予鈴が鳴ると、教室のざわめきがピタリと止まる。
教壇に立つ、眼鏡の中年の男――担任の川野先生だ。
川野は名簿を片手に、全員に手を振った。
「はい、じゃあ出席を取るぞ。静かにしろよ」
ゆるい声が教室に響き、生徒たちは適当に背筋を伸ばす。
佐藤さんの笑顔に浮かれていた俺は、塩見のことが若干どうでもよくなっていた。
俺の心配も杞憂に終わりそうだし、もう過去の話ってことでいいだろう。
「赤羽一彦」
「はい!」
反射的に答える。
川野が名簿にチェックを入れ、淡々と次の名前を読み上げる。
「石川悠斗」
「はい」
「岡田美咲」
「はーい」
いつも通りのルーティン。
教室の空気が落ち着いていく。
ほら、な?
塩見なんかいねえよ。
「
「はい!」
弾けるような、わざとらしい元気な声が教室のどこからか響いた。
……は?
一瞬、時間が凍りつく。
心臓がドクンと跳ね、ペンを握る手がカチコチに固まる。
……噓だろ!?
思わず周囲を見回す。
他のクラスメイトたちもポカンとした顔でざわつき始める。
『え、誰?』『白影って何?』
クスクス笑いが混じり、教室が一気に騒がしくなる。
川野が名簿を凝視して首をかしげる。
「おっと、すまん。プリントミスだな。変な名前が入ってる」
眼鏡をずり上げ、気まずそうに笑う。
いや、違う。
ミスなんかじゃない。
背筋に冷や汗がツーっと流れる。
あの声、絶対に聞き覚えがある。
電車で俺を「
教室内に、黒い忍装束なんてどこにもいない。
窓際の生徒はスマホをいじり、前の席のやつは欠伸してる。
佐藤さんは不思議そうに眉を上げてこっちを見ていた。
『さっき返事したのお前?』『え、ちがうちがう、ちょ、こわッ』
「はいはい、静かに。次、佐藤咲」
川野先生が手を叩き、佐藤さんが「はい」と静かに答える。
その間も、俺は頭をフル回転させる。
…………いる。
この教室に、絶対にいる。
「
塩見の仕業だ。
前の学校で、40人全員が「武装集団が来る!」なんてバカ騒ぎしてた頃。
塩見は教室の隅で、『幻身の術』と記された古びた巻物を片手に、ニヤニヤと複雑な印を素早く結びながら、術を唱える練習をしていた。
なんか「我、影と成りて、敵を惑わす術を極めん」って低く呟いていたな。
今、ヤツはこのクラスの誰かに……。
「……塩見、てめえ、何企んでやがる」
ホームルームが続く中、先生の声が遠くに聞こえる。
「はい、じゃあ今日の連絡事項。文化祭の準備、来週から…」
いつも通りの空気のはずなのに、どこかピリッとした緊張感が漂う。
心臓が嫌なリズムを刻む。
「赤羽、ちょっと」
ハッと顔を上げると、川野が教壇から手招きしていた。
ニコニコした顔が、なぜか不気味だ。
「……はい?」
渋々教壇に近づく。
「赤羽、今日、現国のノート忘れただろ? 今朝、お母さんが職員室に届けてくれたぞ。ほら」
先生がくしゃっと笑いながら、使い込んだノートを差し出してくる。
……は? おふくろが?
頭が真っ白になる。
一人暮らしの俺の母親は、遠く離れた実家にいるはず。
俺になんの連絡もなしに、学校に来るわけがない。
ましてや、ノートを届けに来る?
そんなバカな話……。
「いや、先生、待ってください。そんなはず…」
「ハハ、照れんなよ。受け取っとけ」
半ば強引にノートを押し付けられ、ゴクリと唾を飲んで受け取る。
確かに俺のノートだ。
表紙には、俺の字で「現代国語」と書いてある。
「……ありがとうございます」
とりあえず礼を言って席に戻る。
佐藤さんがチラッとこっちを見て、小さく微笑む。
「よかったね、ノート。忘れ物って焦るよね」
「ハハ、うん、そうだね」
笑顔で返すが、佐藤さんのマドンナスマイルも、今は頭に入ってこない。
机に座り、ノートをそっと開く。
漢字の書き取りや小説の読解メモが、俺のぐちゃぐちゃな筆跡で並んでる。
間違いなく俺のものだ。
気まぐれにページをめくると、裏表紙に、黒いボールペンでギッチリ書かれた見慣れない文字が目に入った。
……なんだ、これ?
目を凝らす。
そこには、まるで怪文書のような、細かくて乱暴な字が並んでいた。
―――――――――――――――
武装集団が来なかった。俺たちの準備は無駄だったのか? 否。
ならば、俺たちが「武装集団」になればいい。
桜ヶ丘学園を占拠し、俺たちの「計画」を完遂する。
次の現国の授業までに、返答を考えておけ。
断れば……分かってるな?
―――――――――――――――
「……はぁ!?」
ノートをバタンと閉じ、再び教室を見回す。
頭がカッと熱くなり、指が震える。
「武装集団になればいい」って、おまっ。
なんだこのバカすぎる犯行声明文はッ!
いや、でも……ヤツならやりかねない。
電車での一件、名簿の『
全部、塩見の仕掛けだ。
おふくろに扮してノートを届けたのも、きっとヤツに違いない。
「赤羽くん? なんか……汗、すごいよ?」
佐藤さんのひそひそ声に、ビクッと肩が跳ねる。
「え、いや、なんでもない! ハハ、課題忘れたかと思ってさ!」
必死で誤魔化し、ノートを机の中に突っ込む。
誰にも見せるわけにはいかねえ。
バレたら、俺の青春は即終了だ。
「ふふ、課題忘れただけでそんな汗? 面白いね、赤羽くん」
佐藤さんがクスクス笑う。
その笑顔がいつもなら癒しなのに、今は心臓に悪い。
頭の中で塩見のニヤついた顔がチラつく。
アイツは誰にでも変装できる。
電車での一件といい、ヤツを見つけるのは至難の業だ。
予鈴が鳴り、現国の授業が始まる。
ノートに書かれた怪文書の文字が、まだ頭の中でぐるぐる回ってる。
くそっ、完全に手のひらで転がされてる。
「どこにいる……塩見、ぜってえ、見つけてやるからな」
唇が小さく動く。
誰にも聞こえない、俺だけの宣戦布告。
この教室はもう、ただの日常じゃねえ。
塩見が潜む、敵の領域だ。