多摩川河川敷に広がる、青々と茂ったヨシ原。人一人を隠してしまいそうなほどの密集ぶりだ。
そんな場所に、桜色の髪の少女が倒れていた。まるで捨てられた人形のように、感情の一切を感じさせずに——。息はすでに無く、着物は、無惨に肩にかかっているだけ。
身体に残る赤い華は、犯人を知り得る手がかりともならぬまま少女は短い生涯を終えた。
悲しみに暮れる仲間たち。
涙する者も後を立たなかった。手厚く埋葬された彼女は、安らかに眠る事になる。
墓に訪れる者も少なく無く、彼女の墓にはいつも綺麗な花が手向けられていた。
彼女の生涯は、
————幕を閉じた筈だった。
————文久元年・水戸藩邸
己の事も何もかも思い出せないまま、気づけば水戸城に自分は居た。
どこまで続か分からない手入れされた庭をただ見つめ、着慣れぬ着物を身に纏うも心は何処かに置き去りのまま、桜色の髪は結われる事も無く風に靡く。
皆は、自分を椿様と呼ぶも、その名前にも違和感しか無く、
「————私は、誰なんだろう。」
そんな事を呟いていく。
身につけていた着物と荷物は、自分の手元にあるものの、自分の事を知る物は何一つとしてなかった。手がかりもないまま、ただ、時が刻まれていく。
————————
————
水戸城の一室で、二人の男が向かい合って座っていた。
一人は山崎烝。
もう一人は、後に江戸幕府第十五代将軍となる男——今はまだ「一橋慶喜」と名乗っていた。
「女中の話しでは、あの子の腹には傷があったそうだ。」
湯浴みの際、その傷があった。そう告げる慶喜。その傷は、彼女である証の様な傷であった。
十年前、山崎は、桜色の髪の幼女を連れ、水戸から大阪へと向かう手筈だった。しかし、それは山賊に襲われ失敗に終わり、彼女は、江戸で生活する事になる。彼女は、記憶を無くし、土方歳三に助けられ千夜と名前を変え生きてきた。
目の前の男の妹を奪ったのは、己である。
将軍後任職である慶喜の実の妹君を連れ去った大罪人。
「————っ。」
桜色の髪の幼女は、腹を刺された事がある。それが彼女の証。だが自分は、確かに椿の遺体を抱き上げた。息もないそれは、紛れもない屍であった。
「よくやった。山崎。」
まるで霧が晴れる様な喜びに満ちた声色でそう言った慶喜。
「————…いえ。」
彼とは対照的に、ジーンと沁み込んでいく様な
此処に連れ帰った時、世の母が子に向ける様な優しい視線を意識の無い彼女に向けていた慶喜。そこに将軍後見職などと言う役職など垣間見る事など出来なかった。
山崎は、大事な何かを無くしたかの様な浮かない表情で慶喜を見据えた。
本当の事を伝えねば。そう思いながら五年という年月が過ぎ去った。
「お話しがございます。」
意を決した真剣な面持ちの山崎。慶喜は、彼の正面に向かい合って座り、彼の言葉を待った。
妙に身体と心が固くなる。それは、相手が身分がある人物だからか?
————いや、違う。
自分が守ると誓いながらも、その役目すら全う出来なかった憤り。それを伝えなければならないと言う恐怖から山崎の手は、微かに震えた。
「俺は…っ。
俺は、ちぃを守れんかった…。」
報告するつもりだった。
けれど、口を開いた瞬間に、出たのは情けない言葉だけ。
胸を突き上げる想いに、涙がこぼれ落ちた。
彼から大事な妹を奪い、挙げ句の果てに、守りきれなかった事実に、畳に手を付き頭を下げるので精一杯。
そんな事では許されない事は、百も承知。かくなる上は、切腹して果てるまでと、山崎が懐からクナイを取り出した瞬間——
慶喜の眉がひくりと動いた。
空気が張り詰める。
「それで何をする気だ?山崎。」
春の日差しの様にどこまでも柔らかな声で山崎に問う慶喜はクナイを見て、眉の間を微かに曇らせた。
「椿様の命を守るのが俺の役目や。せやから————っ」
「だから、死ぬと申すかっ!!」
激しい口調で叩きつける様に放たれた言葉に息を飲む。未だ嘗て、彼の怒鳴り声など聞いた事など無かったからだ。
「…………。」
ただ驚いて、視線を彷徨わせる山崎。
「山崎。」
その声に、もう怒りの気配はなかった。
包み込むような優しさに、思わず「はい」と応じる。
本当は伝えたいことがあるのに、心がざわめきすぎて、うまく言葉にできなかった。
「————死ぬ事は、許さん。」
手に握ったままであったクナイを取り除いた慶喜は、いつも通りに山崎に接する。
「今日は、どうした?あの子の事で疲れが溜まったか?」
彼の優しさは、大事なモノを奪ってしまった自分には、とても痛いもので、かわりに連れて来た桜色の髪の持ち主を見れば、『ちぃ』を思い出す。
「俺は————っ。」
伝えなければならないのに、伝えられないのは、全ての現実を受け入れたくないからだ。
5年も、曖昧にしたまま、自分は逃げて来た。
「今日のお前は、少し変だな。
お前は、しっかり椿を守っているじゃないか。こうして、連れ帰ってくれた事に感謝している。」
その言葉は鉛の様に重く、収拾のつかない自己嫌悪に駆られ様とも全てが後の祭り。
「これからも、椿の事、
よろしく頼んだぞ。山崎。」
それが、自分にできる唯一の“贖罪”であるかのように——。
「…っ…。御意。」
そう答える他なかった————