異変は、翌日から始まった。
朝、台所の窓を開けたとき、遠くから女の悲鳴が届いた。ぞわりと背中を
なんの声か確かめようと外へ出ると、坂の下のほうに人だかりが見える。
立ち話をしていた近所の人に尋ねると、「猫が死んでいたらしい」とだけ返された。
――庭の隅で、背骨を折られたような姿で。
――目を見開いたまま、口元から黒い液を垂らして。
誰が言い出したのかもわからない。けれど、その話は瞬く間に村中へ広がる。
「獣の仕業かねえ」
「でも村の中でそんなことあるかい?」
そんなふうに笑い交じりで話していたけれど、どの顔もどこか硬い。
言葉の裏に、恐れを隠しているように感じられた。
二日目の朝には、神社の狛犬が倒れていた。しかも両方とも同じ方向に、顔から地面に伏せるかたちで。
偶然とは思えなかった。
散歩の途中で神社まで足を運ぶと、石段には不自然な泥の痕が点々と残っていた。獣の足跡かと思ったが、そうとも言い切れない。
風もなく、鳥の影もない境内の静けさが、逆に耳鳴りのように響く。
◆
祖母の様子にも、微かな変化が現れはじめていた。
前は一日中家にいて、庭の手入れや食事の準備をしていたのに。
ここ数日は「集会があるから」と言って、昼になると外へ出るようになった。
「昔の寄り合いみたいなもんさ」と笑っていたが、帰ってくる顔はどこか疲れている。
尋ねても「たいしたことないよ」と、話を切り上げられてしまう。
夜になると、仏壇の前に座る時間が長くなった。
線香の煙が細く伸びていく様子を、祖母はじっと見つめている。
話しかけるのがためらわれるほど、静かだった。
◆
気持ちを切り替えようと、村の資料館へ足を向けた。元は村役場だったというその建物は、小さくて誰もいない。
中に入ると、埃っぽい空気と紙の匂いが漂ってくる。
郷土誌や生活道具の並んだ棚を抜け、奥にあった古文書の束に目を向けた。
一冊だけ、やけに目を引くものがある。
黄ばんだ表紙に書かれていたのは――
「夜渡りの神事と来訪神について」
祠のことが頭をよぎった。
気づけば手が伸びていて、ページをめくっていた。ところどころ文字は擦れていたが、いくつかの言葉がはっきりと残っていた。
……来訪神は春に降りる……
……
……贄は“外より来たる血”、純たる他者を以って捧ぐ……
ページをめくる手が止まった。
”贄”
”外より来たる血”
”
どれも、ただの伝承とは思えなかった。
神を迎えるというより、封じるために何かを差し出していた――そんな意味合いがにじんでいた。
記述の端に、こうも書かれている。
「封は百年に一度、緩む」
喉の奥がひりつくように乾く。あの祠。折ってしまった柱。解けた縄。舞い落ちた紙垂。
「……まさか」
声に出してから、自分がどれほど怯えていたかに気づいた。
今の時代に、そんな
そう言い聞かせても、脳裏に浮かんでくる映像が消えない。
◆
資料館を出ると、太陽はまだ高かった。それなのに、まるで夕方のような陰りが村の上に落ちていた気がする。
帰り道、遠くの畑にいた老婆がこちらを見ていた。
目が合うと、彼女はすぐに視線を外して家の中へ引っ込んでしまう。
その後も何人かとすれ違ったが、誰ひとり挨拶を返してこなかった。昨日までとは違う。まるで、僕の存在そのものが“異物”になってしまったかのようだった。
家に戻ると、縁側の椅子が少しだけずれていた。
風はなかった。誰かがそこに座っていたような気配が、まだ残っていた。
空気が、変わってきている。
この村そのものが、僕を中心に“何か”を始めようとしている――
そんな気がしてならなかった。