週の真ん中、水曜日の午後。外は春の雨がしとしとと降っていた。オフィスの窓は曇りがちで、まるで時間がゆっくりと流れているように思える。
水島は原稿を一本書き上げたあと、ふぅと小さく息を吐き目を閉じた。集中してタイピングをするとやってくる疲労。眉間を指先で揉みほぐし目を開いた。左手でマグカップを掴んで口に運ぶ。ぬるくなった紅茶の香りが鼻をくすぐった。
ふと隣の席を見ると、白石がヘッドホンを外して首を回していた。
「肩こり、ひどいんですか?」
珍しく自分から声をかけたことに水島自身が少し驚いた。白石は「ああ」と笑って、肩を揉むしぐさをする。
「動画編集ってずっと画面見るから凝るんだよね。でも水島さんも同じじゃない? 文章書くのもかなり肩が凝りそう」
「……僕は目じゃなくて、心が凝る方ですね」
「心が、凝る?」
「ええ。うまく言えないけど……なにかを言葉にするって、思ってるより重たいことだから」
水島の言葉を聞いて白石はしばらく黙り、それから表情を変えないままゆっくりと立ち上がった。
「水島さん、今夜ちょっとだけ時間ある? 近くのラーメン屋、行かない?」
突然の誘いに水島は驚いたが、咄嗟に断る理由を思いつかなかった。むしろ自分の中でなにかが小さく動いたのを感じる。
水島が断らなかったのをイエスと取った白石が「おすすめの店だから」と好意的な笑みを浮かべ、彼は再びヘッドフォンを装着して仕事に没頭していった。
(行くとも、行かないとも言っていないけど、沈黙はイエスということか)
前向きな考え方の白石に少し感心しつつ、水島も仕事に戻るのだった。
その夜、オフィスから駅へ向かう大通りにある古びたラーメン屋に、水島と白石の姿があった。雨で濡れた傘は入り口の傘立てに二本寄り添って立っている。水島がビールを注文すると、白石はあたたかいウーロン茶を頼んだ。
「こうやって仕事のあとに誰かとご飯食べるの、久しぶりです」
「僕も」
先に運ばれてきた飲み物で「お疲れ様」とグラスをぶつけ合った。一人で飲むビールも旨いと感じるが、誰かと一緒だとその旨さは数倍に跳ね上がると知った。
(ああ、
あれから何年経ったのだろうと、水島は無意識に思い出そうとしていた。それは今も胸の中にある喪失感が生まれた日である。昔ほど胸が痛くなることはないが、その日のことは鮮明に思い出せる。
「僕……実はね、弟がいたんだ。五つ下の弟。名前は
白石の突然の言葉だった。水島はゆっくりとジョッキをテーブルに置く。そして視線を白石に向けた。
「二年前の冬、事故で……亡くなって。あの日から、なんか時間が止まったままで」
白石の視線は軽く伏せられ、ウーロン茶の入ったジョッキの自分の手を見つめているようだった。その淡々とした語り口で、彼の中に今でも心の奥に痛みがあるのだと水島にもわかった。
「まだ知り合って間もない水島さんに言うことじゃないけど、なんとなく弟のことを思い出したんだ。なんでだろう」
白石は口元に笑みを浮かべながらも、少しだけ瞳を潤ませていた。もしかしたら誰かに聞いてほしくて今日は水島を誘ったのか。いつも明るくて、挨拶をすると笑顔で返してくれて、交友関係も広い人だと思っていた。友人も多いだろうと思うが、それでもこんな話を水島にしてくる彼の心が疲れているように思えた。
そこで水島も自分の話を白石に打ち明けようと、そんな気持ちになった。最近、特に思い出すようになっていたからだ。
「……自分も大切な人を失った経験があるんです。五年前に恋人が病気で亡くなってから、人と距離を取るようになってしまって……。なにを見てもなにを書いても、心の奥が空っぽみたいだったのを今でも忘れないです」
水島がそう打ち明けると、心底驚いたというように目を丸くして、瞬きもしないでこちらを見つめてきた。あまりに凝視するので「白石さんが打ち明けてくれたので、自分も……と思って」と答えると、そのとき初めて呼吸をしたように白石が大きく息を吐いた。
「驚いた。まさか水島さんも大事な人を失っていたなんて……。なんとなく悩み事があるのかなと思って誘ったんだけど、まさか僕と同じような感じだったとは……」
「白石さんは明るくていつも前向きな感じで、自分とは違うと思ってたんですが、人にはそれぞれ胸に抱える悩みがあるんだなと今日は思いました」
水島はビールをグッと飲んで少し自分を落ち着ける。その間に注文していた餃子が二皿テーブルに運ばれてきた。
「水島さんて何歳ですか? 僕は二十九歳で親から結婚しろって早く言われてて……」
話の矛先が急に変わったので驚いたが「三十一ですよ」と答えると「歳も近いし、丁寧に話さなくていいから」と人好きする笑顔で言われた。
「でもさ……なんで今日、声かけてくれたの?」
白石がタメ口でいいというので、水島は遠慮なくそうさせてもらうことにした。一応はまだそこまで親しくないからと思って丁寧に接していたが、彼はその辺が気になる人のようだ。
「……わからない。ただ水島さんには、なんとなく黙っててもなにかが伝わりそうだったから」
そう言われ水島はなんと返答していいのかわからなかった。しばらく沈黙が続く。けれどその沈黙は重いものではなかった。
「僕ね、弟の誕生日にまだ毎年ラインを送ってるんだよね。既読つかないの、わかってるのに」
ふふっと少し悲しげに微笑んで白石が言う。しかしその笑みは僅かに震えていた。水島はそのちょっとした表情の変化を見逃さなかった。彼はまだ胸に痛みを抱えていると。そしてそっと彼の言葉に重ねる。
「愛してた人にもう二度と届かない言葉を、まだ心のどこかで言い続けてる。……俺も同じだよ」
水島は白石の目を見る。お互いの目が少し潤んでいた。二人の心の傷はまだ癒えていない。それが痛いほどわかった。
そうしているうちに注文していたラーメンがテーブルに届けられた。
「さ、食べようか」
「なんか、かなり腹が減ってるな」
香ばしいチャーシューと豚骨の匂いに一気に胃が動き始めたようだ。割り箸を手にした二人は「いただきます」と言って食べ始めた。ラーメンの湯気が温かい膜のように二人を包む。無言で食べ続けるが、なぜか白石との沈黙が苦ではなかった。それどころかほんの少しだけ距離が近づいたような気さえしている。
(初めは苦手だなと思っていたのに、話してみるとそうでもなかった。人は見かけではないということだな)
白石のかけている黒縁の眼鏡が曇るたびに、なんかかわいいなとそんな気持ちがわき上がる。しかし途中で眼鏡の曇りがうざったくなったのか、白石は眼鏡を外してテーブルに置いてしまった。
(眼鏡が曇ってるの、かわいいと言ったら彼はどんな反応をするかな?)
そんなバカなことが脳裏を過る。しかし眼鏡を外したその素顔もまた、水島の心を惹きつけるのだった。
二人でラーメンを食べ終えて店を出て、傘を差しながら並んで歩く。しかし雨脚が強くなってきて、近くの誰もいないバス停の屋根の下に避難する。すると雨音に紛れて白石がふとつぶやいた。
「水島さんって、やさしいよね」
「え? そうかな? 誰かになにかを打ち明けて、それを静かに聞いてくれて……それでほんの少しこっちも打ち明けて。そういうのって普通だと思ってた」
「あはは。なんか水島さんぽいね」
「そ、そう?」
白石はにこりと微笑んで頷き、雨がアクリル製のバス停の屋根を見上げるだけだった。