ここは王都から馬車で半日。なだらかな丘陵地に囲まれた、小さな町。
特産品があるわけでもなく、景色も「悪くない」程度。旅人にとっては休憩か乗り換えのために立ち寄る場所でしかなく、冒険者たちにも「通過地点」として見なされがちだ。
そんな町の中心に、ささやかな冒険者ギルドがある。
地元の顔ぶれが集うそのギルドで、受付嬢として働いているのがクラリスだ。
「お疲れさまでした。釣果報告、こちらにどうぞ」
栗色の髪をまとめた清潔な身なり。肩からかけたエプロンからは、焼きたてのパンと香草スープの香りが漂う。受付嬢でありながら、ギルド併設の小さな食堂も任されており、彼女の料理を目当てに訪れる冒険者も多い。
帳簿の管理から食堂の献立、果ては喧嘩の仲裁まで──あらゆる雑務を一手に引き受け、時には軽く武器も振る。クラリスは、そんな万能受付嬢だった。
「……ナマズの捕獲依頼、また来たの?」
束ねた書類の中から、奇妙な依頼票を取り出す。
数日前に受け付けたのと同じく、「ナマズの捕獲」。だが、報酬額がやけに高い。
「ぷるぷる成分……? 乙女の輝き……?」
依頼文には、妙に気取った言葉が並ぶ。
美容目的? よく分からないが、たかがナマズに金貨を出すような酔狂な誰かが、王都あたりで流行を作っているのかもしれない。
そんなふうに考えていたが──この一週間で、ナマズ関連の依頼は五件目だった。
偶然の連続か、それとも何かの準備か。
首をかしげつつも、クラリスは深くは考えないことにした。
(どうせ、王都の金持ちが奇抜な美容法に飛びついたってとこでしょ)
それよりも厄介なのは、薬草の依頼だった。
「“レム香草”と“シェラウ根”……? こんなの、普段は誰も取らないのに」
香辛料に似た見た目を持つ薬草が、土付き・香り保持といった条件つきで大量に求められている。しかも報酬は相場の三倍以上。数日で似たような依頼が三件。
だが、クラリスの知る限り、この薬草は保存も調理も手間がかかるうえ、流通量が少ない。
(いや、そんなに気にすることじゃ──)
そう思い直した瞬間だった。
ギルドの扉が静かに開く。
入ってきたのは、見慣れぬ男の冒険者。
粗末な旅装に、長いマント。だが、手入れされた靴、無駄のない所作。
全体からただよう、どこか場違いな「整いすぎた」雰囲気に、クラリスはぼんやりとした違和感を覚えた。
(この人、なんか……慣れてない。動きは冒険者っぽいけど、仕草が上品すぎる)
そんな彼が向かったのは、依頼掲示板。
そして、ナマズと薬草の依頼を一枚ずつ剥がし、そのままクラリスのカウンターへ。
「この依頼を受けます。……ナマズの捕獲、それからこちらの薬草採取を」
「はい、確認いたします。お名前を……」
「ライ、です」
わずかに間を置いて名乗った男の表情は柔らかく、口元にはうっすらと笑み。だが、その視線はまっすぐで、少しも揺れていなかった。
提出された冒険者証は確かに正規のもの。所属は王都本部。
クラリスは眉ひとつ動かさず、いつものように笑顔を返した。
「では、どうぞお気をつけて」
男──ライは、黙って頷くとギルドを後にした。
扉が閉まったあと、クラリスは依頼票を整えながら、心の中でぽつり。
(あれが……“仕掛け人”だったりしてね)
軽口のつもりだったが、自分の声が思ったより真剣だったことに気づいて、クラリスは首を振った。
──ガラッ。
「クラリス姉ちゃん! おばぁちゃんがナマズ持ってきたって叫んでるよ!」
カウンターの奥から顔を出したのは、鍛冶見習いで妹のノエル。火花が散ったような三つ編みに、火の粉がまだ赤く瞬いている。
「ナマズって、依頼の? まさか、おばあちゃん……また釣ってきたの!?」
「うん! しかも、“しゃべった!”って大騒ぎ!」
「…………はああぁぁぁ!?」
叫ぶ間もなく、ギルドの扉が再び開いた。
「クラリス〜っ♪ お土産だよぉ〜ん♪」
帽子に野草を編み込み、背中に旅リュック、手には銀色のバケツ。
その中で、妙に目つきの鋭いナマズが、ぶくぶく泡を吹いていた──。
孫大好きな老女は一番自分に似て料理ができるクラリスに旅のお土産と言って食材を渡すのがひそかな楽しみであるクラリスの祖母、マルセラ・ポッテ。かつて王宮の厨房で鍋を振るった伝説の料理人にして、今は「食材探求の旅人」を名乗る自由人である。
「はいこれ。乙女の肌がぷるぷるになるって今王都で話題のナマズ! この前、王宮の裏の堀で釣ったのよ! すっごい大物だったんだから!」
クラリスは言葉を失った。
「……王宮の裏って、あの立ち入り禁止の……」
「そーそー♪ よく肥えてたわ、あそこ!」
得意げに言い放ち、バケツを差し出す祖母。クラリスが引き取ると、その中の黒光りするナマズが、ぷくぷくと泡を吐いた。鱗はぬるりと濡れ、瞳はじっとりと濡れて語りかけてくるような不気味さ。
そして――
「ねぇ……。あれぇ? その顔……なぁんか、気になるんだよねぇ……うん……ほら、あれでしょ……恋の悩み……とかさぁ……。」
クラリスの眉が跳ね上がった。
「……しゃ、しゃべった⁉」
ぬめるような声がギルドのロビーに響き渡った。バケツの中で、ナマズがねっとりと目を細める。
「ちょ……クラリス姉ちゃん、ナマズ、ナマズしゃべってるよ……!」
「知ってる……いや、知らなかったけど、知ってることにする……。」
クラリスはギルド受付嬢にして、戦える美食家。肩までの栗色の髪を一つにまとめた、二十歳のしっかり者。今まさに、現実から目を逸らしたい気持ちと全力で戦っていた。
「……お願いだから、もうちょっと普通に喋って。というか恋の話とかやめて。生臭さと生々しさがダブルで来るの、ほんと無理だから。」
そう言って、バケツをぐいと壁際へ押しやり、距離を取る。ナマズの「恋」なる単語に含まれるねっとり感が、脳にまで染み込んでくるようだった。
(ナマズが恋バナしてくるって、どうなの……。てかナマズがコイって突っ込むべきなの!?)
そんな内心が、顔全体にじわりと浮かんでいた。
その間にも、祖母マルセラは「トライヤング流海峡のリヴァイアサンのたたきが食べたいわ〜!」と叫びながら去っていった。
そして入れ替わるように、ギルドの扉が勢いよく開く。
「クラリス姉ー! 今日の会議室、取ってあるー?」
「もちろん、準備万端よ。はいはい、入って入って〜。」
駆け込んできたのは、うるティー会の面々。
クラリスの妹ノエルと、いとこたち。そんな娘たちを眺めて、生暖かい視線を向けるおっさんが一人。
「どうでもいいけどうちの受付嬢、ギルドの会議室私物化しすぎじゃない?」
「しょうがないじゃないですかギルド長。領主の娘さんたちも混ざってるし、ここの会議室ほぼ使われることないんですから。それに俺長いものには巻かれる主義なんで文句らるならギルド長言ってくださいよ。」
「……聞こえんなぁ。」
「地方ギルドの会議室なんて、大事件でもない限り使われないですしね。使用ついでに掃除までしてくれるんだから、まぁいいじゃないっすか。お茶会のおこぼれお菓子だってもらえるし食堂のご飯美味しくなるし。」
「食って人を良くするらしいからなぁ。」
――そんな感じの、懐の深いギルド長であった。