三月。雪解けの雨がアスファルトを濡らし、街にやわらかな光が戻り始めていた。Pearl Moonの窓から見える木々の枝にも、小さな新芽が顔をのぞかせている。
水島は紅茶を片手に白石の席の方を見やった。空席だ。朝からまだ彼の姿はない。けれどもう不安にはならなかった。――たとえ今日、彼がここに来なくても。彼がこの世界のどこかで息をしていてくれるならそれでいい。そう思えるようになっていた。
夕方近く、ふいにPearl Moonドアが開いた。そこには白石が少しだけ息を弾ませ、頬を上気させて立っていた。
「水島さん、こんにちは」
いつもの笑顔で挨拶をされ、それを見て水島はホッとする。
「今日は来ないのかと思ってたよ」
「ちょっと撮影伸びちゃって」
隣の席に背負っていたバックパックを下ろして置き、ふう、と息を吐きながら椅子に座った。
「ちゃんと来るよ。だって水島さんがいるから」
その言葉が、水島の心の奥にやさしく降ってきた。そのときようやく気づく。自分も白石のことを特別に思っているということを。あのときの彼の告白に返事をしなければと、そう考えるようになっていた。
日が落ちるころ二人は気分転換に屋上へ出る。薄い雲の向こうに沈みかけの夕陽が滲んでいた。風はまだ少し冷たかったが、冬とは違う匂いがする。
「春が来るって感じだね」
水島がぽつりと呟くと、白石が隣で頷いた。
「ねえ、水島さん。たとえばこの場所がいつかなくなっても――僕らちゃんと繋がっていけるかな?」
不安そうな顔でそう聞かれて水島は驚いた。この場所がなくなる、考えたことがなかったのだ。この場所にくれば必ず白石に会える。なぜかそれを永遠だと思っていた。
(そうか、なくなるってこともあるんだよな)
白石の笑顔をもう見られない、そんな考えが生まれた途端に不安になった。
「……きっと、大丈夫だよ。白石さんがちゃんと俺を見つけてくれる限りね」
「え? 僕が水島さんを見つけるの? 水島さんも僕のこと探してよ」
肩を揺らして白石が笑う。水島はそっと白石の手を握った。指先は温かくて、彼はちゃんと生きている。それがうれしくて、彼の手を引っ張り自分の胸に引き寄せて抱きしめた。
「み、水島、さん?」
「返事をしてなかった。俺も白石さんが好きだよ。だからここがなくなってもずっと繋がっていたい」
白石の細い肩がピクッと反応したのがわかる。力の入っていた体がゆっくりと解けていき、そっと水島の背中に腕を回してくれた。胸の奥がジン……と温かくなっていくのがわかる。気持ちを言葉にしてよかったと水島は思った。
「今度は俺の家に遊びに来て」
「……うん。いくよ。唐揚げを手土産に行くよ」
白石がそう言うと同じタイミングで二人は吹き出した。
空が紫色から夜の顔に変わり、日が沈んでいく。
それでも二人は互いの体を抱きしめ合い、腕を離す名残惜しさを感じているのだった。
あの日、心にあった喪失の影はたぶんこれからも消えない。
けれどそれでも前に進むのは、きっと「愛する」という選択をしたからだ。
悲しみも記憶もすべて抱えて、それでも誰かの隣で息をするということ。
やがて季節が巡り、ここを離れる日が来ても。
このやさしい場所がくれたものを、二人はきっと胸に灯したまま生きていける。
――それが「愛するということ」なのだ。
おわり