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愛を選んだ僕たち④

 年が明けて、オフィスにはいつもの静けさが戻っていた。白石は去年と変わらずオフィスにやってきて動画編集をして、時々ぼやいて誰にでも分け隔てなく話しかける。

 あの夜の告白のことを白石は話題にしなかった。答えがほしいとか気持ちを教えてほしいとか、そんなことが聞きたいわけじゃない。ただあのとき感じた気持ちを伝えたかっただけだった。


(もしかして、あのせいで水島さんを悩ませてる……のかな?)


 隣から視線を感じて顔を上げると、パッとあからさまに逸らされるというのが何度か続いている。それにいつもは軽快に聞こえるタイピング音も止まっていることが多い。なにかを考え込んでいるのか、ため息も増えているようだ。告白なんてするんじゃなかったのかも、と白石の心はざわついていた。

 あのときに白石の話を真面目に聞いてくれたことで、一気に心を開いていった。それは水島も同じだと感じていたが、もしかしたら違うのかもしれない。好きだと気持ちを打ち明けてから、白石の中で確かになにかが変わった。俯いたときの長い睫毛や、コーヒーより紅茶の好きな水島。彼の何気ないひとこと――全部が、白石の中で意味を持ち始めたのだ。


 ある日、オフィスを出ようとした白石は立ち止まった。


「……ねぇ、水島さん。明日、誕生日なんだ……弟の」


 静かな声でそう言っていた。水島なら弟の話題を出せばきっと聞いてくれる、そんな打算的な気持ちが少なからず心の中にあった。


「毎年、その日はなにをしていいかわからなくて。でもたぶん、誰かと過ごした方が……いいような気がしてて……」


 白石は少しだけ考えてから言った。あの告白に意味を持たせてしまう、これは大きな賭けかもしれない。それはわかっていた。しかし弟を亡くした苦しみを理解してくれるのは、今は水島しかいない。


「よかったら、うちに来ない? 大したものは出せないけど。陽向の話を聞いてほしいんだ」


 水島がやさしく緩やかに目を細める。その表情を見て白石はホッとするのだった。

 翌日、水島がやってきたのは夕方で、白石の小さなアパートに静かな冬の陽が差し込んでいた。八畳ひと間の部屋は最低限の家具しかない。生活感はあまりないし、部屋に知り合いを上げるのは久しぶりだ。三段チェストの上には小さな仏壇があり、陽向と二人で撮った写真が額に入って立ててある。

 水島はその仏壇の前に座り、線香を上げて丁寧に手を合わせてくれた。「ありがとう」と礼を言うと「いいんだよ」と静かに言ってくれた。

 紅茶をいれ水島が駅前で買ってきたレモンケーキをキッチンで切って皿に盛る。それを一人用の小さなテーブルに運んだ。


「……ああ、これ。あの駅前のだね」

「うん。水島さんおいしそうに食べてたのを覚えてたから。うち紅茶用のティーカップセットとかなくて……。マグカップでごめん」

「そんなの気にしないでいいよ。気を遣ってくれてありがとう」


 そう言いながら水島はフォークでゆっくりケーキを切り分けて口に運び、しばらく黙ったあと「うん、おいしいね」と小さく呟いた。


「僕の家族ってみんなバラバラだったんだ。親は僕が高校のときに離婚して、親権は父親が持った。母はすぐ別の人と再婚して音信不通。父は仕事仕事で家に寄りつかなかった。実質は陽向と二人で生活してたんだ。だから昔からずっと、陽向を守るのは僕だって心に決めてた」


 水島は黙って白石の話に耳を傾けてくれた。


「なのに二年前、呆気なく事故で亡くなって……僕は一人になった。だからあの日から“誰かを大切にする”ってことが怖くなった。でも水島さんに出会って、また……誰かのそばにいたいって、思ったんだ」


 その告白に水島の瞳が大きく見開かれた。これ以上言えば、あの告白に意味を持たせてしまう。それがわかっているのに白石は気持ちを押さえられなかった。


「俺も恋人が亡くなったとき、もう誰も好きになれないと思ってたよ……でも最近、気づいたことがある。忘れることが“終わり”じゃなくて、誰かを愛すると再び選ぶことでようやく“生きていく”ってことになるんだって」


 手に持っていたフォークを皿の上に置いた水島が、白石に向かってやんわりと微笑みかけてきた。その瞳の中に深い慈愛を感じて胸がきゅうっとなる。白石は目を伏せてゆっくりと小さく頷いた。


「怖くてもいいんだね。愛するってそういうこと、だよね」

「うん。きっと、そうだと思うよ」


 二人の間の空気が静かに溶けていく。水島の手がそっと白石の手の上に重ねられる。

 触れられた指先が温かい。

 白石の鼓動は静かに早く打っていく。

 その夜、二人の間にはなにも起きなかった。

 ただ隣に座って静かに映画を観て、紅茶をおかわりして言葉を交わした。

 白石が水島に告白した答えは聞けなかったが、それだけで十分だった。

 次の日の朝、水島は玄関を出るとき「またPearl Moonで」と言い残して帰って行った。

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