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第9話

 ステージの照明がゆっくりと落ち、ざわめきが凪のように会場を満たしていた。

 観客の顔は見えない。逆光に浮かぶシルエットの海。そのひとつひとつに、航は確かに目を向けた。


 渋谷のライブハウスとしては少し古めの、けれど妙に温度のあるこの空間。

 壁には所狭しとポスターが貼られ、床板は無数のステップで削れ、天井近くには消えかけた配線とダクトが張り巡らされている。


 音楽が、ここに染みついていた。

 それが、ようやく自分の音と混じり合ってきたと、航は思う。


「──ええと、最後の曲の前に、ちょっとだけ話させてください」


 マイクの前に立つと、思ったより声がクリアに響いた。

 観客たちは静かに耳を傾けている。


「自分、田舎の寂れた漁港の町出身で……まあ、高校生のときは、とにかくそこから出たくて仕方なかったんです」


 少し笑いに似たざわめきが起きる。


「でも、故郷を出てみて初めて、あの町のことが好きだったって気づいたんですよね。海の匂いとか、潮風とか、……あとは、歌」


 一拍置いて、口元に少しだけ笑みを刻む。


「……昔の船乗りたちが、海に出る前に歌ってたっていう、舟唄があって。意味も、由来も、誰も正確には知らなくて。

 でも……それを歌うと、なぜか“帰る場所”のことを思い出すんです。……だから、歌い継いでいこうと思いました」


 照明が、音もなく航を包む。

 マイクを持ち直すと、観客のざわめきが、波のように静まっていく。


「──『舟唄』、聴いてください」


 ギターが、ひとつの和音を響かせた。

 それは潮の匂いに似て、記憶の海に浮かぶ古い木舟のような音だった。


 ♪ ひとつとせ──帆をあげろ──

 星を見上げ 北を頼りに 夜を越え──


 背後では、打ち鳴らされる和太鼓のサンプルが、静かに脈打っている。

 電子と生が混ざり合い、都市のノイズと海の静けさが同居するリズム。


 ──約束の島へ 祈りを運ぶ──


 その瞬間、ふっと空気が変わった。

 何かが届いたのだと、航は分かった。

 それが言葉なのか、旋律なのか、あるいはもっと原始的な、海鳴りに似たものなのか──答えはわからない。


 けれどこの一曲が、どこかで誰かの「帰る場所」になれるなら。

 それが、自分が音楽を続けてきた理由になるのだと、そう思った。


 曲が終わると、ほんの一瞬の静寂のあと、大きな拍手が波のように押し寄せてきた。

 ライトの向こう、観客の中に──もういないはずの祖父の背中を、航はふと、確かに見た気がした。


 潮風の音が、スピーカーの隙間から静かに吹き抜けていった。


 ◇


 電車の扉が開いた瞬間、潮の匂いがふっと鼻をかすめた。

 かつては重く感じたその空気が、今は少し懐かしかった。

 肌にまとわりつくような湿り気が、張っていた力をゆっくり抜いていくようだった。


「──帰ってきたんだな」


 言葉にしなくても、町の空気がそう告げてくる気がした。


 隣には、拓がいた。

 ドラムケースの取っ手を肩にひょいと引っかけて、夏の終わりの風を気持ちよさそうに吸い込んでいる。


「──やっぱ帰ってくると、空が広いよなぁ」

「風の音がちがうな。東京のは雑踏ごしだし」

「な。あと、和太鼓の音がこんなに恋しくなるとは思わなかったわ」


 拓は、笑いながら足元の影を見つめる。

 幼い頃からずっと一緒に音を鳴らしてきた相棒。

 変わらない風景に、肩を並べるふたりの姿が静かに重なる。


「商工会議所、今日寄ってくる。久保田さん、たぶんもうビール片手にうろついてる頃だろ」

「変わんねえな、あの人」


「だよな。……そういえば、大川さんも来てるって。今年は一緒に太鼓叩くってさ」

「……優さん、ほんとずっと見守ってくれてるよな。あの頃と変わらず」

「そうだな」


 駅前のロータリーで、拓は振り返った。


「──じゃ、また夜な。リハ、間に合いそうなら行く」

「遅れてもいいから叩けよ」

「了解」


 拓は笑って、ドラムケースをぶら下げて歩き出した。

 その背中は、少し大人びていて、それでもあの頃と何も変わっていなかった。


 家に戻ると、玄関の奥から果物を切る音が聞こえた。

 まな板の上で包丁がやわらかな音を立てている。


「……冷やしておいたスイカ、あるからね」


 台所から聞こえてきた母の声は、少しだけ涼しかった。


「ああ、あとでもらう」


 玄関の隅に、使われなくなった車椅子が静かに置かれていた。

 カバーがかけられ、きれいに手入れされている。

 埃はなかった。けれど、もう動かされていないことが、すぐにわかった。


 線香の香りが、ふわりと部屋の奥から漂ってくる。

 その匂いと、町の潮の風が交じって、胸の奥が少しだけきゅっとなった。


 夜、縁側に出てみる。

 あのときと同じ、虫の声と、海の低い音。

 草の匂い、木の匂い、土の匂い。

 全てが、何も変わらずそこにあった。


 ギターをケースから取り出す。

 膝にのせるだけで、手が自然と動いた。


 ──帆をあげろ

 ──ひとつとせ


 唄ってはいない。

 でも、それは確かに音になった。

 風がそれを連れていく。


 あの夜のステージ。

 祖父の目があった。

 母の姿があった。

 そして、久保田さんの太鼓の声が、まだ耳に残っている。


 ──帰るときには、でっかいのを持って帰らにゃな。


 それが、祖父と交わした最後の言葉だった。

 たった一言。

 でも、それで十分だった。


 ギターをそっとケースに戻す。

 取っ手を握る。指先に、微かな熱が残る。


「……また行ってくるよ」


 声には出さなかった。

 けれど、潮の風はそれを受け取ったように、そっと吹いた。


 星は見えなかった。

 でも、音はあった。

 町のどこかで、今夜も誰かが、あの歌を思い出している気がした。


 ──この町に、また帆を上げる日が来る。

 そのときまで、音は旅を続けている。

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