駅の改札を抜けて、桜ヶ丘学園への道へ急ぐ。
朝のひんやりした空気が頬に触れ、遠くで電車が走り去る音が響く。
いつもと同じ、静かな通学路。
道中、あの忍者もどき――いや、塩見には、ありがたくも出くわさなかった。
胸をなでおろしつつ、頭の中は電車での一件でザワザワしてる。
あの塩見のニヤけ顔。
黒ずくめの怪しい格好で、俺の黒歴史全開のあだ名を叫びやがった。
乗客のクスクス笑う声、冷ややかな視線が耳と背中に突き刺さる。
思い出すだけで首筋が熱くなり、ブレザーの襟を引っ張って緩めた。
「終焉がくる」とか「戦いはこれからだ」とか、ふざけたことほざいてたな。
あの目、まるで俺を試してるみたいだった。
…………ただの中二病の悪ふざけだよな?
この学校に転校して、もう1か月がたつ。
前の学校で、40人が「武装集団が来る!」なんてバカ騒ぎしてたあの頃は、確かに楽しかった。
でも……もう終わったんだ。
「ただの高校生、ただの高校生…」
そう呟きながら、校舎の入口に続く階段を上がる。
廊下の空気が湿っぽく、遠くで誰かの笑い声が聞こえる。
いつもと同じ朝のはずなのに、鞄の肩紐を握る手が、知らずにギュッと力が入る。
ネクタイを直そうとした指が、なぜか震えた。
教室のドアの前に立つ。
………待てよ、もしかして、このドアを開けたらアイツがいるんじゃないか?黒い忍者装束で、『覚醒の時だ!』とか叫んでたらどうする?
ゾッとして、思わず一歩後ずさる。
いや、そんなわけが…………ありえる。
「落ち着け、俺。覚悟を決めろ」
深呼吸して、ガッとドアを引いた。
――ガランとした教室。何もなかった。
拍子抜けして、「はっ」と息が漏れる。
教室には、早めに登校してきた数人の生徒がポツポツいるだけだった。
窓際でスマホをいじるヤツ、ノートを広げて何か書いてるヤツ、友達とヒソヒソ話してるヤツ。
みんな、チラッとこっちを見て、『?』って顔で一瞬視線をよこす。
「…………ゴホンッ」
鞄を肩にかけ直し、奥の空いてる席に向かう。
塩見のニヤけた笑みが頭にチラついて、思わずキョロキョロと教室を見回した。
「はぁ、焦って損した」
小さく呟いて、鞄からノートを取り出す。
胸の奥のモヤモヤが消えない。
塩見の「終焉がくる」って言葉、ただのバカ騒ぎのはずなのに、なんか引っかかる。
まさか、アイツ、本気で何か企んでんのか?………いや、んなわけない。
ふと、教室の入口で人の気配がした。
振り返ると、黒髪がサラッと揺れる佐藤さんが、静かに教室に入ってきた。
文庫本を手に、いつもの落ち着いた雰囲気。
……マドンナだ。
目が合うと、彼女が軽く微笑む。
「赤羽くん、おはよっ」
心臓がドクンと跳ね、慌てて視線をノートに落とした。
「オ、オハヨ」
やべ、落ち着け、俺。
自然に、自然に振る舞え!
その瞬間、佐藤さんの後ろ、廊下の端で黒い影がチラッと揺れた。
「………!?」
目を凝らすけど、何もない。ただの壁と薄暗い廊下。
…………気のせいか?
教室の空気が一瞬重たく感じる。
「赤羽くん?大丈夫?」
ハッと顔を上げると、佐藤さんがすぐ近くに立っていた。
文庫本を胸に抱え、黒髪が朝光に透けて、ほのかにシャンプーの匂いが漂う。
「え、な、なに!?」
声が裏返る。
やばい、めっちゃ挙動不審だ。
「なんか、顔色悪そうだったから。大丈夫?」
その心配そうな瞳が、俺の心臓を直撃する。
これが本物の女子の破壊力………!
前の学校にいた目と腕に包帯つけていた女どもに、こんな気遣いができるか!?
「い、いや、ぜんぜん大丈夫だよ!? ていうか、佐藤さん!………本いつも読んでるよね!」
「え、ああ、うん、そうだけど………」
佐藤さんが少し不思議そうな顔で答える。
「なんか…知的な感じがして、超いいよね!」
「そ、そっか。うん、ありがと、赤羽くん」
ふう。
よし、なんとか自然に会話を誤魔化すことができた。
「赤羽くんも本読むの?」
「え、俺?」
佐藤さんが軽く首をかしげて聞いてきた。
文庫本を胸に抱えたまま、興味深そうな目で。
「前は、読んでたかな。まぁ、ホント、たまにだけど、ラノべ――ゲフンッ、小説とか?」
「へえ!おすすめとかある?」
「おすすめ? えっと、『竜滅の剣』とか! 知ってる?」
「知ってる! あのシリーズ、めっちゃ熱いよね。私、3巻まで読んだよ。赤羽くん、どの巻が好き?」
「2巻のバトルシーン! ほら、主人公が崖から落ちそうになるやつ!」
「うん、あそこハラハラした! 赤羽くん、いいセンスしてるね」
「そ、そっか! 佐藤さんは今何読んでるの?」
「これ、ミステリーなんだけど、めっちゃ面白いよ。犯人が最後まで分からないの」
「へえ、ミステリーか。俺、そっちはあんまりだけど…面白そうだね」
「ね、赤羽くん、良かったら…今度これ、貸してあげようか? 絶対ハマると思うよ」
「え……マジ?」
「ふふ、じゃあ決まりね。来週までに読み終わるから、待ってて」
佐藤さんが微笑みながら席に戻る。
……夢じゃないよな?
これ、脈アリじゃ。
そうか、佐藤さんは俺のことが好きなのかもしれない。
教室の時計がカチカチと秒を刻む。
ホームルームまであと10分。
窓から差し込む朝陽が、教室の床にまだらな光を落とす。
生徒たちが少しずつ増え、教室がいつもの賑わいを取り戻す。
佐藤さんの笑顔が頭に焼き付いて、胸のモヤモヤが少しずつ薄れていく。
あの塩見のふざけた言葉も、ただの悪ノリだと笑い飛ばせる気がしてきた。
「あーあ、なんで俺はあんなに焦ってたんだか」
小さく呟き、席につく。
新しい一日が、静かに、でも確実に動き出す。
佐藤さんとの約束――来週のミステリー本。
それだけで、今日という日が、ちょっとだけ輝いてる気がした。