「う~ん」
一度、大きく伸びをした。体には不調が無い。それどころか、強い生命力を感じる。久しく感じていなかった、若々しさだ。
手を見る。握ってみる。しっかりと動く。しかし、何か借り物のような気もする。
「どうするか、な」
顔をあげる。すると、視線の中にすっと横に動く存在がいた。それを目で追う、だけでなく、その影が消えた方へと彼は歩みを進めた。
「なにしてんだ、おまえ」
「べ、別に。うろうろしてたっていいでしょ?」
そこには、彼が先程頭に思い浮かべていた少女のふくれっ面があった。
「散歩してただけだもん。エリクには関係ないでしょ」
マリーは彼の足下で、頬を膨らませている。視線をこちらにちらちらと向けて、視線が合う度に慌ててそらす。後ろめたい気持ちを隠せないでいた。
(様子を見ていたのには気づいていたんだけどな)
逆の立場で考えれば、心配して様子を見に来るのは普通だろう。隠れる必要は無いとは思う。しかし。
(無理もない、か)
あの直前まで普通に話していた幼なじみが、急に別人になっているのだ。近くにいればいるほど、戸惑うだろう。
(それを説明できるような言葉を、私は持っていない)
彼は天を仰いだ。何か伝えるべき、だとは思うのだが何も思いつかない。なにせ、自身の存在すらあやふやなのだ。今だって夢を見ている気分になっているのだから、色々と醒めなければどうしようもない。
「ごめん」
その沈黙に耐えきれず、マリーが先に頭を下げた。
「散歩は嘘。実はずっと窓の外から見てた」
「あー」
それでか、と彼は納得して頷いた。
男から医術を受けている際、何度かこちらに突き刺さる視線を感じた。殺意や敵意を感じなかったから放置していたが、マリーに言われて腑に落ちた。
さすがに外からは話の内容は聞けなかっただろう。ここは、自分から伝えるべきだと彼は思った。
「体に大事はなかった。記憶は、そうだな。今はとりあえず様子見とのことだ」
マリーは彼の言葉に一瞬喜びの色を顔に浮かべ、すぐに落胆した。
(分かりやすい)
実に素直な少女だと彼は感心すら覚えた。
ロランとしての記憶。
彼女のような人間に会ったことは少ない。誰もが明日を憂(うれ)い、良い感情も悪い感情も表に出すことが無かった。素直さは美徳では無く、生き残るには明確な弱点であった。
少なくとも、今目の前に広がっている世界は平和なのだ。こうして他者を心配して、些(さ)細(さい)なことに罪悪感を抱く。彼女が、彼女として生きていられるくらいには。
「……」
しばし、物思いにふけっていると明るい色の瞳がじっとこちらを覗き込んでいた。
「どうした?」
「別に」
マリーは再び視線を外した。それだけでなく、くるりと後ろを向いてしまう。
どうするべきか。彼が思案する間もなく、マリーは背中を向けたまま、彼に問いかける。
「ほんとに、何も覚えてないの?」
ずきり、と胸が痛む。彼は、その痛みを確かに自分のものとして感じ取った。彼女にそんなことを言わせている自分が腹立たしくも思える。
(これは確かに
ロランとしての意識は消えていないものの、ロランでは感じることのできないであろう感情の機微。
(
アイヴァンに言われたことがある。弟子をとらないのか、と。その積み上げた闘技が一代で潰えるのはもったいないのではないか、と。
そして、ロランは答えた。
(もう二度と、弟子をとる気は無い、だったな)
苦い記憶を思い出して、彼は先程とは違う痛みも感じていた。戦いの場で生死に直結する敵意、悪意には敏感であっても、人の細やかな心の動きには鈍感であった。そのせいで、思いもせぬ悲劇を生んでしまった過去もある「ただ生き延びた男」。それが彼の意識に宿るロラン・バスタークという老人である。
だからこそ、だ。その違いが突破口になるのでは、と彼は思った。
「マリー、だったな」
「なぁに?」
疑問を宿した呼びかけに不機嫌そうに返事をするマリー。
「よかったら、おまえの知っている私を教えてくれ。私は
本心からの言葉だ。このまま、曖昧なところでふわふわしていても仕方が無い。ロランを否定するにしても肯定するにしても、エリクを知らなければならない。
そして、エリクとしての痛みをくれたマリーは貴重な手がかりだ。
「しょーがないなー」
振り返った彼女はまだ不満げではあったが、頼られたのが嬉しかったのか、思いのほかすんなりと了承した。
「じゃあ、いこっか」
「どこに?」
首を傾げる彼に、マリーは満面の笑みを向ける。
「いつものとこっ!」
風が通り過ぎた。優しい香りを運ぶそれが空っぽの心を少しだけ満たしてくれる。
「ここが、『いつものとこ』?」
彼の問いに、先に到着したマリーは背中を向けたままで答えない。
彼女は他人事のように問うエリクに不満だった。だから、問いには答えないまま手招きをする。
「……おお」
登り切ったところで、彼は感嘆の声をあげた。
そこは小高い丘になっていて、村の中では一番高いところであった。深い森に囲まれている集落であったが、ここはその木々よりも高い。だから、全体を見渡せた。人が忙しなく動き、しかし、余裕のある空気が漂っていた。
ここは近くにある果樹園からは離れ、人の気配はない。一本の大きな木が立っている。それだけで木(こ)陰(かげ)になっていて、風もあることで明るいのに涼しかった。
初めて見る態度をとってしまったのでマリーの機嫌はさらに損なわれた。
(でも、初めて来たときもこんな目をしてたかな)
だが、彼の横顔が幼いころの思い出と重なったことで、笑顔が戻る。マリーはそっと彼の横に立つ。
「エリク、毎朝ここに来てるんだけど、覚えてない?」
「毎朝?」
何をしに来ているのだろう。まったく予想がつかない。確かにいい光景だとは思うが、日課にすることだろうか。
「今日は風が強いよね」
唐突な世間話だ。その意図を組みかねていると、マリーは大きく嘆息する。
「そっか、強いかどうかも分かんないか」
寂しそうに、彼女は小さくつぶやいた。確かに今の彼には、普段のここが予想がつかない。
(あたしの苛立ちも、いまのエリクにはわかんない)
マリーはその事実を受け止めた。悲しみを感じながら。それと同時に、妙にすっきりとしたものを感じる。彼が記憶をなくした、それは事実なのだ。
まるで別人のような視線で遠くを見ている幼馴染み。このまま自分の側から離れていく。そんな気持ちだ。
それでも、諦めてはやらない。
(あたしにできるのは、いつも通りに話すことだけ)
エリクの現状を受け止めたうえで、マリーは自分ができることをすると決めたのだった。
「これ、見覚えある?」
エリーは首に巻いたスカーフをとって、エリクの前に差し出した。彼女の思いは理解できるからこそ、彼は少しためらってから首を横に振った。
「いや」
ただでさえ、色々と傷つけているのだ。ここでのごまかしは、思いやりでは無くさらなる攻撃になろう。
「そっか」
マリーも期待はしていなかったのか、スカーフを持ったまま寂しそうに笑った。