昼下がりのシェアオフィスは誰の話し声もなく、ただキーボードを叩く音だけが薄く響いていた。ここは小規模シェアオフィス「Pearl Moon」だ。六〜七社ほどの個人事業主やクリエイターが入っている雑居ビルの一室である。フリーランス同士のゆるい繋がりと、ときどき雑談のできるコモンスペースがある。
通りに面した窓は大きく取られていて、明るい光が室内に入ってくる。しかしパソ間を使う人が多いためか、だいたいはロールスクリーンが下ろされていた。
水島のデスクの隣に、新しく誰かが入るらしいと聞いたのは先週のことだった。誰が来ても自分には関係ない――そう思っていたのに、その男は初日から水島の印象に残った。
「こんにちはー! あ、ここが僕の席かな?」
黒縁の眼鏡をかけ、高めの明るい声で挨拶をされた。髪色はピンクに近くてラフにスタイリングされている。服装はカジュアルで、すぐにでもバスケットボールのコートに飛び出して行けそうな雰囲気だ。背中に背負っていたバックパックを下ろして、そこから出てきたのはノートパソコンとヘッドホンだった。
「えっと、水島さん……でしたっけ?」
声をかけられた水島は僅かに頷いた。見上げることなく相手の気配だけを感じる。
「白石です。映像関係のフリーやってます。よろしくお願いします」
「ああ……よろしく」
それが水島と
それから数日、白石は毎日やってきた。だいたい午前中に動画編集をし、午後はイヤホンをつけて誰かと打ち合わせの通話をし、夕方には少しだけ独り言を漏らしながら作業をしていた。
「おーい、読み込み遅いってば……。え、いま音ズレた? またかよ……」
声が大きいわけではないが、一人でよくしゃべる男だと思った。白石の声の質がやわらかい印象なためか、不思議と耳障りには感じなかった。
ある日、水島が共用キッチンで湯を沸かしていると白石が姿を見せた。
「お、ちょうどいいタイミング! お湯、俺の分も作ってもらっていい?」
「どうぞ」
白石はインスタントコーヒーの瓶とマグカップを手にしていて、カップに湯を欲しがっているようだった。近づいてくる白石はなにもないところで躓いて、持っていたインスタントコーヒーの瓶をその場に落とした。絨毯敷きの床にゴトンと、鈍い音を立てて転がった瓶を、水島がスッと拾って差し出す。
「ありがとう。……あれ、左利きなんですね」
「そうです」
「僕、左利きの人にちょっと憧れてて。なんか動きが静かというか、落ち着いてるっていうか」
瓶を受け取った白石が「ふふっ」と笑う。その笑顔になぜか水島の胸が一瞬ざわついた。普段なら誰とも関わる気はないのだが、この人とはなぜか――話してしまう。
「静か、ですか……。単に喋るのが苦手なだけです」
「へえ、でも書くのは得意なんでしょ? なんかそういう人ってかっこいい」
「……おだててもなにも出ませんよ」
白石が笑い、水島も少しだけ唇を緩めた。こんなふうに誰かと笑うのはいつぶりだっただろう。だいたいは一人で仕事しているし、打ち合わせはメール。人と接触することがない。それは水島の見た目にも多少は原因はあるのかもしれない。
短髪で黒髪でデスクワークをしている割に体格がいい。黒のピッチリしたシャツを着ていて、その半袖から出ている腕はかなり筋肉質だ。シャツの上からでも胸板の厚さが覗える。常に考えながらタイピングしているせいか、眉間には深い縦皺ができていてムッとした印象だ。だいたい所見の印象で「もっと怖い人かと思ってました」と言われる。
趣味は筋トレだ。デスクワークだからと体を動かすようになったら筋トレにハマってしまった。それが今の体型を作るまでになったのである。
「なんかすごく、このシェアオフィスって落ち着くよね」
カップにお湯を注ぎ終えた白石がぽつりと呟いた。
「そうですね。……静かだしあまり余計なものがないから」
「うん。家だといろいろ思い出すけど、ここだと思考が邪魔されなくていいよね」
一瞬だけ見せた憂いの表情とその言葉の裏に、なにか隠されたものがあるような気がしたが水島はあえて聞かなかった。
確かにこのオフィスはみんな静かに仕事をしている。そういう場所なので当たり前なのだが、要所要所に置かれた観葉植物や、作業デスクやチェア、床の絨毯や壁なども落ち着いた印象があった。
その夜、デスクに戻った水島の手がふと止まった。キーボードを打つ指が、ほんの少し震えていることに気づいたのだ。その震える左の指先を右手でグッと押さえる。
「……」
浅く息を吸い込んで、奥歯を噛みしめるようにして静かに吐き出す。水島の体はまだあのときの衝撃を覚えているようだった。