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第5話『渇き』

 軋む音とともに扉が開き、湿った空気が鼻腔を突く。


 教室は、時間が止まったかのような静寂に包まれていた。

 教師の姿はない。

 机の上には乱雑に開かれた教科書、落書きだらけのノート、飲みかけの水筒。


 窓際では、カーテンが微かに揺れ、曇ったガラス越しに灰色の空が覗く。


 蛍光灯の明滅が、教室の輪郭を不規則に歪ませる。


――ちだらだ。


 かすかな呟きが、身体の内に響いた。


 視線が、教室の奥へと滑る。


 一つの机が、異様な存在感を放っていた。


 そこには、ひび割れた陶器の花瓶と、しおれた白菊の花束。


 死者に捧げる花。

 なんとなく、なんとなくだが。

 記憶を辿らずとも、それが童――伊藤の机だと分かった。


 埃が薄く積もり、花瓶の水は濁り、腐臭を漂わせている。

 花の周囲には、誰かが書いたらしい「消えろ」「死ねよ」という落書きが、机の表面を汚していた。


「ほう、随分と愛された童だったらしいな」


 口元が、嘲るように歪む。


その時、聞き覚えのある声が、教室の隅から響いた。


『よお、伊藤。逃げたかと思ったよ』

『ちゃんと祠壊してきた?』

『ゴミが、こっち見んなよ。うわ、臭ッ』


 声の主は、数人の童たち。

 教室の後ろ、窓際の席に陣取り、目を細めてこっちを睨んでいる。


 机に上に座っている童。

 ここを統べている者か。 

 名は―――。


「獅子堂……」


 なんと。

 口が勝手に開いた。

 体が名を覚えているとは。

 恐怖………、いや、恨みか。


 髪を金に染め、制服のネクタイをだらしなく緩めた彼の顔には、嘲笑と軽蔑が貼りついている。


 他の生徒たちも、獅子堂に合わせて下卑た笑いを浮かべる。


「なあ、なに気安く人の名前呼んでんの?死にてぇの?」


 教室の空気が一気に淀み、湿気を帯びたような重苦しさで満たされる。

 他の生徒たちは、目を逸らし、黙り込むか、くすくすと笑いを漏らす。


 誰も止めようとしない。


 机の上の白菊が、嘲笑うように、かすかに揺れる。


「…………はぁ」

 溜息をつき、ゆっくりと伊藤の机に近づく。

 花瓶を手に取り、濁った水を覗き込む。


 そして。


 躊躇なく、花瓶を傾け、腐臭漂う水をゴクゴクと飲み干した。


 教室が、凍りつく。


 「は?」


 獅子堂の声が、呆気にとられたように響く。


 他の生徒たちも、口を半開きにし、目を丸くして血堕螺陀を見つめる。

 あまりにも常識外れな行動に、嘲笑も罵声も一瞬止まる。


「ああ、すまん。喉が渇いていてな、つい」


 平然と花瓶を手に持ち、口元を拭う。

 ミルクセーキとは違う、歯にぬめりつく味わい。

 二度は飲まんでいいな。


 啞然とこちらを見ている獅子堂に気づく。


「なんだ、お前も飲みたかったのか?」


 軽い口調で、視線を投げる。

 教室の空気が、異様な静けさに包まれる。


 蛍光灯が、チカチカと不規則に明滅する。

 獅子堂の顔が、みるみる歪んでいく。

「は、はぁ!?なめてんのか、テメェっ!」


 怒りに任せ、獅子堂は近くの椅子を蹴り上げた。

 ガタン、と耳障りな音が教室に響き、机が倒れる。


「足癖の悪い童だ」

 そう一瞥し、花瓶を机に戻そうと振り向く。

 その瞬間――。

 獅子堂が死角から、容赦なくこちらの頭を狙って蹴りを入れにかかる。

 それをなんなく片手で掴む。


「…………!」


「ああ、この足か」


 試しに獅子堂の足首を万力のように締め上げる。


「お前か、購買で俺を蹴ったのは」


 獅子堂の顔が、痛みに歪む。


「ィ゛っ…! はッ、はなせッ………ひっ!」

 獅子堂だけ見えるように、顔をふやかし、赤い何か――臓器のような、泥のような、得体の知れないものが目から溢れ出して見せた。

 引きつった叫び声が漏れ出す。


「う、うわああっ!」


 静かに足を離してやる。

 獅子堂は力なく尻餅をつき、床に崩れ落ちた。


「お、おい! 何やってんだよ!」


 いじめグループの他のメンバーが、獅子堂に駆け寄ろうとする。


「動くな」


 その一言で、教室の空気が凍りつく。

 駆け寄ろうとした生徒たちの足が、まるで地面に縫い付けられたように動けずにいた。

 恐怖と混乱が、周囲に感染する。


 ゆっくりと獅子堂の肩に手を置く。


「感謝するぞ」


「………へ?」


「どんな形であれ、祠を壊したきっかけを作ったのは、お前だ」


 獅子堂の目が見開かれる。


「何…? 何を言って…」


 言葉は震え、理解できない恐怖に顔が引きつる。


「礼をしたい」


 獅子堂は必死に首を振るが、声は出ない。

「受け取れ。俺が身動きも取れず、何百年も祠から外を見ていた記憶だ」

 瞬間、獅子堂の身体が硬直する。


 そして。


―――瞳が裏返り、口から人とも思えぬ叫び声が迸った。


 床に糞尿が広がり、痙攣しながら倒れ込む。


 教室は阿鼻叫喚に包まれる。

 至る所から悲鳴が上がり、机を蹴倒し、出口へと殺到する。


 白菊が床に散らばり、濁った花瓶の水がこぼれ、腐臭がさらに濃くなる。


 口元に、かすかな笑みを浮かべ、無言で教室を見渡す。


――血堕螺陀。


 呟きが、教室の隅から、頭の中から、どこからともなく響き続ける。


 蛍光灯が最後に激しく割れ、教室は一瞬で、闇に沈んだ。

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