16歳になった4月の末、私は卵を産んだ。
遅い初潮に、自宅のトイレで悲鳴を上げた。
伝い落ちた経血と共に、無数の小さな赤い魚卵が水面に浮かんでいたから。
放心したまま、赤黒い水に揺らめく命の元たちを眺めていた。
悲鳴を聞いて飛んできた母にトイレの戸を叩かれ、我に返った。
内鍵を解いて戸を開ける。
顔を覗かせ慌てふためく母だったが、すぐに喜びで包まれた。
「
母は喜んでも、私はちっとも喜べない。
気持ちを察したのか、それともこの日のセリフは決まっていたのか。
「お父さんと一緒に、あとでちゃんと説明するからね」
今夜はお赤飯ね――などと軽い足取りで台所へと去る母から、私は今まで知らなかった匂いが流れることに、気づいた。
甘やかな、潮の香り。
知らなかっただけで、きっとずっと触れていたのだろう。
水の入れ替わったトイレの器の中にはまだ、仄かに赤い、鉄の匂いが漂っていた。
盆暮れ正月が一度に来たような夕の食卓で、母は赤飯を盛り、父は酒を注いだ。
「まあまあ、今日くらいは」と云って、父は未成年の私にまで酒を勧める。真似事で口だけつけた酒精の味は、甘苦い。
祝いの膳があらかた片付くころ、母は約束通りにちゃんと説明をしてくれた。
余りに突飛で、すぐには信じられなかった。
「私たちはね、
「男魚様って、町の神社のアレ?」
「アレだなんて言ってはいけないよ。男魚様は私たちの大切な守護者であり、ご先祖様なのだから」
たしなめる父の目は、油の膜を浮かべたようなねっとりとした粘りを帯びていた。
「私のときよりずっと遅れていたから……良かったわ」
涙ぐむ母の傍らで、父は足元に置いていた小さな
「これでめでたく、湊も<
釣った魚を収める入れ物に似た
中は水が漏れないよう、魚の皮で内張りがしてあった。
「月の物が来たら、この籠に卵を産み落としなさい」
楕円に開いた奇妙な魚籠の口は、股座にあてがうのにぴったりだった。
初物を流してしまったのは残念だなあ――と呟き、父は小さく舌なめずりをした。
奇妙な初潮の一日は、終わった。
受け入れがたいはずの体の変化は、なぜだかとても自然なことに感じられた。
産み女――男魚様の血を引き、男魚様のためだけに、卵を産み続ける女。
私はこうして、毎月毎月、無数の卵を産む身となった。
§
体に訪れた変化は、ほかにもあった。
痩せぎすで枯れた
匂いの変化は、家の中だけではなかった。
魚臭いだけの港町が、これほど芳しく糖蜜のような香気に包まれていたなんて。
色さえ感じなかった風景は、今では熱帯のサンゴ礁を思わせる。
昏い青一色だと感じていた海の色が、これほど豊かでとりどりに深い蒼を蓄えていたのかと、自分の無知を恥じるほどだった。
港町を行き交う人々に、違いがあることも知った。
甘やかな潮の香りをまとう人たちと、汚物に等しい獣臭さをふりまく人間たちと。
潮風を孕み歩く人々はみな、私と私の家族と同じ男魚様の血を引く眷属の仲間たち。だから、人間関係や出かける店まで生活の何もかもが変わってしまうのは、当たり前の成り行きだった。
仲の良かった高校の女友達が垂れ流す獣の匂いに耐えられず疎遠になり、いけすかないと感じていた
私たちはずっとそうであったかのように、親密になった。
洋子も私と同じ、産み女。
産み女になれるかは、男魚様の血を引く濃さによって決まるらしい。
この港町に幾人いるかは知らないけれど、だんだんと数を減らしているのだと、担任の
「ねえ、湊は知ってる?」
昼休みに弁当の塩サバ焼きを突いていると、洋子が訊いてきた。
「なんのこと?」
「卵が、どうなるか」
ああ――そういえば。
卵を産み落とした魚籠を渡すと、その夜決まって父は外泊をした。
黙って見送る母に行き先を聞いても、うつむいて「男魚様に奉納するの」と云うばかりで、詳しいことは何も答えてくれなかった。
魚籠を受け取る父の手はいつもわななく。目はギラギラと欲に
歓びに打ち震えているようにも見えて、いつもおぞ気が走った。
「聞いちゃったんだ。男子がこっそり、話してるの」
言葉を詰まらせて、洋子は押し黙ってしまう。
小刻みに震える洋子の手を握り、私がいるよと伝えて、話の先を促した。
「
「彼氏さんが、何を?」
「決まってるじゃない――私たちの、卵よ」
父が、私の預けた魚籠に顔を突っ込み、私の卵を貪る様を脳裏に描いて……。
気がつけば、トイレにしゃがんで、吐いていた。
§
洋子の話を聞いてから、父の顔をまともに見ることができなくなった。
月の物が近づくにつれ、父のやさしい笑顔は薄れ、血に飢えたサメのように口の端を裂いて笑った。
あれは、食欲と肉欲の滾りだ。
卵を
そして、父も。
けれどまだ、この眼で見たわけじゃない。
だから――確かめるほか、なかった。
卵が
家を静かに抜け出して、父の後を追った。
家を抜け出すのは簡単だった。
奉納の日に限り、母は早々に眠ってしまうから。
耳を塞ぎ身を固め、何も知らないふりをして、眠りの中に隠れてしまう。
行き先は分かっていた。
母は男魚様に卵を奉納すると言ったのだから、父が向かう先は港と海を見下ろす崖の上にある神社に決まっている。
境内の入口には、闇に紛れるよう真っ黒な夏物を羽織った洋子がいた。
彼女も、確かめたいと言ったから。
崖上へと続く長い階段を登りきると、
生い茂る樹木の陰に身を潜める。
胡坐をかいて車座になり、皆股座に魚籠を抱えている。
炎に照らされる父の顔が見えた。担任の佐山もいる。商店街の店主、漁師の男や同級生の男子たち。隆司の姿もあった。皆一様に、尻をよじりそわそわとして、儀式の始まりを待ち侘びていた。
護摩壇の前に立つのは、宮司の格好をした漁協の組合長、鈴木だった。
初老の男は皆と同じく肉欲に震えながら、良く響く声でこう告げた。
「さあ今宵もまた、男魚様に捧げる卵の
歓喜の声が上がる。
男たちはいっせいに魚籠を取り上げ、中身に手を入れ卵を取り出し、あるいは縁に口をつけ命を啜り出し、プチプチとかみ砕き、喉を鳴らし、嚥下して、次々に腹と欲を満たしていった。
愕然としておぞましい光景を見つめる洋子の目の先で、隆司が唸った。
「洋子の卵はこないだ喰った。今夜は、湊の卵が喰いたい」
私の中で、何かが壊れる音がした。隆司は酔った目で続けた。
「喰って、喰って、俺は俺は……」
父が訊いた。
「子種か?」
「ああ、あああ。そうさっ」
隆司が呻く。
「若いっていいなあ」
誰彼となく、笑っていた。
「ほれほれ、沢山たくさん、かけてやるといい」
もう、見ていられなかった。
声を挙げて泣き出しそうな洋子の腕を引っ張り、私たちは狂った宴の場を去った。
空では月が、魚の卵みたいに、赤く燃えていた。
§
殺してやる。
みんなみんな、殺してやるんだ。
男魚様に捧げるはずの大切な私の、私たちの卵を、涎をたらし、黄ばんだ歯で
許されるはずがない。許すことなどできない。
父は必ず殺す。
何もせず見ていただけの母も、きっと殺す。
隆司は洋子が、殺すだろう。
汚された男魚様の社は火をかけて、燃やしつくして清めるんだ――。
鈍い痛みに月の物の到来を感じた9月の末、私は父の元を訪れた。
片手に空の魚籠を持ち、片手を後ろに隠して。
日増しに飢え始めた父は魚籠に目を止め、後ろ手にした柳刃に気づきもしない。
魚籠に
「空じゃないか……かはっ……!」
銀閃が一筋、すうと手元から伸びてゆく。
喉に突き刺さる細長の包丁は、面白いようにするすると呑まれていった。
血が流れる。汚らわしいオスの体液が、床を鉄錆のように染めていく。
「湊、そんな……お父さん……」
声を聞いて、振り返った。
まだ刺されていないのに、血の気が引いた顔をした母が立っていた。
悟った目をした母が、憐れに思えた。
殺したかったのに、私は父の喉に刃を残したまま、後退った。
上がりを迎えた母では、産み女の役目は果せない。
父を失えば、生きていても仕方のない身だった。
柳刃包丁を引き抜いた母は、自分で自分の身を切り裂いた。
§
崖の上で真っ赤な炎と黒煙が上がる様を、私と洋子は浜辺で眺めていた。
洋子の手も、血に染まっていた。
ふいに二人そろって、子宮を絞るような痛みに襲われた。
太腿から、赤黒いものが滴り落ちる。
魚籠の中に、命の元を宿した。
男魚様のためにある卵は私たちが直接、海へ捧げるべきものだ。
身の内を流れる血が、そう教えてくれていた。
洋子とうなずき合い、魚籠を傾け、卵を海に流した。
潮に引かれて赤い粒たちが水面に揺蕩い、流れていく。
海が泡立つ。卵を口にしようと魚たちが寄ってくる。
ダメだよ――それは、主様のものだから。
そう、祈ったとき。
海が、震えた。
こんもりと、沖の海が盛り上がる。
小山のような銀色の巨体は、太く逞しい魚みたいな胴に人の手足を生やす、神々しいお姿だった。
長くて立派な髭を揺らして、私たちを招いている。
洋子と手を取り合い、波の中へと足を進めた。
くるぶしに絡む波の冷たさは、捧げた身体を炙り焦がしていくようだった。
<了>