「……こ、ここは?」
気がつくと、濃い緑の坂道に、うつ伏せで倒れていた。
草たちは静かに明日の光を待ちわびて眠りにつき、小さな虫たちの合奏が心地良い。遠くから風に乗ってくる、夜の森からの香りが強くて、噎せそうになった。
立ち上がって、周囲に目を向ける。
坂道の片側は岩壁になっていて、その反対は崖だった。
崖の上に浮かんでいる蒼の月と赤の月が、光を混ぜ合わせて辺りを紫色に染め上げている。紫の月光から逃れた清々しい夜空には、砕け散ったガラスのように、星が散りばめられていた。
「きれい」
心の奥底から零れる、言の葉。
こんなにも美しい光景とは裏腹に、頭の中はまるで霞掛かったかように、はっきりとしない。
自分になにが起きたのか。
何故、ここにいるのか。
こんなに晴れた夜空なのに、どうして髪も、服も、鞄も、全部ずぶ濡れになっているのか。
なにも……思い出せない。
呆然とするしかなかった。
顔を下げて、髪に指を通す。
「私、は……あれ?」
自分の名前が頭から出てこない。
身体中を弄ってみると、それほど年を取っているような感じはしない。
むしろまだ成長の途中……だと信じたい。
特に、胸。
「なんで? なんでなんでなんで?」
どこか強く打ったのかもしれないと、頭を掻きむしるように探る。
しかし、そんな痕は全くなかった。
「くちっ!」
夏の夜風が、濡れた衣服を否応なく冷やす。
辺りをもっとよく観察してみると、岩壁の向こう側には更に大きな、まるで巨人が横になっているかのような山に抱かれた、丘の上だった。
夜なのであまりはっきりとはわからないけれど、自分のように非力な女の子が、夜中にいていい場所ではないことは理解できた。
「とにかく、どこかに……あ!」
その時、丘を下った先に、微かな明かりがいくつか灯っていることに気がついた。ゆらめく松明の灯りではなくしっかりと固定された、街の明かりだ。
「あそこに、行こう」
ここにいるよりかは、いくらかマシだろうと、ぎゅっと拳を握り、濡れた鞄を肩にかけて、丘を下っていく。
あの村に行けば、なにかがわかるんじゃないか。
もしかしたら、父や母がいるかもしれない。
それなら「こんな時間に、どこに行っていたの!」って、怒られちゃうかな。
でも、それでもいい。
それがいい。
誰もいない夜の丘の上で、晴天にもかかわらず、ずぶ濡れで、記憶もなくなっちゃって、自分でも自分の身になにが起きたのかが全くわからない今よりは、叱ってくれる人がいるのなら、その方がいい。
とことこと、歩いて行く。
やがて煙突がある建物がいくつか見えてきた。坂道が終わると、突然、煉瓦が敷かれた道へと変わったので、それに足を突っかけて、転んでしまった。
「痛いぃ~」
膝を擦りむいた。
でも、一人じゃない。
ここには人の香りがする。
それだけで何故か、胸の中を安堵が広がっていった。
今は無性に、人に会いたい。
会話をしたい。
温もりを感じたい。
その思いを力にして立ち上がり、筒から立ち上る煙を目安に歩き出す。
急に、お腹が空いてきた。
安堵感が、麻痺していた肉体に現実を知らしめる。
やがて一軒の家にたどりつくと、すがるように扉へ向かった。
「すみません、どなたか――」
どんどん、と、木の扉を叩く。
「どなたか、いらっしゃいませんか?」
返事がない。
悄然とした思いからか、まるで地面に吸い取られるかのように、全身から力が抜けていく。
その時。
家の中から、足音のような物音が聞こえた。
「はいはい、どちらさまかな?」
優しそうな男性の声が、心を和らげてくれる。
「あ、あの、申しわけ、ありませんが……一宿一飯の、ご恩を――」
そこで目の前が、真っ暗になった。