 太鼓とギターと声が、ひとつの舟に乗って、同じ方向へと漕ぎ出していた。


 誰かが、ふと息を漏らすように笑った。

 それは歓声でも達成感でもない。

 ただ、ひとつの感触が自分の中に残った証だった。


 部室の窓からは、ゆるくなった夏の夕風が入り込んできていた。

 航はその場に深く息を吐き出してから、そっとギターのネックを見つめた。


 ──この音を届けたい。

 この町の人たちに。

 そして、母に。


 過去の音を受け継ぎながら、いまを生きる声として届けるなら──この一曲は、きっと自分にとって最初の“約束”になる。


 航は、ギターの弦に軽く指を添え、音も鳴らさずに静かに立ち上がった。

 その足取りには、これまでよりも確かな芯があった。

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