烏丸が工場に着いたのは午前3時ごろだった。借りているアパートの部屋から急いで自転車をとばして走ってきたので喉の奥がからからだ。アルバイト先が近所にあってよかったと思う。
烏丸は自転車から下り、工場の入り口にあるインターホンを鳴らす。すぐに仁礼野が応答し、シャッターが内側から開いていく。烏丸は乗ってきた自転車を盗難防止のために中に入れ、入り口付近にチェーンを使って施錠してから置いた。
「お待ちしてました烏丸さん。とりあえず奥にどうぞ」
「あの〜すみません仁礼野さん。自転車すっ飛ばしてきたら喉かわいちゃったんで水かなんかもらえません?」
来たばかりの烏丸は出迎えた仁礼野に向かって飲み物を要求する。仁礼野は小部屋に戻り、小型冷蔵庫の中を物色する。1本だけ入っていた烏龍茶を取り出すと小走りで入り口に戻って烏丸に手渡した。
「え〜、これしかないんですか。アタシ甘いのがいいんだけどな」
「ええと……桃風味の紅茶飲料でしたっけ。すみません。次はちゃんと買ってストックしておきますね」
「うん、よろしく〜。で、肝心のキツネちゃんは見つかったんですか?」
仁礼野が申し訳なさそうに謝ると烏丸は烏龍茶を飲みながらなにげなく聞いてきた。紺色のキャップからはみ出した茶髪のポニーテールが烏丸の動きに合わせてゆれている。
「いいえ……まだです。あれから監視カメラを片っ端から見て探してるんですがどこにもいないんです。片方の足も怪我してますし、そう遠くには行けないとは思うんですが」
「そっすか〜……もしかして工場の中で迷ってたりするかもですね。よし、アタシ今から探してきます。キーホルダーは持ってきますんで何かあったら連絡しますね」
仁礼野が「すみません、お願いします」と烏丸に頼んでから小部屋に戻ろうとすると烏丸が後ろから呼び止めてきた。
「どうしました」
「あの……。もしかしてなんですけど……今回のキツネちゃんの件って後から《反省会》やるんですか」
明るい烏丸の声が途端に低くなって沈む。仁礼野は首を左右に振った。
「……それはわかりません。反省会は……彼らの気分次第ですから。FOXが見つかったら私がステージまで一緒に連れて行くのでご心配なく」
「わかりました。じゃ、行ってきます!」
「はい、行ってらっしゃい」
烏丸は仁礼野に片手を額にあててビシッと敬礼のポーズをとると、小部屋の左側に続いている廊下に向かって元気よく駆けだした。仁礼野は烏丸の後ろ姿を見送ると今度こそ小部屋に戻る。
監視カメラのモニターをもう一度調べてみて、パーティールームのステージの下の暗がりの中にうずくまるFOXの姿をやっと見つけたので、スマートフォンを出して烏丸と馬宮に一度小部屋まで戻ってくるように指示を出した。
『了解です、一旦戻りますね~』
『わかりました。俺も戻りますね』
「はい、すみませんでした。見回り中に何かおかしなことはありませんでしたか?」
烏丸と馬宮はそろって「異常なし」だと伝えてきた。仁礼野は了解すると通話を切ってモニター画面に視線を戻す。ステージ下にいるFOXの様子が非常に気がかりだ。早くそばまで行って安心させてやりたいのに、今の自分にはそれができない。
(……すみませんFOX。もう少しだけ待っていてくださいね)
仁礼野はもどかしさに指の爪が手のひらに食いこむほど強く握りしめた。同時にマスクの下のぎりっ、と食いしばった歯が擦れて鳴る。小部屋のドアが開いた。烏丸と馬宮が戻ってきたのだ。
「烏丸ただいま戻りました~。新人さんも一緒ですよ」
「ああ、お帰りなさい何事もなかったようでよかったです」
仁礼野はそう言い,、2人から馬と烏(からす)を模したキーホルダーを預かった。烏丸はモニターの前の椅子に座ると部屋の小型冷蔵庫を漁る。だが、中身が空っぽだと知ると不機嫌な表情になった。馬宮が飲まずに持っていたレモン風味の天然水を譲ると、嬉しそうな顔で飲みだした。
「すみません馬宮さん。今からパーティールームに行く用事ができたので、その間監視カメラを烏丸さんと一緒にお願いできますか?」
「は、はい。わかりました。お気をつけて」
「はい、すぐに戻ります」
仁礼野はそう言い残して小部屋から出ていった。仁礼野が出ていってしまうと小部屋の中はとても静かになった。烏丸は天然水を飲みながら、目だけを動かして数台のモニターを交互に見ている。
「あの……」
「何?今モニター見るのに忙しいんだけど」
烏丸は素気なく言って馬宮が話しかけたのを無視した。仁礼野と話している時とはまるで別人のような態度だ。
「あの……。仁礼野さんがパーティールームに行くって言ってたけど、FOXって見つかったんですか?」
「さっきそう言ってたじゃん。アンタは別に心配しなくてもいいよ。後は全部仁礼野さんがやってくれるから」
「後は全部って……何を?」
「…………反省会。様子が気になるならそこの4番のカメラ見てたら。だけどもし合図があったらすぐに電源切って」
馬宮には烏丸の言っている言葉の意味がわからなかった。反省会とは一体なんだろうか。
「合図ってどんなのですか」
「仁礼野さんがこっち向いて手を垂直に上げて振ったら切って」
「……わかりました」
*
小部屋を出た仁礼野はパーティールームに向かって廊下を走っていた。少し走っただけで息があがってくる。日ごろの運動不足のせいだ。夜間はほとんど監視カメラのある小部屋に缶詰めのため、両足を含めた全身の筋肉がかなり鈍(なま)っているのがわかる。
手にした懐中電灯の光が奥のほうに古びたパーティールームのドアを浮かびあがらせた。仁礼野はマスターキーの束を作業着のポケットから出すと急いで鍵を開けた。ステージの上にはFOXを除いたマスコットキャラクターたちが並んでいる。先ほど出る時に消していったはずが、ステージの上にだけ照明がついていた。
仁礼野は急いでステージの下に向かう。FOXの名前を何度か呼ぶと助けを求めるような調子の小さな電子音が暗がりから聴こえてきた。
「……FOX!ああ、良かった!!そこにいたのかい。今そっちに行くからね」
仁礼野はFOXに近づいて片方の手を差しのべた。FOXがすぐに仁礼野の手を握り返してくる。明るいオレンジ色の柔らかくふかふかとした手の感触に仁礼野の中の焦りが消えていく。仁礼野はFOXに肩を貸すと助け起こし、ステージの上へと上がった。
「ほら、もう大丈夫だよFOX。もう一度おやすみなさいってしようか。できるかな?」
『……』
FOXが仁礼野の顔を見上げて頷き、目を閉じた。体の中からは寝息のような低いモーター音がかすかに聴こえてくる。仁礼野はほっと胸をなでおろし、ステージの照明を消すと階段を下りてパーティールームのドアの前に向かう。
(……開かない)
入る時に鍵はかけなかったはずた。ひねってもドアノブはびくともしない。仁礼野の中でFOXとの再会で消えかかっていた焦りが再び頭をもたげた。
(まさか……)
振り返ってステージを見た仁礼野の焦りがさらに大きくなる。さっき消したはずの照明がついていた。行儀よく前を向いていたマスコットキャラクターたちはFOXを除いて全員が仁礼野のほうを向いている。
「…………わかりました。今からそちらに行きます。もう逃げませんよ」
仁礼野はため息をつき、ステージの上に引き返す。左端でFOXが目を覚まし、ひどく怯えたような顔を向けてくる。仁礼野がやって来ると作業着の裾を必死に両手で引っぱって止めてきた。
「大丈夫ですよFOX。心配しないでください。君は悪くないんですから」
「それでは皆さん、反省会……始めるとしましょうか」
仁礼野は振り返り、近くに見える監視カメラに向かって手を上げて振り合図を出した。