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影を追う
影を追う
まさつき
異世界ファンタジーダークファンタジー
2025年05月19日
公開日
1,537字
完結済
青と白だけがおりなす世界を、薄墨をまとった男がひとり、歩いていく。

影を追う

 天は蒼茫、地は白妙。

 雲のない空はどこまでも澄み渡り、かすむ気配を忘れて久しい。

 広がる地平はなにひとつ起伏を持たず、彼方に伸びる天地の境は明瞭であった。

 男がいた。独りきり。

 背に数本の銛を担いだ、旅装の男だ。

 青と白のふたつしかない荒野を平然と、拒まれることを知りながら暗い薄墨の影が歩みを進める。

 何処から来たのか、どれほどの旅路であったのか。

 背に伸びる一筋の軌跡が、男が刻んだ途方もなさを、寡黙に語るのみである。

 足取りは、力強い。

 だが足音は頼りない。地を踏みしめるたび、さりさりとするだけの音が鳴る。

 足元を埋める白い大地は、塩の荒野であった。

 地に伸びる影はない。男が落とす影も無い。

 空は明るく、青いままだが、それだけだ。

 男の風貌は、猟師のそれと似ていた。

 潮焼けした皮膚、深く刻まれた皴の隙間にも塩粒が詰まったまま。

 黒曜石の如き瞳には、獲物を狩ることを諦めない者だけが宿す光りがあった。

 しかし、何を追うというのか。狩られるモノの影など、見当たらない。

 生き物の気配を醸すのは、男ひとりのみ――

 ふいに発した男の呟きが、男の孤独をいっそう際立たせた。

「七日目、頃合いか」

 自信に満ちた声は、どこへも響かず荒野に吸われた。

 足を止める。懐に手が隠れた。

 すべてを掴めるのに、すべてが零れる虚しさを抱えた手であった。

 再び現れた手の中には、小さな鐘が握られていた。

 鐘塔の鐘に似たそれに、男は祈りの言葉を呟いた。

 いずれか知らぬ、時の流れに沈んだ古い言葉。

 男も意味を知っているのかどうか。

 ただ、そうせねばならない――とだけを知っていた。

 祈りを終えて、男は地平に向けて鐘を放った。

 宙天に浮かぶ陽はないのに、鐘はきらめきながら弧を描き、落ちてゆく。

 塩の大地に、吸われて消えた――途端。

 遮るもののない広がりに、荘厳な音が響き、木霊した。

 鐘が奏でる、弔いの調べであった。

 すうっと息を肺に入れ、男の手が背の銛を撫でた。

 地を覆う塩粒が、ちりちりと踊り始めた。やがて聴こえる、地の唸り。

 遠くの白が、灰をはらんだ。

 影。真黒い影が、地を泳いでくる。

 空には、影を落とすものはない。しかし巨大な黒は、白い荒野に映っていた。

 かつてこの地を統べたという、伝承に謡われる鯨だろうか。

 あるいは、忘れ去られた太古の生き物か。

 悠然と影だけが、塩の荒野を渡ってきた。

 男は真っ直ぐに影を射竦め、銛を肩に構えて、駆けだした。

 影が迫る。男はひるまない。

 ひょうと風きりの音をなびかせて、銛が真っ黒な影に向かって落ちていく。

 弔いの鐘が鳴る。

 しゃりりと地を穿って、銛は地に刺さり影を縫い留めた。

 影は動きを止めた。

 弔いの鐘が鳴る。

 悲鳴が聞こえた。

 男のようであり、女のようでもあり、獣にも似た叫びだった。

 地に横たわる黒い影は、そそり立つ銛を中心に渦を巻き始めた。

 ばらばらと、さらさらと。

 影は塩を巻き込み、黒い粒となって、やがて螺旋を描きだす。

 天に伸び、立ち昇り、消えていった――

 弔いの鐘が、鳴り止んだ。

 男は地に腰を落ち着けて、螺旋と空を眺めていた。

 見慣れたという顔を浮かべて、しかし満足げに目を細めた。

 みるみる辺りが暗くなる。

 青かった空が、真っ黒になった。

 闇だった。だが、美しい。天は、月と星々のかがやきを宿していた。

 白い荒野は、青白く照らされた。

 ――おまえだけのせいじゃない。なぜひとりで抱え込む。

 故郷に残した父親の声が、いつものように男の胸を打った。

 なぜだろう……もう、男にもわからない。

 空を盗まれてから、どれほど経ったのかも忘れてしまった。

 ひたひたとした水音が聞こえた。

 風が帰る。頬を撫でた。

 男の顔に笑みが浮かび、潮風が連れ去った。

 立ち上がり、歩き始めた。

 再び影を追うために。本物の空を取り戻すために。

 彼方に翳る、薄青い空を、目指すのだった。


<了>


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