目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

第4話『器の残響』

 目が覚める。


 重たい瞼を持ち上げると、視界に飛び込んできたのは、無機質な白い天井だった。


 11時。


 デジタル時計が、冷めた光を放っている。


「…………遅刻か」


 本来なら、この時点で飛び起きてもよいのだろうが。

 この器、どうにも朝が弱い。


 そもそも、なぜ学校なるものがこの世にあるのか。


 人というのは本当に理解に苦しむ生き物だ。


「……いや、俺も人なのか? もうよくわからん」


 今日のところは諦め、明日にするか。

 祠の礼も、まだ今度でよかろう。


 食い物はまだあったか、寝転びながらコンビニ袋を器用にさぐる。


 すでに菓子の類いは空だった。


 代わりに入っていたのは。


 レシート1枚の紙切れ。


 チッ、と舌打ちをする。


 口の中に放り込む。

 まったく、味のしない、むしろ不快な食感のそれを、咀嚼する。

 インクの匂いが鼻を刺激し、さらに空腹を意識させるだけだった。


 そういえば、購買というものが童の記憶にあったな。


 メロンパン。焼きそばパン。カツサンド。


 口に含んだ記憶を辿り、唾液が溢れる。


「……行くか」


 無性にそれらが食べたくなった。

 立ち上がり、コンビニ袋を手に取る。


―――――――

―――――


 見慣れているはずの、見慣れない風景が現れた。

 ここが学校。

 童が通う学び舎。


「……皮肉なものだ」

 その童を殺した場所に自ら戻ってくるとは。

 そんなことを考えながら、門をくぐる。


 玄関に、姿見代わりになりそうなガラスがあった。


 そこに映る自分の姿を見つめる。


 灰色のブラウスに、ポケットから学年をしめすネクタイがはみ出ている。


 首がしまる感覚がどうにも慣れなかった。

 ズボンは裾が擦り切れ、ブレザーの肘には穴が開きかけている。


 極め付けは、首元に覗く白いワイシャツ。


 首回りが薄汚れている有様だった。

 かろうじて学生服の体裁は保っている。

 多少不恰好ではあるが、咎める者などいないだろう。


 そう結論づけ、意気揚々と学校の門をくぐると、一斉に視線が集まった。


「噓であろう」


 まだ何もしていないのだが。


 視線はまるで無数の針のように、血堕螺陀の全身を突き刺す。

 ざわめきが、教室の喧騒と混ざり合い、耳障りな波となって彼を包む。

 一歩踏み出すごとに、靴底が古びた床を軋ませ、異物感を際立たせる。


『おい…あいつ、伊藤だよな?』


 ひそひそと、しかしはっきりと聞こえる声が、廊下の端から響いた。


 血堕螺陀の耳に、その名が引っかかる。


 伊藤――この器、つまり受肉した童の名だ。


「…………これは……」


 執拗な嫌がらせ、嘲笑、暴力。

 記憶の断片がざわめく。

 耐えきれず、学校に来なくなった――少なくとも、周囲はそう思っていたらしい。


『生きてんのかよ、アイツ』

『マジで? 不登校じゃなかったの?』

『うわ、キモいな。なんで今さら戻ってくんだよ』


 囁きは、毒を塗った矢のように、背中に突き刺さる。


「……………………」


 くだらない。


「ふん、有象無象が。そのままさえずっていろ」


 腹を満たす方が先。

 意に介さず、肩をすくめて購買へ向かった。


『…………んだよ。あの目、おもしろくねぇ』


 背後で誰かの囁き声が聞こえた。


 鐘の音が鳴る。

 少し歩いて、購買に着くが、周りの童は元の教室に戻っていくようだった。


 かまわずガラスケースを覗き込む。

 メロンパン、焼きそばパン、カツサンドのサンプル――器の記憶にあった、甘く、油っぽく、懐かしい味がそこにある。


「ぬ」


 棚を見ると、目当てのパンはすべて売り切れだった。

 空っぽのトレイが、嘲笑うように並んでいた。


「……ぐっ」


 肩の力が抜け、コンビニ袋を握る手がわずかに緩む。

 遠くからでも分かるほど、しょぼんと項を垂れる。


 神とは思えぬ、情けない気分に浸りながら、呟く。


「まぁ、いい。教室でも行くか。童の教室は―――」


 器の記憶を覗こうと、目を閉じかけたその瞬間。


―――背中に鋭い衝撃が走った。


 誰かが、背中を思い切り蹴り上げたのだ。


 前のめりに倒れ、床に顔を打ちつける。

 鼻腔を、埃と鉄の匂いが突き抜ける。


 数秒後、どこからかくぐもった笑い声が聞こえ、足音が遠ざかっていく。


 どうやら、蹴った奴は逃げたらしい。


「…ふむ」


 ゆっくりと起き上がり、頬に残る鈍い痛みを指でなぞる。


「ああ、これが痛みというものか」


 初めて味わう肉体の感覚に、どこか興味深げに呟く。

 祟り神である彼にとって、痛みは新鮮な驚きだった。


 だが、周囲を見回すと、誰も助けようとしない。


 童たちは遠巻きに眺め、囁き合い、嘲笑を浮かべるだけだ。


「物騒な学び舎だ」


 鼻で笑い、何事もなかったかのように立ち上がる。

 汚れたワイシャツの首元を軽く叩き、コンビニ袋を拾い上げる。


 再び器の記憶を覗き、教室の場所を確認する。


――2年B組。ここから2階に上がって、右の突き当たり。


 階段を上りながら、頭に、童の記憶が断片的に浮かぶ。


 ロッカーに閉じ込められた日々。

 教科書に落書きされた呪言。

 祠を壊すよう強要された、あの裏山での夜。


「ふん、随分と惨めな童だったな、この伊藤という奴は」


 口元が、わずかに歪む。

 だが、その笑みはすぐに消え、冷たい光が瞳に宿る。


「……礼は必ず果たす」


 教室の扉が見えてきた。

 ガラス窓越しに、ざわめく童たちの影が揺れている。


――ちだらだ。


 どこからか、かすかな呟きが聞こえる。

 それは、まるで彼自身の心の奥底から響くようだった。


 扉に手をかける。


 その瞬間、教室の喧騒が一瞬止まり、蛍光灯がわずかに明滅する。

 血堕螺陀の影が、床に長く、黒く、ねっとりと伸びる。


「さて、始めるとするか」


この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?