軋む音とともに扉が開き、湿った空気が鼻腔を突く。
教室は、時間が止まったかのような静寂に包まれていた。
教師の姿はない。
机の上には乱雑に開かれた教科書、落書きだらけのノート、飲みかけの水筒。
窓際では、カーテンが微かに揺れ、曇ったガラス越しに灰色の空が覗く。
蛍光灯の明滅が、教室の輪郭を不規則に歪ませる。
――ちだらだ。
かすかな呟きが、身体の内に響いた。
視線が、教室の奥へと滑る。
一つの机が、異様な存在感を放っていた。
そこには、ひび割れた陶器の花瓶と、しおれた白菊の花束。
死者に捧げる花。
なんとなく、なんとなくだが。
記憶を辿らずとも、それが童――伊藤の机だと分かった。
埃が薄く積もり、花瓶の水は濁り、腐臭を漂わせている。
花の周囲には、誰かが書いたらしい「消えろ」「死ねよ」という落書きが、机の表面を汚していた。
「ほう、随分と愛された童だったらしいな」
口元が、嘲るように歪む。
その時、聞き覚えのある声が、教室の隅から響いた。
『よお、伊藤。逃げたかと思ったよ』
『ちゃんと祠壊してきた?』
『ゴミが、こっち見んなよ。うわ、臭ッ』
声の主は、数人の童たち。
教室の後ろ、窓際の席に陣取り、目を細めてこっちを睨んでいる。
机に上に座っている童。
ここを統べている者か。
名は―――。
「獅子堂……」
なんと。
口が勝手に開いた。
体が名を覚えているとは。
恐怖………、いや、恨みか。
髪を金に染め、制服のネクタイをだらしなく緩めた彼の顔には、嘲笑と軽蔑が貼りついている。
他の生徒たちも、獅子堂に合わせて下卑た笑いを浮かべる。
「なあ、なに気安く人の名前呼んでんの?死にてぇの?」
教室の空気が一気に淀み、湿気を帯びたような重苦しさで満たされる。
他の生徒たちは、目を逸らし、黙り込むか、くすくすと笑いを漏らす。
誰も止めようとしない。
机の上の白菊が、嘲笑うように、かすかに揺れる。
「…………はぁ」
溜息をつき、ゆっくりと伊藤の机に近づく。
花瓶を手に取り、濁った水を覗き込む。
そして。
躊躇なく、花瓶を傾け、腐臭漂う水をゴクゴクと飲み干した。
教室が、凍りつく。
「は?」
獅子堂の声が、呆気にとられたように響く。
他の生徒たちも、口を半開きにし、目を丸くして血堕螺陀を見つめる。
あまりにも常識外れな行動に、嘲笑も罵声も一瞬止まる。
「ああ、すまん。喉が渇いていてな、つい」
平然と花瓶を手に持ち、口元を拭う。
ミルクセーキとは違う、歯にぬめりつく味わい。
二度は飲まんでいいな。
啞然とこちらを見ている獅子堂に気づく。
「なんだ、お前も飲みたかったのか?」
軽い口調で、視線を投げる。
教室の空気が、異様な静けさに包まれる。
蛍光灯が、チカチカと不規則に明滅する。
獅子堂の顔が、みるみる歪んでいく。
「は、はぁ!?なめてんのか、テメェっ!」
怒りに任せ、獅子堂は近くの椅子を蹴り上げた。
ガタン、と耳障りな音が教室に響き、机が倒れる。
「足癖の悪い童だ」
そう一瞥し、花瓶を机に戻そうと振り向く。
その瞬間――。
獅子堂が死角から、容赦なくこちらの頭を狙って蹴りを入れにかかる。
それをなんなく片手で掴む。
「…………!」
「ああ、この足か」
試しに獅子堂の足首を万力のように締め上げる。
「お前か、購買で俺を蹴ったのは」
獅子堂の顔が、痛みに歪む。
「ィ゛っ…! はッ、はなせッ………ひっ!」
獅子堂だけ見えるように、顔をふやかし、赤い何か――臓器のような、泥のような、得体の知れないものが目から溢れ出して見せた。
引きつった叫び声が漏れ出す。
「う、うわああっ!」
静かに足を離してやる。
獅子堂は力なく尻餅をつき、床に崩れ落ちた。
「お、おい! 何やってんだよ!」
いじめグループの他のメンバーが、獅子堂に駆け寄ろうとする。
「動くな」
その一言で、教室の空気が凍りつく。
駆け寄ろうとした生徒たちの足が、まるで地面に縫い付けられたように動けずにいた。
恐怖と混乱が、周囲に感染する。
ゆっくりと獅子堂の肩に手を置く。
「感謝するぞ」
「………へ?」
「どんな形であれ、祠を壊したきっかけを作ったのは、お前だ」
獅子堂の目が見開かれる。
「何…? 何を言って…」
言葉は震え、理解できない恐怖に顔が引きつる。
「礼をしたい」
獅子堂は必死に首を振るが、声は出ない。
「受け取れ。俺が身動きも取れず、何百年も祠から外を見ていた記憶だ」
瞬間、獅子堂の身体が硬直する。
そして。
―――瞳が裏返り、口から人とも思えぬ叫び声が迸った。
床に糞尿が広がり、痙攣しながら倒れ込む。
教室は阿鼻叫喚に包まれる。
至る所から悲鳴が上がり、机を蹴倒し、出口へと殺到する。
白菊が床に散らばり、濁った花瓶の水がこぼれ、腐臭がさらに濃くなる。
口元に、かすかな笑みを浮かべ、無言で教室を見渡す。
――血堕螺陀。
呟きが、教室の隅から、頭の中から、どこからともなく響き続ける。
蛍光灯が最後に激しく割れ、教室は一瞬で、闇に沈んだ。