祠は音もなく崩れ去り、周りの風は止んだ。糸がほどけ、束縛から解き放たれたはずの身体に、奇妙な違和感が走る。
糸が解けるたびに、皮膚から体温が抜けていく。まるで春の陽射しの下、氷が音もなく溶けるように。
「どういうことだ……?」
祠に守られていたと考えられる蜂の姿紙が顔を覗かせている。その紙に書かれていた文字に中村は目を見開いた。
『中村 佐助』
「中村先輩……!」
壊れた祠の向こうから、必死に叫ぶ柳瀬の声がかすかに届いた。それは現実からの最後の糸だった。
蜂の姿紙は黒い液体に蜜の香りを漂わせながら、ジリ…と不気味な音を立てて火に舐められた。
揺らめく姿紙と共に薄れていく中村の自我と身体。
そのとき中村は、祠が自分と鬼塚村を繋ぐものではなく、自分と現実を繋ぐためのものであったと、ようやく気づいた。
「消えるな! 消えるな!」
必死に土をかけて蜂の姿紙に火を消そうとするも、中村の意思とは裏腹に激しく静かに燃えていく。
「逃げろと言ったのに……」
後僅かで燃え尽きようとしていた時、古井戸の底から、自分の声としか思えない嗄れ声が響いた。
振り返るとそこにいたのは蜂に刺されたように腫れ上がった身体。中村は悟った。受け入れたくはない。でもそうだ。あの腫れた肉体は、自分だった。
腫れたその身体は、確かに生きていた。だが、そこには自分はいなかった。
中村の心を支配したのは、生への渇望。現実へと帰るのだという生き物としての本能であった。
悲しげな表情を見せている自分に声をかけようと口を開いた時、蜂の姿紙の命は燃え尽きた。
中村の姿はない。あるのは金木犀と蜂蜜を濃縮した香りがそこに残った。
赤野家の客間にて赤野は、我が子を宿した母のような優しい手つきで、金色の腹巻を巻いた腹を撫でる。金の腹巻の下で、なにかがうごめいていた。
彼女の目は虫のように複眼になっており、蜂の羽音が聞こえる。中村から発せられたその香りに赤野は満足げに目を細めた。
「とても美味しゅうございました中村様」
真っ白な病室に、横たわり眠りについている中村。身体は包帯だらけで、見るからに重傷だと分かる姿。
「中村先輩入るっすよー」
扉を開けて入ったのはお菓子が入った袋を持っている柳瀬だった。ベッドの側にある椅子に座り、意識のない中村に話しかける。
「中村先輩早く起きてほしいすよ。事故からもう3日も経ってるんすよ。持ってきたお菓子食べちゃうすよ」
軽い口を聞きながらも、寂しさを隠しきれない柳瀬の想いが通じたのか。ぴくりと瞼が揺れる。
そしてゆっくりと開いていき、中村の瞳は柳瀬を映し出していた。
意識を取り戻した中村を見て、言葉を無くしたがすぐ様にナースコールを鳴らす柳瀬。
一瞬脳をぐらつかせるようなしつこい甘ったるい匂いに、違和感を感じたけれども目を覚ましたことへの喜びが勝っていた。
「あの状態から意識を取り戻すなど奇跡ですよ」
医者は中村に異常がないことを確認すると、柳瀬に経過を説明していった。もう二度目覚めないかもしれない状態からの復活に、皆喜びを分かち合う。
ふと鏡を見ると、そこには鬼塚村で叫ぶ中村の姿が映っていた。
しかし柳瀬が鏡に視線を移した瞬間、中村は幾何学模様に崩れ去っていき、現実世界の中村だけを映す。
「よかったす! 退院したら焼肉でも行くっすよ!」
「あぁ、その時は柳瀬に奢ってもらおうかな」
「勿論すよ! いくらでも食べてほしいっす! じゃ、中村先輩お大事に」
無邪気な笑顔を見せながら柳瀬は病室を後にする。医者も無理はしないようにと言い残し、病室を出る際、ふと何もない空間に視線を向けた。
「なんか虫の羽音がしますね」
だが、すぐに気のせいだろうと思い静かに扉を閉めた。
中村の周りを中心に黒い蜜みたいな液体が、床を侵食していく。瞳は複眼になっている。
目覚めたはずの身体に、なにか別の意思が棲んでいるようだった。
「次の獲物はどれにしようか。まだ夢は終わらせない」
中村も無事仕事に復帰をし、変わらない日々を過ごしている。中村から鬼塚村の話を聞かなくなり、柳瀬の記憶からも薄れていた。
「仕事メールすかね?」
仕事用のパソコンにある一通の手紙が柳瀬に届いた。
早く確認しなければと思い、開いた瞬間柳瀬は青ざめていく。
『鬼塚村へおいでくださいませ』
柳瀬の耳にははっきりと蜂の羽音が聞こえていた。