目が覚める。
重たい瞼を持ち上げると、視界に飛び込んできたのは、無機質な白い天井だった。
11時。
デジタル時計が、冷めた光を放っている。
「…………遅刻か」
本来なら、この時点で飛び起きてもよいのだろうが。
この器、どうにも朝が弱い。
そもそも、なぜ学校なるものがこの世にあるのか。
人というのは本当に理解に苦しむ生き物だ。
「……いや、俺も人なのか? もうよくわからん」
今日のところは諦め、明日にするか。
祠の礼も、まだ今度でよかろう。
食い物はまだあったか、寝転びながらコンビニ袋を器用にさぐる。
すでに菓子の類いは空だった。
代わりに入っていたのは。
レシート1枚の紙切れ。
チッ、と舌打ちをする。
口の中に放り込む。
まったく、味のしない、むしろ不快な食感のそれを、咀嚼する。
インクの匂いが鼻を刺激し、さらに空腹を意識させるだけだった。
そういえば、購買というものが童の記憶にあったな。
メロンパン。焼きそばパン。カツサンド。
口に含んだ記憶を辿り、唾液が溢れる。
「……行くか」
無性にそれらが食べたくなった。
立ち上がり、コンビニ袋を手に取る。
―――――――
―――――
見慣れているはずの、見慣れない風景が現れた。
ここが学校。
童が通う学び舎。
「……皮肉なものだ」
その童を殺した場所に自ら戻ってくるとは。
そんなことを考えながら、門をくぐる。
玄関に、姿見代わりになりそうなガラスがあった。
そこに映る自分の姿を見つめる。
灰色のブラウスに、ポケットから学年をしめすネクタイがはみ出ている。
首がしまる感覚がどうにも慣れなかった。
ズボンは裾が擦り切れ、ブレザーの肘には穴が開きかけている。
極め付けは、首元に覗く白いワイシャツ。
首回りが薄汚れている有様だった。
かろうじて学生服の体裁は保っている。
多少不恰好ではあるが、咎める者などいないだろう。
そう結論づけ、意気揚々と学校の門をくぐると、一斉に視線が集まった。
「噓であろう」
まだ何もしていないのだが。
視線はまるで無数の針のように、血堕螺陀の全身を突き刺す。
ざわめきが、教室の喧騒と混ざり合い、耳障りな波となって彼を包む。
一歩踏み出すごとに、靴底が古びた床を軋ませ、異物感を際立たせる。
『おい…あいつ、伊藤だよな?』
ひそひそと、しかしはっきりと聞こえる声が、廊下の端から響いた。
血堕螺陀の耳に、その名が引っかかる。
伊藤――この器、つまり受肉した童の名だ。
「…………これは……」
執拗な嫌がらせ、嘲笑、暴力。
記憶の断片がざわめく。
耐えきれず、学校に来なくなった――少なくとも、周囲はそう思っていたらしい。
『生きてんのかよ、アイツ』
『マジで? 不登校じゃなかったの?』
『うわ、キモいな。なんで今さら戻ってくんだよ』
囁きは、毒を塗った矢のように、背中に突き刺さる。
「……………………」
くだらない。
「ふん、有象無象が。そのまま
腹を満たす方が先。
意に介さず、肩をすくめて購買へ向かった。
『…………んだよ。あの目、おもしろくねぇ』
背後で誰かの囁き声が聞こえた。
鐘の音が鳴る。
少し歩いて、購買に着くが、周りの童は元の教室に戻っていくようだった。
かまわずガラスケースを覗き込む。
メロンパン、焼きそばパン、カツサンドのサンプル――器の記憶にあった、甘く、油っぽく、懐かしい味がそこにある。
「ぬ」
棚を見ると、目当てのパンはすべて売り切れだった。
空っぽのトレイが、嘲笑うように並んでいた。
「……ぐっ」
肩の力が抜け、コンビニ袋を握る手がわずかに緩む。
遠くからでも分かるほど、しょぼんと項を垂れる。
神とは思えぬ、情けない気分に浸りながら、呟く。
「まぁ、いい。教室でも行くか。童の教室は―――」
器の記憶を覗こうと、目を閉じかけたその瞬間。
―――背中に鋭い衝撃が走った。
誰かが、背中を思い切り蹴り上げたのだ。
前のめりに倒れ、床に顔を打ちつける。
鼻腔を、埃と鉄の匂いが突き抜ける。
数秒後、どこからかくぐもった笑い声が聞こえ、足音が遠ざかっていく。
どうやら、蹴った奴は逃げたらしい。
「…ふむ」
ゆっくりと起き上がり、頬に残る鈍い痛みを指でなぞる。
「ああ、これが痛みというものか」
初めて味わう肉体の感覚に、どこか興味深げに呟く。
祟り神である彼にとって、痛みは新鮮な驚きだった。
だが、周囲を見回すと、誰も助けようとしない。
童たちは遠巻きに眺め、囁き合い、嘲笑を浮かべるだけだ。
「物騒な学び舎だ」
鼻で笑い、何事もなかったかのように立ち上がる。
汚れたワイシャツの首元を軽く叩き、コンビニ袋を拾い上げる。
再び器の記憶を覗き、教室の場所を確認する。
――2年B組。ここから2階に上がって、右の突き当たり。
階段を上りながら、頭に、童の記憶が断片的に浮かぶ。
ロッカーに閉じ込められた日々。
教科書に落書きされた呪言。
祠を壊すよう強要された、あの裏山での夜。
「ふん、随分と惨めな童だったな、この伊藤という奴は」
口元が、わずかに歪む。
だが、その笑みはすぐに消え、冷たい光が瞳に宿る。
「……礼は必ず果たす」
教室の扉が見えてきた。
ガラス窓越しに、ざわめく童たちの影が揺れている。
――ちだらだ。
どこからか、かすかな呟きが聞こえる。
それは、まるで彼自身の心の奥底から響くようだった。
扉に手をかける。
その瞬間、教室の喧騒が一瞬止まり、蛍光灯がわずかに明滅する。
血堕螺陀の影が、床に長く、黒く、ねっとりと伸びる。
「さて、始めるとするか」