天は蒼茫、地は白妙。
雲のない空はどこまでも澄み渡り、かすむ気配を忘れて久しい。
広がる地平はなにひとつ起伏を持たず、彼方に伸びる天地の境は明瞭であった。
男がいた。独りきり。
背に数本の銛を担いだ、旅装の男だ。
青と白のふたつしかない荒野を平然と、拒まれることを知りながら暗い薄墨の影が歩みを進める。
何処から来たのか、どれほどの旅路であったのか。
背に伸びる一筋の軌跡が、男が刻んだ途方もなさを、寡黙に語るのみである。
足取りは、力強い。
だが足音は頼りない。地を踏みしめるたび、さりさりとするだけの音が鳴る。
足元を埋める白い大地は、塩の荒野であった。
地に伸びる影はない。男が落とす影も無い。
空は明るく、青いままだが、それだけだ。
男の風貌は、猟師のそれと似ていた。
潮焼けした皮膚、深く刻まれた皴の隙間にも塩粒が詰まったまま。
黒曜石の如き瞳には、獲物を狩ることを諦めない者だけが宿す光りがあった。
しかし、何を追うというのか。狩られるモノの影など、見当たらない。
生き物の気配を醸すのは、男ひとりのみ――
ふいに発した男の呟きが、男の孤独をいっそう際立たせた。
「七日目、頃合いか」
自信に満ちた声は、どこへも響かず荒野に吸われた。
足を止める。懐に手が隠れた。
すべてを掴めるのに、すべてが零れる虚しさを抱えた手であった。
再び現れた手の中には、小さな鐘が握られていた。
鐘塔の鐘に似たそれに、男は祈りの言葉を呟いた。
いずれか知らぬ、時の流れに沈んだ古い言葉。
男も意味を知っているのかどうか。
ただ、そうせねばならない――とだけを知っていた。
祈りを終えて、男は地平に向けて鐘を放った。
宙天に浮かぶ陽はないのに、鐘はきらめきながら弧を描き、落ちてゆく。
塩の大地に、吸われて消えた――途端。
遮るもののない広がりに、荘厳な音が響き、木霊した。
鐘が奏でる、弔いの調べであった。
すうっと息を肺に入れ、男の手が背の銛を撫でた。
地を覆う塩粒が、ちりちりと踊り始めた。やがて聴こえる、地の唸り。
遠くの白が、灰をはらんだ。
影。真黒い影が、地を泳いでくる。
空には、影を落とすものはない。しかし巨大な黒は、白い荒野に映っていた。
かつてこの地を統べたという、伝承に謡われる鯨だろうか。
あるいは、忘れ去られた太古の生き物か。
悠然と影だけが、塩の荒野を渡ってきた。
男は真っ直ぐに影を射竦め、銛を肩に構えて、駆けだした。
影が迫る。男はひるまない。
ひょうと風きりの音をなびかせて、銛が真っ黒な影に向かって落ちていく。
弔いの鐘が鳴る。
しゃりりと地を穿って、銛は地に刺さり影を縫い留めた。
影は動きを止めた。
弔いの鐘が鳴る。
悲鳴が聞こえた。
男のようであり、女のようでもあり、獣にも似た叫びだった。
地に横たわる黒い影は、そそり立つ銛を中心に渦を巻き始めた。
ばらばらと、さらさらと。
影は塩を巻き込み、黒い粒となって、やがて螺旋を描きだす。
天に伸び、立ち昇り、消えていった――
弔いの鐘が、鳴り止んだ。
男は地に腰を落ち着けて、螺旋と空を眺めていた。
見慣れたという顔を浮かべて、しかし満足げに目を細めた。
みるみる辺りが暗くなる。
青かった空が、真っ黒になった。
闇だった。だが、美しい。天は、月と星々のかがやきを宿していた。
白い荒野は、青白く照らされた。
――おまえだけのせいじゃない。なぜひとりで抱え込む。
故郷に残した父親の声が、いつものように男の胸を打った。
なぜだろう……もう、男にもわからない。
空を盗まれてから、どれほど経ったのかも忘れてしまった。
ひたひたとした水音が聞こえた。
風が帰る。頬を撫でた。
男の顔に笑みが浮かび、潮風が連れ去った。
立ち上がり、歩き始めた。
再び影を追うために。本物の空を取り戻すために。
彼方に翳る、薄青い空を、目指すのだった。
<了>