電車に乗り込んだ俺は、ドアがシュッと閉まる音を背中に聞きながら、車内を見渡した。
朝の通勤時間帯を少し外れた電車は、ガラガラだ。
座席の青いモケット生地は色褪せ、窓枠の金属には細かい錆が浮かんでいる。
車内の空気はひんやりと湿っぽい。
カバンを肩にかけ直し、窓の外の桜並木に目をやる。
ピンクの花びらがちらちらと舞っていた。
窓の外では、桜ヶ丘駅のホームがゆっくり後ろに流れ、錆びた「桜ヶ丘駅」の看板が朝日に鈍く光る。
車内にいる乗客はまばらだ。
数人の通勤客がスマホをいじり、学生たちがイヤホンで音楽を聴いている。
電車の揺れに合わせてつり革がカタカタ鳴り、車輪の音が床下から響く。
なんてことない通学電車の風景であるが、俺には楽しみにしているものがある。
お、いたいた。
車内の奥、いつもの席に桜ヶ丘学園3年の「マドンナ」、佐藤咲がいた。
窓際の席で本に没頭し、朝の光に黒髪がサラリと揺れる。
白いイヤホンのコードが首元でカーブを描き、ブレザーの袖が手の甲を半分隠してる。
彼女らしい、静かな雰囲気。
佐藤さんはクラスで眩しい存在だ。
派手じゃないけど、柔らかい笑顔と自然な話し方が『ラノベに出てくるメインヒロイン』のようでグッとくる。
そんな美女にお近づきになろうなんて、おこがましい。
遠くから眺めるだけで十分。
いや、それがベストだ。
佐藤さんがページをめくる。
分厚い文庫本、ラノベじゃない、たぶん純文学。
さすがマドンナ、センスいいな、と勝手に感心する。
にしても、このアングル、最高だ。
遠くから見てるだけで、アオ春してる気がする。
佐藤さんがこっちに目をやる。
やべっ。
心臓がドクンと跳ね、すぐに視線を窓に逸らす。
凝視しすぎだ、と自分を戒める。
見つかってねえよな…?
彼女はまた本に戻っていた。
よかった、気づいてない。
ホッと息をつき、頭の中で続ける。
にしても、佐藤さん、彼氏いんのかな…いるよな、絶対。マドンナだもん。陽キャとか、バスケ部のキャプテンとか、爽やか系が好きそう。…中二病こじらせてるやつは100%アウトだろうな…
苦笑いし、床の擦り傷を見つめる。
でも、もし、奇跡的に佐藤さんと付き合えたら…どうする?デートどこ行く?喫茶店?映画?いや、佐藤さんなら本屋とか図書館好きそう。『この本、面白いよ』とか話して…めっちゃ青春じゃん。…留年のこと、話すべきか?『実は俺、前の学校で一年遅れてて…』とか、いつ言う?3回目のデート?でも、理由聞かれたら…『黒歴史が…』とか、絶対言えねえ!『紅蓮』とか死んでもバラせねえ。佐藤さんにドン引きされる未来しか見えねえ…
窓に映る、顔が熱くなった自分を見つめる。
「まあ、付き合うとか夢のまた夢だよなぁ。マドンナだし。俺、ただの留年野郎。話しかけたら『我が名は…』とか口滑らしそうで怖えし」
「なにを恐れてるんだ、
聞き覚えのある声が、電車の揺れに混じって耳に滑り込む。
低く、まるで闇から忍び寄るような囁き。
背筋がゾクッとした。
顔を上げ、向かいの席を見る。
そこには……さっきまでいなかった男がいた。
まるで影が実体化したかのように、音もなく現れた男。
黒い忍装束に身を包み、顔の下半分を暗灰色の布で覆っている。
目は鋭く、黒い瞳が闇を切り裂くように光る。
腰には革のベルトに小さな金属筒――まるで手裏剣や巻物を仕込んだような装備。
髪は黒く短く切り揃えられ、頭に巻かれた黒い鉢巻がわずかに揺れる。服には白い影のような模様が浮かんでいた。
まるで現代の忍者が中二病を煮詰めたような、静かで危険な存在感。
こんなやつ、乗った瞬間に気づくはずだ。
だが、まるで煙のように、誰もその存在を捉えていなかった。
乗客もチラチラ見て、ざわつき始める。
誰も、さっきまでこいつの存在に気づいてなかった。
「……いつから、そこに………」
だが、それより嫌な予感が胸を締め付ける。
こいつの忍者めいた出で立ちじゃない。
俺のことを
「そんな、気のせいだ、気のせいであってくれ…」
床を見つめ、呟く。
「俺以外にクリムゾンさんって名前のやついるかも…偶然だろ…」
「聞いているのか?
「くそっ、やっぱ俺じゃねえか!」
顔が熱くなる。
乗客のざわめきが大きくなり、チラチラ視線が刺さる。
やめろ!俺まで見るな!
佐藤さんの方をチラ見する。
彼女は本に夢中で、気づいてない。
よかった、マドンナにバレずに済んだのが唯一の救いだ。
もうこの電車使えなくなるところだった。
俺は睨みを効かせる。
「話しかけんな」と目で訴えるが、男はお構いなしにニヤリと笑う。
闇に溶けるように、音もなく身を乗り出し、装束の裾が不自然なほど静かに揺れる。
「まだ俺が誰だか分からないようだな。無理もない、元から影が薄くて誰も話かけてこなかったからな。でも、この名なら分かるだろ?『
目を見開く。
こいつ、去年、同じクラスにいた塩見か!
そうだ、影が薄すぎて体育の時間、二人一組になれと言われたら必ず余ってしまう、あの塩見だ。
「うそだろ…なんでここに…」
冷や汗が背中を伝う。
卒業後、音沙汰なかったのに、なんでそんな忍者めいた姿で、こんなタイミングで!?
…………やっと新しい学校に馴染んできたのに。
塩見は瞳を細め、ニヤリと笑う。
「思い出したようで嬉しいぜ。覚えてるか?自習の時間、武装集団の襲撃に備えたシミュレーションをみんなで討議してたよな?俺もあの場にいたんだぜ?」
「あ―――!あ―――!おまっ、ふざけんなよ!やめっ―――!」
「
「計画とか戦いとか知らねえよ!やめろッ、そのノリ!」
嫌な記憶がフラッシュバックする。
40人全員で「武装集団が襲撃」に備えてたバカな日々。
塩見の野郎、まだその妄想に囚われてるのか!?
―――ププッ。クスクス。
車内の何箇所か、笑い声が混じり合って聞こえた。
頭のなにかが、プツンっと切れた気がした。
……どうする?
このままだと、俺の黒歴史がどんどんアイツの口から拡散されることになる。
躊躇ってる場合じゃない……よし、殺そう。
殺気が湧く。
こんなやつ、いないほうがいい。
俺の普通の高校生活をぶち壊すなんて許せねえ。
視線が鋭くなり、塩見を睨む。
「おっと、落ち着けよ、ここでやる気か?」
塩見は軽やかな動きで手を上げ、なだめる素振りを見せる。
だが、目は楽しげだ。
「焦るな。『その時』は近いうちにくる。備えろ、
「おい、どういう意味だ!?」
思わず立ち上がり、声を上げる。
乗客の視線が一斉に刺さる。
やべ、声、デカかった…と後悔する。
顔が異常に熱くなる。
そのとき、電車がトンネルに突入した。
車内が暗くなり、視界に映る塩見の姿が歪む。
蛍光灯がチカチカと明滅する。
トンネルを抜け、朝の光が車内に戻ると―――。
「なッ!」
塩見はそこにはいなかった。
空席のモケット生地が朝日に光るだけ。
他の乗客も一瞬のことでざわつき、目を瞬かせる。
「……………くそっ」
消える寸前、俺に見せたあの顔。
瞳の奥で、人を舐めた挑戦的な笑み。
また来るぜ、とでも言いたげだった。
「くそっ、アイツ、なんなんだよ…!」
『次は、西桜ヶ丘、西桜ヶ丘―――』
アナウンスが響く。
ガチで嫌な予感がする。
不穏な気持ちを必死に振り払い、「普通の高校生、普通の高校生」と自分に言い聞かせ、俺はカバンを握りしめながら、電車が駅に着くのをひたすら待つのだった。