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第2話

 村に来て三日目の朝。


 久しぶりに晴れた空は、驚くほど青かった。寝不足の頭を冷ますように、僕は裏手の小道をふらりと歩いていた。


 昨夜の出来事――というほどのこともない、あの音。


 考えすぎかもしれない。でも、気味の悪い違和感は、なぜか今も残っていた。


 空気は澄んでいて、草の匂いが鼻をくすぐる。


 けれど、村の静けさは、まるで“何か”が音を立てるのを待っているようにも思えた。


 気づけば、僕の足は山の方へ向かっていた。子どもの頃、祖母に「入ってはいけない」と言われていた裏山。


 確か、あの祠がある場所だ。


 行ってはいけない場所。それでも、足が止まらなかった。


 僕は、“見てみたかった”のだ。あの音が、ただの風のいたずらなのか、それとも――。


 小道は最初こそ草に覆われていたが、登るにつれて石畳が顔を出しはじめた。


 誰かが定期的に手入れをしているのか、雑草もほとんど生えていない。


 使われていない道にしては、不自然なくらい整っていた。


「……おい、兄ちゃん」


 背後から声がした。


 振り返ると、小柄な老人が立っていた。背中が曲がっているが、目だけは鋭く、こちらを射抜くように見つめていた。


「その先には行かん方がええ」


 老人の声には、怒気でも呆れでもなく――諦めのような重さがあった。


「ただの散歩です。少し、空気が良かったので……」


 そう言って軽く頭を下げたが、老人の視線は動かない。


「空気なんざ、下にもあるじゃろ。……あそこは、昔から悪いもんがおる」


 悪いもん――思わず口の中で繰り返した。


 誰が祠を建てたのか、なぜ封印されているのか――そんなことは一切知らない。


 ただ、子どもの頃の僕も、あそこには絶対に近づいてはいけないと教わった。それだけは覚えている。


 老人はそれ以上何も言わず、石段の影に姿を消した。しばらく動けずにいたが、やがて足がまた勝手に前へ出た。


 たった今、忠告を受けたはずなのに――。


 僕の中で、何かが小さく囁いていた。


 「見てしまえ」と。


 その声が、僕自身のものだったのかどうか、わからない。



 ◆



 祠は、思っていたよりも小さかった。けれど――ただの木造の小屋に過ぎないはずのそれは、空間そのものを異様に歪めて見せていた。


 苔むした屋根。崩れかけた鳥居。


 石段の先にぽつりと建っているだけなのに、そこだけ時間が止まっているような錯覚を覚えた。


 そして何より、目を引いたのは縄だった。


 太い注連縄しめなわが、祠の柱から柱へ幾重にも巻かれている。


 その上に、さらに紙垂しで付きの札が貼りつけられており、まるで――この中から“何か”が出てこないように、必死で押さえつけているように見えた。


 思わず息をのむ。


 朽ちてはいるが、間違いなく“意図的に封じられている”。


「……これが、ただの古屋?」


 祖母の言葉が脳裏に浮かぶ。


 “危ないから行くな”というのは、ただの建物としてではなく――“触れてはならないもの”としての警告だったのかもしれない。


 足元の草を踏みしめながら、僕は少しだけ近づいた。


 小屋の前には供え物らしき皿が置かれていた。干からびた穀物。骨のような何か。


 それが最近のものなのか、ずっと置かれていたのかは分からない。


 ただ、ここには誰かが“今でも”足を運んでいる。それが、確かな事実として伝わってきた。


 風が吹き、縄が、微かに揺れた。紙垂が震え、カサリと音を立てる。木々の間に沈んだ空から、濃い影が落ちる。


 僕は、なぜだかその場から目が離せなくなっていた。


 何かに吸い寄せられるように、足が一歩、また一歩と進む。


 近づくにつれて、胸の奥がきゅうっと締め付けられていく。息苦しい。なのに、後ろには戻れなかった。


 気がつけば、僕の手は伸びていた。


 祠の正面に巻かれていた縄に、指先が触れる。


 ほんの、出来心だった。


 どんな材質なのか、どれほど朽ちているのか――


 確認するつもりだった。ただ、それだけのはずだったのに。


 バリッ――。


 音とともに、縄が裂けた。


 それは、あまりにも簡単に崩れた。紙垂が舞い、空気が変わる。


 突如として、祠の奥から、冷たい風が吹き抜けてきた。


 ……風のはずなのに、寒気が骨の芯にまで入り込んでくる。頭がズキリと痛み、膝が一瞬だけ笑った。


 ――やばい。直感でそう思った。


 身体が警鐘を鳴らす。


 音のない悲鳴が、喉の奥で燻ったくすぶった


 とにかくここを離れなければ――


 そう思ったとき、背後の木々がざわりと揺れ、音がした。


 ザ……ザ……ッ……


 風かもしれない。


 けれど、確かに「何かが歩く音」に聞こえた。


 視線を後ろに向けようとした瞬間、祠の中から“何か”が動いた気がした。


 見てはいけない。


 直感がそう告げていた。


 僕は踵を返し、祠から駆け下りる。


 滑るように石段を降り、息もつかずに道を引き返す。


 喉が焼けつくほど息を吐いて、ようやく祖母の家が見えたときには、額から汗が噴き出していた。


 玄関を開けると、祖母が茶をすすっていた。その手が、僕の姿を見るなりぴたりと止まる。


 「……あんた、どこ行ってたの」


 優しい口調だった。けれど、そこにあるべき柔らかさはなかった。


 目だけが、じっと僕を見据えていた。


 「山を少し……あの、祠を……」


 その言葉を口にした瞬間、祖母の表情がピクリと動く。


 笑っていたはずの口元が、ほんのわずかに下がると皺の奥に隠された眼差しが、わずかに濁る。


 「……あそこは、行くなって言ったでしょう?」


 声に叱責しっせきの響きはなかった。ただ――低くて、冷たい。


 「縄が……少し、触ったら、切れてしまって……」


 祖母はしばらく何も言わなかった。


 やがて、目を伏せて、茶をすする音だけが台所に響く。


 「……まあ、仕方ないね。古くなってたんだろうし」


 そう言って、祖母は微笑んだ。


 その笑顔は、どこかひどく作り物めいていた。


 まるで、僕に見せるためだけに作られた仮面のように――。

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