電車の扉が開いた瞬間、潮の匂いがふっと鼻をかすめた。
かつては重く感じたその空気が、今は少し懐かしかった。
肌にまとわりつくような湿り気が、張っていた力をゆっくり抜いていくようだった。
「──帰ってきたんだな」
言葉にしなくても、町の空気がそう告げてくる気がした。
隣には、拓がいた。
ドラムケースの取っ手を肩にひょいと引っかけて、夏の終わりの風を気持ちよさそうに吸い込んでいる。
「──やっぱ帰ってくると、空が広いよなぁ」
「風の音がちがうな。東京のは雑踏ごしだし」
「な。あと、和太鼓の音がこんなに恋しくなるとは思わなかったわ」
拓は、笑いながら足元の影を見つめる。
幼い頃からずっと一緒に音を鳴らしてきた相棒。
変わらない風景に、肩を並べるふたりの姿が静かに重なる。
「商工会議所、今日寄ってくる。久保田さん、たぶんもうビール片手にうろついてる頃だろ」
「変わんねえな、あの人」
「だよな。……そういえば、大川さんも来てるって。今年は一緒に太鼓叩くってさ」
「……優さん、ほんとずっと見守ってくれてるよな。あの頃と変わらず」
「そうだな」
駅前のロータリーで、拓は振り返った。
「──じゃ、また夜な。リハ、間に合いそうなら行く」
「遅れてもいいから叩けよ」
「了解」
拓は笑って、ドラムケースをぶら下げて歩き出した。
その背中は、少し大人びていて、それでもあの頃と何も変わっていなかった。
家に戻ると、玄関の奥から果物を切る音が聞こえた。
まな板の上で包丁がやわらかな音を立てている。
「……冷やしておいたスイカ、あるからね」
台所から聞こえてきた母の声は、少しだけ涼しかった。
「ああ、あとでもらう」
玄関の隅に、使われなくなった車椅子が静かに置かれていた。
カバーがかけられ、きれいに手入れされている。
埃はなかった。けれど、もう動かされていないことが、すぐにわかった。
線香の香りが、ふわりと部屋の奥から漂ってくる。
その匂いと、町の潮の風が交じって、胸の奥が少しだけきゅっとなった。
夜、縁側に出てみる。
あのときと同じ、虫の声と、海の低い音。
草の匂い、木の匂い、土の匂い。
全てが、何も変わらずそこにあった。
ギターをケースから取り出す。
膝にのせるだけで、手が自然と動いた。
──帆をあげろ
──ひとつとせ
唄ってはいない。
でも、それは確かに音になった。
風がそれを連れていく。
あの夜のステージ。
祖父の目があった。
母の姿があった。
そして、久保田さんの太鼓の声が、まだ耳に残っている。
──帰るときには、でっかいのを持って帰らにゃな。
それが、祖父と交わした最後の言葉だった。
たった一言。
でも、それで十分だった。
ギターをそっとケースに戻す。
取っ手を握る。指先に、微かな熱が残る。
「……また行ってくるよ」
声には出さなかった。
けれど、潮の風はそれを受け取ったように、そっと吹いた。
星は見えなかった。
でも、音はあった。
町のどこかで、今夜も誰かが、あの歌を思い出している気がした。
──この町に、また帆を上げる日が来る。
そのときまで、音は旅を続けている。