天下には十三の州がある。
中国北東部の幽州、冀州。
北部の并州。
北西部の涼州。
東部の青洲、徐州。
中央部の司州、兗州、豫洲。
南東部の揚州。
南部の荊州、交州。
南西部の益州。
これらの州は名目上はすべて後漢最後の皇帝、献帝のものであるが、実質は異なる。
ほとんどが曹操のものである。
孫権が揚州と交州を有し、かろうじて対抗している。
益州は劉璋が支配しているが、彼に天下をうかがう気概はない。
そして長坂の戦い、赤壁の戦いとつづけて係争地になったのが、荊州である。
荊州は七つの郡から成っている。
その中央部は江水が横断している。
江水より北に南陽郡、南郡、江夏郡があり、南に武陵郡、長沙郡、桂陽郡、零陵郡がある。
荊州刺史だった劉表は曹操の南征前に死去し、劉琮が跡を継いだが、彼は曹操に降伏した。
それによって荊州は魏のものとなったが、曹操は赤壁の戦いで呉に大敗した。
江夏郡太守の劉琦は親劉備派で独立していたが、建安十四年に病没する。
赤壁戦後、荊州情勢は混沌としていた。
曹操、孫権、劉備の争いの焦点となっている。
周瑜軍に烏林の陣を焼き払われた曹操は、江水北部の密林と湿地を通り抜け、からくも死地を逃れた。
呉軍が、弱体化した魏軍を追って、北伐を敢行するのは必至である。
曹操は、人材豊かな魏軍の中でも屈指の将である曹仁を行征南将軍に任じ、江水北岸の江陵城を守らせた。
江陵は南郡の郡府である。
周瑜は三万の兵力で江陵城を包囲した。
江陵攻防の初戦で、曹仁は数百人の決死隊を呉軍に突撃させ、大いにかき乱した。
その後、堅固に籠城した。
曹仁軍は孤軍ではない。背後に分厚い魏の領土が広がっている。
江陵城は一年間ほども落ちず、そこに周瑜を釘付けにしたのである。
曹仁は落城を恥じたが、曹操が敗戦から立ち直る時間をかせいだ。功績と言ってよい。
周瑜はあげくの果てに、江陵攻略からほどなくして、病死してしまうのである。
江陵攻防戦には、呉軍側に付いて、劉備も参加していたが、周瑜は父を信用していない。
赤壁の戦いの決着直後に、劉備は曹操を追う余力があったのに、その軍旅は遅かった。
周瑜は父に重責をまかせない。弱兵の将だと思っているようである。
劉備は周瑜とともに、長く江陵にとどまることを好まなかった。
諸葛亮に相談し、作戦を得た。
「江陵以外の荊州の地も平定されておらず、乱があります。そちらに転戦して、呉軍の後背を安らかにしたいと存じます」と父は周瑜に申し出た。
周瑜は他地域の動乱に不安を感じ、江陵では活用していない劉備軍だからと考えたのか、これを許可した。
どうせたいしたことはできまい、とたかをくくっていたのかもしれない。
だが、劉備は周瑜が江陵城に手を焼いている間に、荊州南部の四郡の攻略に成功したのである。
武陵郡、長沙郡、桂陽郡、零陵郡が父の実質的な領土となった。
長らく流浪を重ね、地盤を持たなかった劉備が初めて独力で得た土地であった。
周瑜は後悔し、歯噛みしたにちがいない。
わずか二千の兵しか持たなかった劉備だが、地盤を得ると、多くの兵が帰順してきて、すぐに一万を超える軍勢を持つようになった。
武陵郡の良吏廖立、長沙郡にいた武将黄忠、養子にまでした若者劉封ら人材も獲得した。
勇将魏延も新たに得た人材のひとりである。彼は長沙城を守っていた韓玄の部下だったが、秘かに劉備を慕っていたようで、降ってきた。
魏延が劉備と対面したとき、諸葛亮は韓玄を裏切った行為をとがめた。
「彼には反骨の相があります。配下にするのは危険で、斬るべきです」
諸葛亮は魏延に、第一印象の悪さを感じたのであろう。なぜなら黄忠も韓玄の下にいたのに、彼の降伏を諸葛亮は歓迎したからである。魏延だけをとがめた(実際、諸葛亮と魏延の相性は悪く、後の魏との戦争のときに、対立することになる。ふたりの関係が良好であれば、蜀は魏を相手に善戦できたかもしれない。魏延は敵の弱点をつく軍事作戦を立案できるのである。堅実さを優先する諸葛亮と奇策を好む魏延との戦略、戦術の齟齬があったと言えるかもしれない)。
「孔明、ここで魏延を斬れば、わしに降伏する将はいなくなってしまう」
父は諸葛亮の言を取りあげず、魏延を旗下に加えた。
前世のことであるが、益州攻略の際、劉備は魏延を重用した。彼もよくその期待に応えて、活躍した。
父の死後、諸葛亮は北伐の将のひとりとして、魏延を率いた。虫が好かなくても、彼を活用しないわけにはいかなかった。それほど魏延の武勇はすぐれていたのである。
だが、長安を攻撃しようという魏延の献策は用いなかった。
五丈原における諸葛亮の死の直後、魏延は楊儀と対立し、蜀軍に混乱を起こす。彼は楊儀に殺されることになる。
結局、魏延は反逆的だったのであろうか。
私には、諸葛亮が彼をうまく使わなかったから、このような末路をたどらせてしまったのではないかと思えてならない。
孔明は偉大な政治家であったが、軍事は必ずしも得意ではなかったかもしれない。項羽を倒した功績があった韓信のような作戦のきらめきはなかったし、劉邦や劉備にあった寛容もなく、一度の敗戦で、泣いて馬謖を斬るようなことも行ってしまった。
父が荊州南部を押さえたとき、私は三歳だったが、諸葛亮と魏延の因縁について、考え込まざるを得なかった。
さて、劉備は荊州四郡の首府を江水南岸の江安に定めた。
江安はもとは油江口と呼ばれていた小さな港街であったが、父が根拠地としたため、やがて大きな街に成長した。
流浪しつづけていた劉備はここに官衙を建てて腰を据え、多数の官吏を従えるようになるのである。
一方、孫権は大軍十万を率いて北伐し、合肥を攻めたが、魏将が手ごわく、攻略に失敗した。
孫権は曹操の逆襲に備えて、劉備とかたく手を結ばざるを得なくなった。
周瑜の死後、荊州北部を劉備に割譲し、その守備をゆだねた。
父は荊州全土の支配者になったのである。
その頃、荊州南郡にいた智将龐統も、劉備に帰順した。
諸葛亮は父に士官する前、水鏡先生や学友にその才能を認められて、伏龍と呼ばれていた。
彼と並んで、龐統は鳳雛と評された才知の持ち主である。
前世の記憶では、龐統は劉備軍の益州攻撃中に戦死する。惜しい人材を、これからというときに失うのである。
龐統と魏延、このふたりをもっと活用することが、大国魏を攻略する鍵なのではないか、と私はこの時期に考えていた。