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第4話

 異変は、翌日から始まった。


 朝、台所の窓を開けたとき、遠くから女の悲鳴が届いた。ぞわりと背中を粟立たせるあわだたせるような、ひりついた声だった。


 なんの声か確かめようと外へ出ると、坂の下のほうに人だかりが見える。


 立ち話をしていた近所の人に尋ねると、「猫が死んでいたらしい」とだけ返された。


 ――庭の隅で、背骨を折られたような姿で。

 ――目を見開いたまま、口元から黒い液を垂らして。


 誰が言い出したのかもわからない。けれど、その話は瞬く間に村中へ広がる。


 「獣の仕業かねえ」

 「でも村の中でそんなことあるかい?」


 そんなふうに笑い交じりで話していたけれど、どの顔もどこか硬い。


 言葉の裏に、恐れを隠しているように感じられた。


 二日目の朝には、神社の狛犬が倒れていた。しかも両方とも同じ方向に、顔から地面に伏せるかたちで。


 偶然とは思えなかった。


 散歩の途中で神社まで足を運ぶと、石段には不自然な泥の痕が点々と残っていた。獣の足跡かと思ったが、そうとも言い切れない。


 風もなく、鳥の影もない境内の静けさが、逆に耳鳴りのように響く。



 ◆



 祖母の様子にも、微かな変化が現れはじめていた。


 前は一日中家にいて、庭の手入れや食事の準備をしていたのに。


 ここ数日は「集会があるから」と言って、昼になると外へ出るようになった。


 「昔の寄り合いみたいなもんさ」と笑っていたが、帰ってくる顔はどこか疲れている。


 尋ねても「たいしたことないよ」と、話を切り上げられてしまう。


 夜になると、仏壇の前に座る時間が長くなった。


 線香の煙が細く伸びていく様子を、祖母はじっと見つめている。


 話しかけるのがためらわれるほど、静かだった。



 ◆



 気持ちを切り替えようと、村の資料館へ足を向けた。元は村役場だったというその建物は、小さくて誰もいない。


 中に入ると、埃っぽい空気と紙の匂いが漂ってくる。


 郷土誌や生活道具の並んだ棚を抜け、奥にあった古文書の束に目を向けた。


 一冊だけ、やけに目を引くものがある。


 黄ばんだ表紙に書かれていたのは――


 「夜渡りの神事と来訪神について」


 祠のことが頭をよぎった。


 気づけば手が伸びていて、ページをめくっていた。ところどころ文字は擦れていたが、いくつかの言葉がはっきりと残っていた。



 ……来訪神は春に降りる……

 ……咀嚼そしゃくの儀、夜に執り行うべし……

 ……贄は“外より来たる血”、純たる他者を以って捧ぐ……



 ページをめくる手が止まった。



 ”贄”

 ”外より来たる血”

 ”咀嚼そしゃくの儀”



 どれも、ただの伝承とは思えなかった。


 神を迎えるというより、封じるために何かを差し出していた――そんな意味合いがにじんでいた。


 記述の端に、こうも書かれている。



 「封は百年に一度、緩む」



 喉の奥がひりつくように乾く。あの祠。折ってしまった柱。解けた縄。舞い落ちた紙垂。


 「……まさか」


 声に出してから、自分がどれほど怯えていたかに気づいた。


 今の時代に、そんな因習いんしゅうが生き残っているはずがない。


 そう言い聞かせても、脳裏に浮かんでくる映像が消えない。


 ◆


 資料館を出ると、太陽はまだ高かった。それなのに、まるで夕方のような陰りが村の上に落ちていた気がする。


 帰り道、遠くの畑にいた老婆がこちらを見ていた。


 目が合うと、彼女はすぐに視線を外して家の中へ引っ込んでしまう。


 その後も何人かとすれ違ったが、誰ひとり挨拶を返してこなかった。昨日までとは違う。まるで、僕の存在そのものが“異物”になってしまったかのようだった。


 家に戻ると、縁側の椅子が少しだけずれていた。


 風はなかった。誰かがそこに座っていたような気配が、まだ残っていた。


 空気が、変わってきている。


 この村そのものが、僕を中心に“何か”を始めようとしている――


 そんな気がしてならなかった。

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