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上巻 第一章 マールの村

第一話 紅の髪の少女

「……こ、ここは?」


 気がつくと、濃い緑の坂道に、うつせでたおれていた。

 草たちは静かに明日あすの光を待ちわびて眠りにつき、小さな虫たちの合奏が心地良ここちよい。遠くから風に乗ってくる、夜の森からの香りが強くて、せそうになった。


 立ち上がって、周囲しゆういに目を向ける。


 坂道の片側は岩壁いわかべになっていて、その反対は崖だった。

 崖の上に浮かんでいるあおの月と赤の月が、光を混ぜ合わせて辺りを紫色むらさきいろに染め上げている。紫の月光げつこうから逃れた清々すがすがしい夜空には、くだったガラスのように、星が散りばめられていた。


「きれい」


 心の奥底おくそこからこぼれる、言の葉。

 こんなにも美しい光景とは裏腹に、頭の中はまるで霞掛かすみがかったかように、はっきりとしない。


 自分になにが起きたのか。

 何故なぜ、ここにいるのか。


 こんなに晴れた夜空なのに、どうしてかみも、服も、かばんも、全部ずぶれになっているのか。


 なにも……思い出せない。


 呆然ぼうぜんとするしかなかった。

 顔を下げて、髪に指を通す。


「私、は……あれ?」


 自分の名前が頭から出てこない。

 身体中からだじゆういじってみると、それほどとしを取っているような感じはしない。

 むしろまだ成長の途中とちゆう……だと信じたい。


 特に、むね


「なんで? なんでなんでなんで?」


 どこか強く打ったのかもしれないと、頭をきむしるようにさぐる。

 しかし、そんなきずあとは全くなかった。


「くちっ!」


 夏の夜風が、れた衣服を否応いやおうなく冷やす。

 辺りをもっとよく観察してみると、岩壁の向こう側には更に大きな、まるで巨人きよじんが横になっているかのような山にいだかれた、おかの上だった。


 夜なのであまりはっきりとはわからないけれど、自分のように非力な女の子が、夜中にいていい場所ではないことは理解りかいできた。


「とにかく、どこかに……あ!」


 その時、おかを下った先に、かすかな明かりがいくつかともっていることに気がついた。ゆらめく松明たいまつあかりではなくしっかりと固定された、街の明かりだ。


「あそこに、行こう」


 ここにいるよりかは、いくらかマシだろうと、ぎゅっとこぶしにぎり、れたかばんかたにかけて、丘を下っていく。


 あの村に行けば、なにかがわかるんじゃないか。

 もしかしたら、父や母がいるかもしれない。

 それなら「こんな時間に、どこに行っていたの!」って、おこられちゃうかな。


 でも、それでもいい。

 それがいい。


 誰もいない夜の丘の上で、晴天にもかかわらず、ずぶれで、記憶きおくもなくなっちゃって、自分でも自分の身になにが起きたのかが全くわからない今よりは、しかってくれる人がいるのなら、そのほうがいい。


 とことこと、歩いて行く。


 やがて煙突えんとつがある建物がいくつか見えてきた。坂道が終わると、突然とつぜん煉瓦れんがかれた道へと変わったので、それに足をっかけて、転んでしまった。


いたいぃ~」


 ひざりむいた。


 でも、一人じゃない。

 ここには人の香りがする。

 それだけで何故なぜか、胸の中を安堵あんどが広がっていった。


 今は無性むしように、人に会いたい。

 会話をしたい。

 ぬくもりを感じたい。


 その思いを力にして立ち上がり、つつから立ち上るけむりを目安に歩き出す。

 急に、お腹なかいてきた。

 安堵感あんどかんが、麻痺まひしていた肉体に現実を知らしめる。


 やがて一軒いっけんの家にたどりつくと、すがるようにとびらへ向かった。


「すみません、どなたか――」


 どんどん、と、木のとびらたたく。


「どなたか、いらっしゃいませんか?」


 返事がない。

 悄然しようぜんとした思いからか、まるで地面に吸い取られるかのように、全身ぜんしんから力がけていく。


 その時。

 家の中から、足音のような物音が聞こえた。


「はいはい、どちらさまかな?」


 やさしそうな男性の声が、心をやわらげてくれる。


「あ、あの、申しわけ、ありませんが……一宿一飯いつしゆくいつぱんの、ご恩を――」


 そこで目の前が、くらになった。

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