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第3話

 どうして、戻ったのかは自分でもよく分からない。あの晩、祠から逃げるようにして帰ったはずだったのに、翌朝にはまた、同じ山道を登っていた。


 誰かに呼ばれた気がしたわけでもない。ただ、気になって仕方がなかったのだ。


 あの縄を解いてしまったことも、それによって起きた風も、何かの拍子だったのか、それとも――。


 午前十時を過ぎたころ、また、あの石畳の道を抜けて、祠の前に立った。


 昨日と変わらぬ外見。だが、何かが“違って”見えた。


 昨日は閉ざされていた気配が、今はまるで、誰かを“迎え入れようとしている”ように思える。


 僕は祠の正面に立ち、破れてしまった縄と紙垂を眺めた。


「……やっぱり、壊しちゃったんだよな……」


 自分のしたことの重大さが、遅れてじわじわと胸に迫ってきた。


 古びていたとはいえ、あれは祀られていたものだ。勝手に触れて、破損させた。いくら誰も管理していないように見えたとはいえ、これは良くない。


 謝ろうか。それとも、結び直そうか――そんなことを考えながら、祠の横手へ回ったそのときだった。


 ガサッ、と音がした。


 驚いて振り返る。


 草むらが揺れていた。リスかイタチのような、小さな影が走り去るのが見えた。


「うわっ……!」


 反射的に下がった足が、苔に滑った。


 ズルッ――。


 傾いた地面。体が傾く。


 とっさに近くの柱に手をかけた。だが、それは想像以上に腐っていた。


 バキッ――。


 崩れる音とともに、祠の一部が傾いだ。慌てて体勢を立て直し、転ばずには済んだものの、視線の先で祠の柱が斜めに折れたまま、地面に突き刺さっていた。


 「……嘘、だろ」


 あまりにも脆かった。触れただけだったのに。


 確かに、柱はすでに腐食していた。それでも、まるで何かが“この瞬間を待っていた”かのように、呆気なく崩れた。


 すると――空気が、変わる。


 ひゅうう……と、耳鳴りのような風の音がした。


 でも、風は吹いていなかった。木々の葉も揺れていない。


 ただ、空気だけが――密度を増して、ねっとりとまとわりついてきた。


 木々が、ざわつく。


 カサ……カサ……。


 遠くで、誰かが歩いているような音。


 辺りを見回しても誰もいない。なのに、音だけが耳元にまとわりついてくる。


 胸の奥がズキズキと疼きうずき始めた。このままここにいたら、いけない。直感が叫んでいた。


 僕は石段を駆け下りた。昨日よりも早く、昨日よりも恐怖に突き動かされて。


 道を戻る途中、あの老人の姿はなかった。すれ違う人も、誰もいない。



 ◆



 祖母の家に戻ったのは、昼前だった。


 台所で煮物の匂いがしていた。祖母は湯気の立つ鍋を見ながら、僕に気づいて顔を上げた。


「……あら、随分早い帰りじゃないの。どこか行ってたの?」


 いつもと変わらない口調。けれど、その笑顔の中に――何かがある。


 僕は、胸に湧いた違和感を抑えきれずに口を開いた。


 「……あの祠、また行ってきた。昨日のことが気になって……それで、ちょっと滑って、柱を折っちゃって……」


 言葉を選びながらも、正直に話した。


 祖母は、しばらく黙って僕の顔を見ていた。その目の奥が、わずかに揺れた気がした。


 けれど、すぐに微笑んだ。


「そうかい。まあ、もうあそこは誰も手入れしてないからね。崩れるのも時間の問題だったよ」


「でも、あれって……何かを封じてるとか、そういう――」


「……ただの古屋よ。祀られてた神様も、今は誰も信じちゃいない」


 祖母はそう言いながら、お椀を出してきた。その手は、少しだけ震えていた。


 僕がそれに気づいたかどうか、祖母は何も言わなかった。


「もうすぐ昼だし、あんたもお腹すいたろう? 今日は筍の炊き込みご飯だよ」


 そう言ってにこやかに並べていく小鉢のひとつひとつが、どこか手早くて、せかされているような感覚を覚える。


 ……気のせい、だよな。


 ご飯は美味しかった。けれど、どこか味がわからなかった。口に入れても喉を通らない。胃が、拒絶しているようだった。


 会話も弾まなかった。


 祖母はいつもより饒舌じょうぜつで、村の昔話や、空き家になった隣家の話をぽつぽつと続けた。でも、話題のどれもが、“あの祠”からわざとれているように思えた。


 僕は途中で箸を置く。


「ねえ、おばあちゃん」


「ん?」


「……昔、あの祠って何のためにあったの?」


 祖母は、一瞬だけ止まった。ほんの一拍。


 だけど、それだけで十分だった。ああ、やっぱり“何かある”んだ、と確信してしまった。


「さあね。誰が建てたのかも、わたしが小さい頃にはもうあったよ。昔はね、祭りもあったけど、今はもう……何十年も前に途絶えたから」


「途絶えた、って?」


「人が減ってね。神様の祭りっていうのは、捧げる側がいなければ成立しないものだから」


 静かに言うその声が、妙に冷たく感じられた。まるで、誰かに語っているのではなく、ひとり言のように聞こえる声だった。


「それに――信じる人がいなければ、神様だって静かになるものよ。ね」


 そう言って笑った祖母の顔を、僕は見返すことができなかった。


 それでも、どこか納得できなかった。あの祠の封印は、どう見たって“放置されたもの”ではない。


 誰かが、ずっと最近まで手入れをしていた痕跡があった。昨日、あの供物の皿に残っていた穀物や骨も、どう見ても何十年も放置されたものには見えなかった。


 なのに祖母は、あれを「ただの古屋」だと言った。


 僕はうつむき、湯気の立つ味噌汁を見つめながら、静かに問う。


「……もし、壊したことで何か起こったら、どうする?」


 祖母の手が、止まった。


「何かって?」


「……たとえば、動物が死んだり、誰かが倒れたり……そういうことが起きたら」


 祖母は箸を置き、ゆっくりと立ち上がり、流し台に歩いていくと、黙って皿を洗い始める。


 蛇口から流れる水音が、妙に大きく感じた。


「……考えすぎよ。そんなふうに思い込むと、なんでも呪いに見えるようになる」


 そう言った背中は、やけに小さく見えた。


 その肩が、微かに震えているように見えたのは、錯覚だっただろうか。


 窓の外では、風一つない晴れ空の下で、風鈴だけがカランと鳴っていた。


 まるで、何もない空間のどこかから、“音だけ”が滑り込んできたみたいに。



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