多摩川河川敷に広がる、青々と茂ったヨシ原。人一人を隠してしまいそうなほどの密集ぶりだ。
そんな場所に、桜色の髪の少女が倒れていた。まるで捨てられた人形のように、感情の一切を感じさせずに——。息はすでに無く、着物は、無惨に肩にかかっているだけ。
身体に残る赤い華は、犯人を知り得る手がかりともならぬまま少女は短い生涯を終えた。
悲しみに暮れる仲間たち。
涙する者も後を立たなかった。手厚く埋葬された彼女は、安らかに眠る事になる。
墓に訪れる者も少なく無く、彼女の墓にはいつも綺麗な花が手向けられていた。
彼女の生涯は、
————幕を閉じた筈だった。
————文久元年
春の風が、青く伸びたヨシをさらりと撫でてゆく。
河川敷には、ほんのりと草の匂いが混じった春の空気が漂っていた。
山崎烝は、一人きりでそこにいた。
手に持つのは、白い椿の花が数本と、粗末な線香だけ。
「……ちぃ。」
小さく、名を呼ぶ。それは、千夜の愛称だった。誰に聞かせるでもないその声は、風に溶けて流れていく。
あの日から、五年。
彼は一度も命日を欠かしたことがなかった。誰にも言わず、誰にも見せず、この場所に足を運び続けている。
目の前に広がるのは、かつて少女が無惨に遺されたこの場所。今では草が伸び、春の陽射しが穏やかに降り注いでいるが――
山崎の脳裏には、地面に倒れ伏す、あの小さな背中の輪郭が焼きついて離れない
「……嫌な予感がする」
地を蹴って駆ける。
目の前に広がるヨシ原をかき分け、息を潜めるように走る。ずっと――ずっと、あの光景を二度と見まいと誓った。けれど、運命はまた、同じ残酷を繰り返す。
視界の先、倒れていた桜色の髪が風に揺れた。そして、その上に重なるように、獣のような男たちの影。
胸の奥で何かが爆ぜた。
「……何してんねんっ!!」
怒鳴り声は、ほとんど本能だった。次の瞬間には、手が動き、足が動き、追い払うことしか考えていなかった。もはや斬ってもよかった。いや、斬りたかった。けれど、何かを押し殺すように歯を食いしばって、逃げていく男たちの背を睨みつけた。
「大丈夫か」
しゃがみ込んで、そっと彼女と同じ髪を持つ女を抱き起こす。彼女の身体は氷のように冷たく、小刻みに震えていた。
「……ちぃ」
名を呼ぼうとして、かろうじて飲み込む。
自分の膝に預けられた小さな体を、少しでも安心させようと、肩を包む手に力がこもる。
そのとき、彼女が掠れた声で、かろうじて言葉を紡いだ。
「……すす、む……」
その声を聞いた瞬間、全身の力が抜けた。
痛みと、温もりと、何よりも深い悔しさが胸を焼いた。
「もう、大丈夫や。俺がおる」
そう呟いた声が震えていたのは、風のせいやなかった。女の頬に触れた涙が、自分のものだったのか、彼女のものだったのか、もうわからなかった。
ただ一つ、はっきりしていたのは、
――もう、絶対に二度と、あの子を一人にはせぇへん。
それが、山崎烝の誓いだった。
千夜が死んだ事実を目の当たりににしたのに、己の前に現れた女に自分は、縋っている。
彼女は、『ちぃ』と瓜二つ。14歳で亡くなった彼女が、5年後の命日の日に再び自分の前に現れた。
それが、本当に自分が知った彼女か、全く分からない。
ザッザッっと小石を蹴る音が人が来た事を知らせる。山崎は、彼女の乱れた着物を手早く直し、その場を後にした。腕に抱いた温もりに、戸惑いを隠せないままーーー。
彼が向かった先は、水戸城。
徳川御三家の1つである水戸徳川家の居城だ。
目的地の手前に着いた時には、地上が暑い闇に閉ざされ、辺りは静寂に包まれる。肌に触れる風は、酷く冷たいもので、自分の翡翠色の羽織で彼女を包み、抱え直した。
水戸城大手門から堂々と中に入っていく山崎。しかし、見張りは、彼の足を止める。
「待たれよっ!!」
槍を持ち、その切っ先を山崎に向ける見張りは、彼の抱える女に視線を向ける。
「その方、異人を連れ込むなどーーーーっ…。」
山崎の双眸は、キッと殺気を孕んだ視線を見張りに向け、相手を黙らせるほどに睨みつける。
「取り急ぎ、慶喜公にお会いしたい。妹君を連れ帰ったとーー。」
自分の腕に居るのは、本当に慶喜の妹君なのか、定かでは無い。しかし、彼女を連れ帰る安全な場所は、此処しかない。
「は、はっ!!」
慌てて伝令に行った見張りの背を見送り、山崎は、門をくぐった先で未だ起きる気配のない彼女の身体を下ろし、出来る限り着物を直していく。
目に入った椿の花。赤く綺麗な花は、彼女の生き方すら変えてしまった花だ。
「…椿。」
彼女の本当の名前を呼ぶ。
この花は、彼女の母が1人の男に想いを寄せて居た証の花。その花の名をつけられた彼女は、想い人の子であると家臣らは決めつけた。
その花が、想い人の藩の周りに多く生息して居るからーーーーそんな理由で、彼女は、家臣らにこう呼ばれて居た。
『ーーーー汚れた姫様』
と…。
どれぐらい、大手門の前で待ったか…
3月終わりだと言うのに、昼の陽気とは打って変わり、彼女の着物が氷の様に冷たく感じ、山崎は、再び軽い華奢な身体を抱き上げる。少しの熱を与える様に少しばかり腕の力を入れたのは、彼女が『ちぃ』に似ているからだ。
目に角を立てる様な視線に加え、息を潜め口を動かす様は、陰口を叩いている様にしか見えない。素知らぬふりを決め込んで、待ち人をジッと待った。
(人の気も知らんと、呑気に寝てからに…)
眠ったままの彼女に悪態をつく。しかし、意識の無い女になにを思おうが反応は返ってこない。
そして、とうとう待ち人が現れた。
灯火が揺れ、相手の顔が照らし出される。洗練された立ち振る舞い、すーっと鼻筋の通った知的な顔立ち。
陰口を叩いて居た者達は、一斉に口を噤み、頭を垂れた。
「ーーーー椿っ…」
優しい声色を発した男、一橋慶喜。後の、15代将軍となる人物である。
もっとも、それは、まだ先の話し。この時、慶喜は、将軍後見職になったばかりであった。
山崎の腕にある温もりに手を伸ばす慶喜に、壊れモノを渡すかの様に腕に乗せてやれば、大事そうにソレを抱きしめる。
それが、妹との十数年振りの再会となったーーーー
己の事も何もかも思い出せないまま、気づけば水戸城に自分は居た。
どこまで続か分からない手入れされた庭をただ見つめ、着慣れぬ着物を身に纏うも心は何処かに置き去りのまま、桜色の髪は結われる事も無く風に靡く。
皆は、自分を椿様と呼ぶも、その名前にも違和感しか無く、
「————私は、誰なんだろう。」
そんな事を呟いていく。
身につけていた着物と荷物は、自分の手元にあるものの、自分の事を知る物は何一つとしてなかった。手がかりもないまま、ただ、時が刻まれていく。
————————
————
水戸城の一室で、二人の男が向かい合って座っていた。
一人は山崎烝。
もう一人は、後に江戸幕府第十五代将軍となる男——今はまだ「一橋慶喜」と名乗っていた。
「女中の話しでは、あの子の腹には傷があったそうだ。」
湯浴みの際、その傷があった。そう告げる慶喜。その傷は、彼女である証の様な傷であった。
十年前、山崎は、桜色の髪の幼女を連れ、水戸から大阪へと向かう手筈だった。しかし、それは山賊に襲われ失敗に終わり、彼女は、江戸で生活する事になる。彼女は、記憶を無くし、土方歳三に助けられ千夜と名前を変え生きてきた。
目の前の男の妹を奪ったのは、己である。
将軍後任職である慶喜の実の妹君を連れ去った大罪人。
「————っ。」
桜色の髪の幼女は、腹を刺された事がある。それが彼女の証。だが自分は、確かに椿の遺体を抱き上げた。息もないそれは、紛れもない屍であった。
「よくやった。山崎。」
まるで霧が晴れる様な喜びに満ちた声色でそう言った慶喜。
「————…いえ。」
彼とは対照的に、ジーンと沁み込んでいく様な
此処に連れ帰った時、世の母が子に向ける様な優しい視線を意識の無い彼女に向けていた慶喜。そこに将軍後見職などと言う役職など垣間見る事など出来なかった。
山崎は、大事な何かを無くしたかの様な浮かない表情で慶喜を見据えた。
本当の事を伝えねば。そう思いながら五年という年月が過ぎ去った。
「お話しがございます。」
意を決した真剣な面持ちの山崎。慶喜は、彼の正面に向かい合って座り、彼の言葉を待った。
妙に身体と心が固くなる。それは、相手が身分がある人物だからか?
————いや、違う。
自分が守ると誓いながらも、その役目すら全う出来なかった憤り。それを伝えなければならないと言う恐怖から山崎の手は、微かに震えた。
「俺は…っ。
俺は、ちぃを守れんかった…。」
報告するつもりだった。
けれど、口を開いた瞬間に、出たのは情けない言葉だけ。
胸を突き上げる想いに、涙がこぼれ落ちた。
彼から大事な妹を奪い、挙げ句の果てに、守りきれなかった事実に、畳に手を付き頭を下げるので精一杯。
そんな事では許されない事は、百も承知。かくなる上は、切腹して果てるまでと、山崎が懐からクナイを取り出した瞬間——
慶喜の眉がひくりと動いた。
空気が張り詰める。
「それで何をする気だ?山崎。」
春の日差しの様にどこまでも柔らかな声で山崎に問う慶喜はクナイを見て、眉の間を微かに曇らせた。
「椿様の命を守るのが俺の役目や。せやから————っ」
「だから、死ぬと申すかっ!!」
激しい口調で叩きつける様に放たれた言葉に息を飲む。未だ嘗て、彼の怒鳴り声など聞いた事など無かったからだ。
「…………。」
ただ驚いて、視線を彷徨わせる山崎。
「山崎。」
その声に、もう怒りの気配はなかった。
包み込むような優しさに、思わず「はい」と応じる。
本当は伝えたいことがあるのに、心がざわめきすぎて、うまく言葉にできなかった。
「————死ぬ事は、許さん。」
手に握ったままであったクナイを取り除いた慶喜は、いつも通りに山崎に接する。
「今日は、どうした?あの子の事で疲れが溜まったか?」
彼の優しさは、大事なモノを奪ってしまった自分には、とても痛いもので、かわりに連れて来た桜色の髪の持ち主を見れば、『ちぃ』を思い出す。
「俺は————っ。」
伝えなければならないのに、伝えられないのは、全ての現実を受け入れたくないからだ。
5年も、曖昧にしたまま、自分は逃げて来た。
「今日のお前は、少し変だな。
お前は、しっかり椿を守っているじゃないか。こうして、連れ帰ってくれた事に感謝している。」
その言葉は鉛の様に重く、収拾のつかない自己嫌悪に駆られ様とも全てが後の祭り。
「これからも、椿の事、
よろしく頼んだぞ。山崎。」
それが、自分にできる唯一の“贖罪”であるかのように——。
「…っ…。御意。」
そう答える他なかった————