廊下の板が小さく軋む音に、航は足を止めた。
ふすまの奥、祖父の部屋には明かりがなく、月の光だけが障子越しに淡く差していた。
時間はまだ21時前。
けれど、その日の祖父はもう布団に入り、じっと天井を見つめていた。
いつもと同じ。言葉はなく、視線は空を漂っている。
まるで、誰にも届かない場所を見つめているようだった。
「……じいちゃん」
返事はない。けれど、航はそっと部屋に入り、ギターを抱えて座り込む。
部屋の隅に置いてあるアコースティックギターは、夏休みに入る前、拓に借りたままのものだった。
電気を通さないぶん、音はどこまでも素朴で、どこか古い記憶の中の音に似ていた。
「……あのさ」
ギターを膝に乗せたまま、航は言った。
「いつも歌ってる“舟唄”って、あるだろ?……教えてほしいんだ。最初から最後まで」
言葉は、空気に溶けたまま返ってこない。
航は、ギターの弦に指を置き、ゆっくりと一音を鳴らす。コードを押さえ、あのメロディに指を這わせる。
「♪ ひとつとせ〜 帆をあげろ……」
音はかすかで、震えを含んでいた。
でも、その震えが、静まり返った部屋の隅々へと届いていく。
祖父の眉が、わずかに動いた。
「星を見上げ 北を頼りに 夜を越え……」
航が声を重ねていくと、祖父の唇がわずかに揺れた。
「……風に押されて……帆を張れば……」
それは、かすれた声だった。
言葉の輪郭は弱く、聞き取りづらい。
けれど、確かに航の耳に歌として届いた。
「……朝日を目指して……櫂を鳴らす……」
航は必死に、その言葉を追いかけた。
一語一語、記憶の底から浮かび上がるように語られる断片を、何ひとつ落とさぬよう心のなかに刻みつける。
祖父の眼差しは、どこか遠いところを見ている。
だが今、その瞳の奥に、微かに揺れる光が見えた。
「……約束の島へ……祈りを運ぶ……」
それが終わると、祖父は目を閉じた。
静かな息が、布団の中でゆっくりと上下している。
航は、音を止めた。
ギターの弦が揺れを残したまま、室内に余韻を溶かしていく。
音が、祖父の記憶を呼び戻した。
ほんの一瞬だったかもしれない。
けれどそれは確かに、かつての“船乗り”としての祖父がそこにいた時間だった。
航は、ギターの弦をそっと撫で、頭を下げるようにして、静かに立ち上がった。
月の光は変わらず障子を透かしていたが、その色が、どこか少しだけあたたかくなったような気がした。
◇
翌日、航はギターケースを肩にかけ、少し早めに部室へ入った。
いつもなら静まり返っている放課後の音楽準備室には、すでに低く重い打音が鳴り響いていた。
見慣れたドラムセットの横に据えられているのは──和太鼓。
先週から商工会議所の練習用に貸してもらっているもので、今は軽音部の部室に鎮座している。
その前に立ち、バチを握っているのは拓だった。
Tシャツの袖をまくり、腕をしならせて──ドン、ドドン。
普段のドラムスティックよりも大きく重いバチで、舟唄のリズムをなぞるように繰り返していた。
航は机の上にギターケースを置き、開いたノートをそっと確認する。
そこには、昨夜祖父から聴き取った舟唄の歌詞が、断片的にメモとともに貼られていた。
「“ひとつとせ、帆をあげろ/星を見上げ 北を頼りに 夜を越え──”」
低く呟くように、航が声に出す。
まだ言葉は重たく、旋律に馴染ませるには硬い。けれど、その奥には確かに何かが息づいていた。
「それ、航のじいちゃんから聞き出したのか?」
太鼓を叩き終えた拓が、バチを床に立てかけながら問いかけた。
「昨日、歌ってくれた。……一部かもしれないけど、なんとか“十とせ”まで繋がった」
「すげえ……数え歌だから、そこまで揃えば十分じゃん!」
「メロディも、今ある形が本当に正しいかはわかんない。でも……形にしたい」
航の言葉に、明澄が顔を上げる。
「これって、アレンジ……しますよね?」
「うん。和太鼓とのコラボでやる曲にしたいと思ってる」
「コード進行は? 繰り返しの構成は?」
「ベースライン、あまり動かさずに音数絞った方が、太鼓と呼応できるかもしれないですね」
陸と明澄が、ノートとタブレットを見比べながら話を詰めていく。
──だが、最初の音合わせは、決して簡単ではなかった。
航がギターを鳴らす。
その背後で、拓が太鼓を叩く。
響きは太く、深く──だが、どこかズレていた。
明澄のサンプラーが、波打ち際のような低音を流し込むが、リズムはちぐはぐで、音の重なりはまるで合わない。
「ストップ、もう一回……ごめん、俺がずれてた」
「音量のバランス、変えた方がいいかも。ギター、ちょっと沈んでる」
「いや、それより太鼓の拍が……一小節、早い?」
「……そっちが遅れてるんじゃない?」
音の軌道が噛み合わない。
だが、誰も投げ出そうとはしなかった。
何度もやり直す。キーを落とし、テンポを引き直し、陸がベースの音を減らし、明澄がパッドの設定を調整する。
拓はバチの角度を変えながら、何度も舟唄のリズムを叩き直した。
そして──。
航が静かに息を吸い、声を響かせた。
「♪ ひとつとせ──帆をあげろ──」
拓の太鼓が応える。
低く、深く、静かな波のように。
そこにベースが重なり、ギターがすべり込み、サンプラーの音が空間を包み込んだ。
──音が、ひとつの波になった。
誰かの手が止まった。
「……いまの、ちょっと……来てましたね」
明澄が声を上げた。
航は小さく頷く。
「……揃ってた、少しだけど」
「じゃあ、もう一回」
拓が笑みを浮かべてバチを構える。
音が重なる。呼吸が繋がる。
太鼓とギターと声が、ひとつの舟に乗って、同じ方向へと漕ぎ出していた。
誰かが、ふと息を漏らすように笑った。
それは歓声でも達成感でもない。
ただ、ひとつの感触が自分の中に残った証だった。
部室の窓からは、ゆるくなった夏の夕風が入り込んできていた。
航はその場に深く息を吐き出してから、そっとギターのネックを見つめた。
──この音を届けたい。
この町の人たちに。
そして、母に。
過去の音を受け継ぎながら、いまを生きる声として届けるなら──この一曲は、きっと自分にとって最初の“約束”になる。
航は、ギターの弦に軽く指を添え、音も鳴らさずに静かに立ち上がった。
その足取りには、これまでよりも確かな芯があった。