村に来て三日目の朝。
久しぶりに晴れた空は、驚くほど青かった。寝不足の頭を冷ますように、僕は裏手の小道をふらりと歩いていた。
昨夜の出来事――というほどのこともない、あの音。
考えすぎかもしれない。でも、気味の悪い違和感は、なぜか今も残っていた。
空気は澄んでいて、草の匂いが鼻をくすぐる。
けれど、村の静けさは、まるで“何か”が音を立てるのを待っているようにも思えた。
気づけば、僕の足は山の方へ向かっていた。子どもの頃、祖母に「入ってはいけない」と言われていた裏山。
確か、あの祠がある場所だ。
行ってはいけない場所。それでも、足が止まらなかった。
僕は、“見てみたかった”のだ。あの音が、ただの風のいたずらなのか、それとも――。
小道は最初こそ草に覆われていたが、登るにつれて石畳が顔を出しはじめた。
誰かが定期的に手入れをしているのか、雑草もほとんど生えていない。
使われていない道にしては、不自然なくらい整っていた。
「……おい、兄ちゃん」
背後から声がした。
振り返ると、小柄な老人が立っていた。背中が曲がっているが、目だけは鋭く、こちらを射抜くように見つめていた。
「その先には行かん方がええ」
老人の声には、怒気でも呆れでもなく――諦めのような重さがあった。
「ただの散歩です。少し、空気が良かったので……」
そう言って軽く頭を下げたが、老人の視線は動かない。
「空気なんざ、下にもあるじゃろ。……あそこは、昔から悪いもんがおる」
悪いもん――思わず口の中で繰り返した。
誰が祠を建てたのか、なぜ封印されているのか――そんなことは一切知らない。
ただ、子どもの頃の僕も、あそこには絶対に近づいてはいけないと教わった。それだけは覚えている。
老人はそれ以上何も言わず、石段の影に姿を消した。しばらく動けずにいたが、やがて足がまた勝手に前へ出た。
たった今、忠告を受けたはずなのに――。
僕の中で、何かが小さく囁いていた。
「見てしまえ」と。
その声が、僕自身のものだったのかどうか、わからない。
◆
祠は、思っていたよりも小さかった。けれど――ただの木造の小屋に過ぎないはずのそれは、空間そのものを異様に歪めて見せていた。
苔むした屋根。崩れかけた鳥居。
石段の先にぽつりと建っているだけなのに、そこだけ時間が止まっているような錯覚を覚えた。
そして何より、目を引いたのは縄だった。
太い
その上に、さらに
思わず息をのむ。
朽ちてはいるが、間違いなく“意図的に封じられている”。
「……これが、ただの古屋?」
祖母の言葉が脳裏に浮かぶ。
“危ないから行くな”というのは、ただの建物としてではなく――“触れてはならないもの”としての警告だったのかもしれない。
足元の草を踏みしめながら、僕は少しだけ近づいた。
小屋の前には供え物らしき皿が置かれていた。干からびた穀物。骨のような何か。
それが最近のものなのか、ずっと置かれていたのかは分からない。
ただ、ここには誰かが“今でも”足を運んでいる。それが、確かな事実として伝わってきた。
風が吹き、縄が、微かに揺れた。紙垂が震え、カサリと音を立てる。木々の間に沈んだ空から、濃い影が落ちる。
僕は、なぜだかその場から目が離せなくなっていた。
何かに吸い寄せられるように、足が一歩、また一歩と進む。
近づくにつれて、胸の奥がきゅうっと締め付けられていく。息苦しい。なのに、後ろには戻れなかった。
気がつけば、僕の手は伸びていた。
祠の正面に巻かれていた縄に、指先が触れる。
ほんの、出来心だった。
どんな材質なのか、どれほど朽ちているのか――
確認するつもりだった。ただ、それだけのはずだったのに。
バリッ――。
音とともに、縄が裂けた。
それは、あまりにも簡単に崩れた。紙垂が舞い、空気が変わる。
突如として、祠の奥から、冷たい風が吹き抜けてきた。
……風のはずなのに、寒気が骨の芯にまで入り込んでくる。頭がズキリと痛み、膝が一瞬だけ笑った。
――やばい。直感でそう思った。
身体が警鐘を鳴らす。
音のない悲鳴が、喉の奥で
とにかくここを離れなければ――
そう思ったとき、背後の木々がざわりと揺れ、音がした。
ザ……ザ……ッ……
風かもしれない。
けれど、確かに「何かが歩く音」に聞こえた。
視線を後ろに向けようとした瞬間、祠の中から“何か”が動いた気がした。
見てはいけない。
直感がそう告げていた。
僕は踵を返し、祠から駆け下りる。
滑るように石段を降り、息もつかずに道を引き返す。
喉が焼けつくほど息を吐いて、ようやく祖母の家が見えたときには、額から汗が噴き出していた。
玄関を開けると、祖母が茶をすすっていた。その手が、僕の姿を見るなりぴたりと止まる。
「……あんた、どこ行ってたの」
優しい口調だった。けれど、そこにあるべき柔らかさはなかった。
目だけが、じっと僕を見据えていた。
「山を少し……あの、祠を……」
その言葉を口にした瞬間、祖母の表情がピクリと動く。
笑っていたはずの口元が、ほんのわずかに下がると皺の奥に隠された眼差しが、わずかに濁る。
「……あそこは、行くなって言ったでしょう?」
声に
「縄が……少し、触ったら、切れてしまって……」
祖母はしばらく何も言わなかった。
やがて、目を伏せて、茶をすする音だけが台所に響く。
「……まあ、仕方ないね。古くなってたんだろうし」
そう言って、祖母は微笑んだ。
その笑顔は、どこかひどく作り物めいていた。
まるで、僕に見せるためだけに作られた仮面のように――。