雨が降ると、嫌なことを思い出す。
窓の外を叩く小さな粒が、過去の記憶を一つずつ引き上げてくるみたいに。
都内のマンションを引き払ったのは、五月の終わりだった。就職活動に疲れ果て、何もかもがどうでもよくなった頃だ。面接では聞き飽きた自己紹介と、正解のない志望動機を並べ続け、落とされて、落とされて――気づけば、呼吸すら面倒になっていた。
「しばらく帰っておいで。空気だけはいいからさ」
祖母の電話に背中を押されたのは、もう生きる意志すら薄くなっていた頃だった。
僕が向かったのは、山奥にある「
小さい頃、夏休みに何度か遊びに行った祖母の住む村だ。
バスを降りた瞬間、濃い草の匂いが鼻を突く。都会の排気ガスやコンビニ弁当の匂いとはまるで違う、土と緑の匂いだった。雨が上がったばかりらしく、地面はまだぬかるんでいて、重たいスーツケースの車輪は何度も止まりかけた。
坂の上から、「おーい」と祖母の声が聞こえる。
変わらない懐かしい声。白髪は増えていたけど、しっかりした足取りで僕のところまで歩いてきて、荷物を軽々と持ち上げた。
「顔色が悪いねぇ。都会の水は合わなかったろう」
笑いながらそう言う祖母に、僕も久しぶりに少しだけ笑い返すことができた。
どこか懐かしくて、柔らかい空気に目の奥が少し熱くなる。
帰ってきてよかったと、そう思えた。
祖母の家は村を見下ろすような小高い丘の上に建っている。木造の平屋。壁の板は少し黒ずんでいたが、手入れは行き届いていて、草もきちんと刈られていた。
玄関の引き戸を開けたとき、鼻の奥に微かに漂ってきたのは、線香と古い畳の匂い。子どもの頃と変わらない匂いに懐かしさを覚える。同時に、どこか――そう、少しだけ“忘れていたはずのもの”に触れたような感覚があった。
「お昼にはまだ早いけど、あったかいもの作ってあるから、食べていきなさい」
そう言って出してくれたのは、具沢山の味噌汁と、炊きたての白米。それから小鉢に並んだ煮物。派手さはないけど、どれも染みるように美味しかった。
「隣の家も今は空き家になっちゃってねぇ。あんたが来てくれて、灯りが増えてうれしいよ」
そんな祖母の言葉を聞きながら、久しぶりにちゃんとご飯を食べた気がした。テレビは砂嵐のようにザザと音を立てていて、窓の外では雨粒が屋根を細かく叩いている。
静かな村の、静かな夜。
布団に潜り込んでからも、なんとなく眠れなかった。何も怖いことはないはずなのに、なぜか空気が湿って重く感じる。そうだ――仏間の隅に置かれていた、あの古い位牌。あれがこちらを見ているような気がして、寝返りばかりを打っていた。
――カタン。
ふいに、窓の外から何かが転がるような音がした。
気のせいだと思った。でも、耳を澄ますともう一度。
カラ……カラ……カタ……ン。
風で木の枝が転がっただけかもしれない。だけど、音のリズムには奇妙な規則性があった。誰かが、わざと何かを叩いているみたいに――。
その夜は、どうにも深く眠れなかった。
翌朝、祖母に「昨日の夜、なんか音がしなかった?」と尋ねると、「ああ、あれは山のほうで鹿が鳴いたのかもね」と笑いながら返された。
でも、その笑顔は、ほんの一瞬だけ固まっていたような気がする。
「昔から、山の方は風が強いから。祠の音も届くのよ」
「……祠?」
僕は言葉の響きにひっかかりを覚えて尋ね返す。
祖母は味噌汁の椀をそっと置いて、少しだけ視線を落とした。
「昔、山の中腹に小さな祠があったでしょう。子どもの頃、あんたにも“近づくな”って言ってたはずだけど……もう、今は行っちゃダメよ。あそこはもう朽ちて危ないし、蛇が出る」
「でも、音が届くって……」
「ああ、気にしなくていい。風が通るだけ」
それ以上、祖母は話したがらなかった。
けれど、僕の中で“祠”という言葉だけが、ずっと耳の奥に残り続けていた。
まるで――そこに行かなければならないような、そんな感覚を引き連れて。