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第4話『甘美な時間』


 駅の改札を抜けて、桜ヶ丘学園への道へ急ぐ。


 朝のひんやりした空気が頬に触れ、遠くで電車が走り去る音が響く。


 いつもと同じ、静かな通学路。

 道中、あの忍者もどき――いや、塩見には、ありがたくも出くわさなかった。


 胸をなでおろしつつ、頭の中は電車での一件でザワザワしてる。


 あの塩見のニヤけ顔。


 黒ずくめの怪しい格好で、俺の黒歴史全開のあだ名を叫びやがった。


 乗客のクスクス笑う声、冷ややかな視線が耳と背中に突き刺さる。


 思い出すだけで首筋が熱くなり、ブレザーの襟を引っ張って緩めた。


 「終焉がくる」とか「戦いはこれからだ」とか、ふざけたことほざいてたな。


 あの目、まるで俺を試してるみたいだった。


…………ただの中二病の悪ふざけだよな?


 この学校に転校して、もう1か月がたつ。

 前の学校で、40人が「武装集団が来る!」なんてバカ騒ぎしてたあの頃は、確かに楽しかった。


 でも……もう終わったんだ。


「ただの高校生、ただの高校生…」


 そう呟きながら、校舎の入口に続く階段を上がる。


 廊下の空気が湿っぽく、遠くで誰かの笑い声が聞こえる。


 いつもと同じ朝のはずなのに、鞄の肩紐を握る手が、知らずにギュッと力が入る。


 ネクタイを直そうとした指が、なぜか震えた。


 教室のドアの前に立つ。


 ………待てよ、もしかして、このドアを開けたらアイツがいるんじゃないか?黒い忍者装束で、『覚醒の時だ!』とか叫んでたらどうする?


 ゾッとして、思わず一歩後ずさる。


 いや、そんなわけが…………ありえる。


「落ち着け、俺。覚悟を決めろ」


 深呼吸して、ガッとドアを引いた。


 ――ガランとした教室。何もなかった。


 拍子抜けして、「はっ」と息が漏れる。


 教室には、早めに登校してきた数人の生徒がポツポツいるだけだった。


 窓際でスマホをいじるヤツ、ノートを広げて何か書いてるヤツ、友達とヒソヒソ話してるヤツ。


 みんな、チラッとこっちを見て、『?』って顔で一瞬視線をよこす。


「…………ゴホンッ」


 鞄を肩にかけ直し、奥の空いてる席に向かう。


 塩見のニヤけた笑みが頭にチラついて、思わずキョロキョロと教室を見回した。


「はぁ、焦って損した」


 小さく呟いて、鞄からノートを取り出す。

 胸の奥のモヤモヤが消えない。

 塩見の「終焉がくる」って言葉、ただのバカ騒ぎのはずなのに、なんか引っかかる。


 まさか、アイツ、本気で何か企んでんのか?………いや、んなわけない。


 ふと、教室の入口で人の気配がした。


 振り返ると、黒髪がサラッと揺れる佐藤さんが、静かに教室に入ってきた。


 文庫本を手に、いつもの落ち着いた雰囲気。


……マドンナだ。


 目が合うと、彼女が軽く微笑む。


「赤羽くん、おはよっ」


 心臓がドクンと跳ね、慌てて視線をノートに落とした。


「オ、オハヨ」


 やべ、落ち着け、俺。

 自然に、自然に振る舞え!


 その瞬間、佐藤さんの後ろ、廊下の端で黒い影がチラッと揺れた。


 「………!?」


  目を凝らすけど、何もない。ただの壁と薄暗い廊下。


 …………気のせいか?


 教室の空気が一瞬重たく感じる。


 「赤羽くん?大丈夫?」


 ハッと顔を上げると、佐藤さんがすぐ近くに立っていた。

 文庫本を胸に抱え、黒髪が朝光に透けて、ほのかにシャンプーの匂いが漂う。


 「え、な、なに!?」


 声が裏返る。

 やばい、めっちゃ挙動不審だ。


 「なんか、顔色悪そうだったから。大丈夫?」


 その心配そうな瞳が、俺の心臓を直撃する。

 これが本物の女子の破壊力………!

 前の学校にいた目と腕に包帯つけていた女どもに、こんな気遣いができるか!?


 「い、いや、ぜんぜん大丈夫だよ!? ていうか、佐藤さん!………本いつも読んでるよね!」


 「え、ああ、うん、そうだけど………」


 佐藤さんが少し不思議そうな顔で答える。


「なんか…知的な感じがして、超いいよね!」


「そ、そっか。うん、ありがと、赤羽くん」


 ふう。

 よし、なんとか自然に会話を誤魔化すことができた。


「赤羽くんも本読むの?」


「え、俺?」


 佐藤さんが軽く首をかしげて聞いてきた。

 文庫本を胸に抱えたまま、興味深そうな目で。


「前は、読んでたかな。まぁ、ホント、たまにだけど、ラノべ――ゲフンッ、小説とか?」


「へえ!おすすめとかある?」


「おすすめ? えっと、『竜滅の剣』とか! 知ってる?」


「知ってる! あのシリーズ、めっちゃ熱いよね。私、3巻まで読んだよ。赤羽くん、どの巻が好き?」


「2巻のバトルシーン! ほら、主人公が崖から落ちそうになるやつ!」


「うん、あそこハラハラした! 赤羽くん、いいセンスしてるね」


「そ、そっか! 佐藤さんは今何読んでるの?」


「これ、ミステリーなんだけど、めっちゃ面白いよ。犯人が最後まで分からないの」


「へえ、ミステリーか。俺、そっちはあんまりだけど…面白そうだね」


「ね、赤羽くん、良かったら…今度これ、貸してあげようか? 絶対ハマると思うよ」


「え……マジ?」


「ふふ、じゃあ決まりね。来週までに読み終わるから、待ってて」


 佐藤さんが微笑みながら席に戻る。


 ……夢じゃないよな?

 これ、脈アリじゃ。

 そうか、佐藤さんは俺のことが好きなのかもしれない。


 教室の時計がカチカチと秒を刻む。

 ホームルームまであと10分。


 窓から差し込む朝陽が、教室の床にまだらな光を落とす。


 生徒たちが少しずつ増え、教室がいつもの賑わいを取り戻す。


 佐藤さんの笑顔が頭に焼き付いて、胸のモヤモヤが少しずつ薄れていく。

 あの塩見のふざけた言葉も、ただの悪ノリだと笑い飛ばせる気がしてきた。


 「あーあ、なんで俺はあんなに焦ってたんだか」


 小さく呟き、席につく。


 新しい一日が、静かに、でも確実に動き出す。

 佐藤さんとの約束――来週のミステリー本。

 それだけで、今日という日が、ちょっとだけ輝いてる気がした。

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