ステージの照明がゆっくりと落ち、ざわめきが凪のように会場を満たしていた。
観客の顔は見えない。逆光に浮かぶシルエットの海。そのひとつひとつに、航は確かに目を向けた。
渋谷のライブハウスとしては少し古めの、けれど妙に温度のあるこの空間。
壁には所狭しとポスターが貼られ、床板は無数のステップで削れ、天井近くには消えかけた配線とダクトが張り巡らされている。
音楽が、ここに染みついていた。
それが、ようやく自分の音と混じり合ってきたと、航は思う。
「──ええと、最後の曲の前に、ちょっとだけ話させてください」
マイクの前に立つと、思ったより声がクリアに響いた。
観客たちは静かに耳を傾けている。
「自分、田舎の寂れた漁港の町出身で……まあ、高校生のときは、とにかくそこから出たくて仕方なかったんです」
少し笑いに似たざわめきが起きる。
「でも、故郷を出てみて初めて、あの町のことが好きだったって気づいたんですよね。海の匂いとか、潮風とか、……あとは、歌」
一拍置いて、口元に少しだけ笑みを刻む。
「……昔の船乗りたちが、海に出る前に歌ってたっていう、舟唄があって。意味も、由来も、誰も正確には知らなくて。
でも……それを歌うと、なぜか“帰る場所”のことを思い出すんです。……だから、歌い継いでいこうと思いました」
照明が、音もなく航を包む。
マイクを持ち直すと、観客のざわめきが、波のように静まっていく。
「──『舟唄』、聴いてください」
ギターが、ひとつの和音を響かせた。
それは潮の匂いに似て、記憶の海に浮かぶ古い木舟のような音だった。
♪ ひとつとせ──帆をあげろ──
星を見上げ 北を頼りに 夜を越え──
背後では、打ち鳴らされる和太鼓のサンプルが、静かに脈打っている。
電子と生が混ざり合い、都市のノイズと海の静けさが同居するリズム。
──約束の島へ 祈りを運ぶ──
その瞬間、ふっと空気が変わった。
何かが届いたのだと、航は分かった。
それが言葉なのか、旋律なのか、あるいはもっと原始的な、海鳴りに似たものなのか──答えはわからない。
けれどこの一曲が、どこかで誰かの「帰る場所」になれるなら。
それが、自分が音楽を続けてきた理由になるのだと、そう思った。
曲が終わると、ほんの一瞬の静寂のあと、大きな拍手が波のように押し寄せてきた。
ライトの向こう、観客の中に──もういないはずの祖父の背中を、航はふと、確かに見た気がした。
潮風の音が、スピーカーの隙間から静かに吹き抜けていった。
◇
電車の扉が開いた瞬間、潮の匂いがふっと鼻をかすめた。
かつては重く感じたその空気が、今は少し懐かしかった。
肌にまとわりつくような湿り気が、張っていた力をゆっくり抜いていくようだった。
「──帰ってきたんだな」
言葉にしなくても、町の空気がそう告げてくる気がした。
隣には、拓がいた。
ドラムケースの取っ手を肩にひょいと引っかけて、夏の終わりの風を気持ちよさそうに吸い込んでいる。
「──やっぱ帰ってくると、空が広いよなぁ」
「風の音がちがうな。東京のは雑踏ごしだし」
「な。あと、和太鼓の音がこんなに恋しくなるとは思わなかったわ」
拓は、笑いながら足元の影を見つめる。
幼い頃からずっと一緒に音を鳴らしてきた相棒。
変わらない風景に、肩を並べるふたりの姿が静かに重なる。
「商工会議所、今日寄ってくる。久保田さん、たぶんもうビール片手にうろついてる頃だろ」
「変わんねえな、あの人」
「だよな。……そういえば、大川さんも来てるって。今年は一緒に太鼓叩くってさ」
「……優さん、ほんとずっと見守ってくれてるよな。あの頃と変わらず」
「そうだな」
駅前のロータリーで、拓は振り返った。
「──じゃ、また夜な。リハ、間に合いそうなら行く」
「遅れてもいいから叩けよ」
「了解」
拓は笑って、ドラムケースをぶら下げて歩き出した。
その背中は、少し大人びていて、それでもあの頃と何も変わっていなかった。
家に戻ると、玄関の奥から果物を切る音が聞こえた。
まな板の上で包丁がやわらかな音を立てている。
「……冷やしておいたスイカ、あるからね」
台所から聞こえてきた母の声は、少しだけ涼しかった。
「ああ、あとでもらう」
玄関の隅に、使われなくなった車椅子が静かに置かれていた。
カバーがかけられ、きれいに手入れされている。
埃はなかった。けれど、もう動かされていないことが、すぐにわかった。
線香の香りが、ふわりと部屋の奥から漂ってくる。
その匂いと、町の潮の風が交じって、胸の奥が少しだけきゅっとなった。
夜、縁側に出てみる。
あのときと同じ、虫の声と、海の低い音。
草の匂い、木の匂い、土の匂い。
全てが、何も変わらずそこにあった。
ギターをケースから取り出す。
膝にのせるだけで、手が自然と動いた。
──帆をあげろ
──ひとつとせ
唄ってはいない。
でも、それは確かに音になった。
風がそれを連れていく。
あの夜のステージ。
祖父の目があった。
母の姿があった。
そして、久保田さんの太鼓の声が、まだ耳に残っている。
──帰るときには、でっかいのを持って帰らにゃな。
それが、祖父と交わした最後の言葉だった。
たった一言。
でも、それで十分だった。
ギターをそっとケースに戻す。
取っ手を握る。指先に、微かな熱が残る。
「……また行ってくるよ」
声には出さなかった。
けれど、潮の風はそれを受け取ったように、そっと吹いた。
星は見えなかった。
でも、音はあった。
町のどこかで、今夜も誰かが、あの歌を思い出している気がした。
──この町に、また帆を上げる日が来る。
そのときまで、音は旅を続けている。