目を覚ましたとき、まず最初に感じたのは、体がまったく動かないことだった。
頭が重い。まぶたの裏が鈍く痺れていて、目を開けるだけでも酷く力が要った。
次に感じたのは、背中に触れている冷たい感触。
石のような硬さと、土の湿り気。――屋外だ。
それから、自分の両手首と足首が何かに縛られていることに気づいた。
麻縄だ。指先を動かそうとしても、びくともしない。
それでも首だけはわずかに動かせた。
見上げた空は、夜よりも深く、黒かった。月も星もない。あたりには松明のような明かりがいくつも灯っていて、その輪郭が炎に揺れている。
思考が
かつて祠があった山の中腹。
その跡地――だった場所だ。
祠は、もうなかった。かつて屋根と柱で形を成していたものは、今や瓦礫と化し、跡形もない。
その代わりに、そこにはぽっかりと黒い穴が開いていた。
闇そのもののような穴。
地面の裂け目などという生優しいものではなかった。
その奥から、風とは違う何かが吹き込んでくる。
呼吸ができない。空気が濁っているのではなく、空間そのものが拒んでいる。
周囲を見回すと、村人たちがいた。
誰ひとり声を発さず、ただ静かに並んで立っている。
松明を手に、炎に照らされながら、無表情で“穴”を見つめていた。
まるで、劇を見守る観客のようだった。
その静けさが、恐ろしかった。
「……やめろ……誰か、頼む、助けてくれ……!」
声がかすれ、喉が裂けるように痛む。
それでも叫ぶことしかできなかった。
しかし、誰も反応しない。
村人たちは、まるでその声すら届かないかのように、微動だにしない。
ただ一人だけ、僕に向かって歩いてくる影があった。
――祖母だった。
ゆっくりと、足音も立てずに近づいてきた。
手には何も持っていない。顔には、悲しそうな微笑みが浮かんでいた。
「……ごめんね。でも、村には“誰か”が必要なの」
その声は穏やかで、よく知っている声だった。けれど、今は別の意味に聞こえてくる。
「ほんとに……助かったんよ。あんたが来てくれて」
涙も流さないまま、祖母はただ語りかけてきた。
それは、言い訳ではなかった。
“感謝”だった。
村人たちの間から、誰かの小さな声が聞こえた。
「……また百年、静かに暮らせる」
「これで、祟りは鎮まる」
「神様、お迎えする準備は整いました」
声が重なり、低い音のように地面に染み込んでいく。
そのときだった。穴の奥が、動いた――。
黒い穴の底から、“何か”が這い出してくる気配がした。
最初に現れたのは、爪だった。岩を削るような硬質な音とともに、異様に長く、細い指が地面を掴んだ。
次に、手首。
腕。
それから、ぬるりと粘膜のような質感をまとった肩のような何かが、ゆっくりと浮かび上がる。
“それ”には、顔があった。いや、“顔のようなもの”がついていた。
人間に似ている。けれど、人ではなかった。
目が五つ。口が胸の位置にあり、そこから唸るような低音が漏れている。
風でも、獣でも、ましてや神でもない。それは、“見てはいけないもの”だった。
“それ”が、今、僕のほうを見ている。
いや、“選んでいる”。
逃げようとしても、体は動かない。声を出しても、喉が震えるだけだった。
“それ”は、地面を這うようにして、ゆっくりと身を持ち上げていく。
骨のように細長い四肢が不気味な関節音を立てながら曲がり、肉とも粘膜ともつかない質感の身体が、光を吸い込みながら這い上がってくる。
その動きはあまりにも静かで、あまりにも滑らかだった。
何の音も発さないのに、耳の奥がキーンと痛む。
圧力のようなものが、この空間を満たしていた。
逃げなきゃ……思考がそう叫んでいるのに、体がまったく動かない。
縛られた手足ではなく、体の奥底、意志そのものが凍りついているようだった。
それは――“神”などではなかった。
信仰の対象とも、祈りの寄る辺とも違う。
もっと根源的な、言葉では定義できない“異質”。存在そのものが、こちら側の理を侵食してくる。
“それ”の目が、こちらを見た。
……いや、違う。
視られている。
心の奥、記憶の底、声にならなかった言葉のすべてを、覗かれている。
「やめてくれ……来るな……!」
喉がちぎれそうになりながらも、声を振り絞った。
その声に、誰も反応しない。
村人たちはまるで、すでにこの世の者ではないかのように、ただ静かに見守り続けていた。
ただひとり、祖母だけが動いた。
足音もなく、ゆっくりと僕の前に立つ。
その表情には、もう笑みもなかった。
ただ、強い覚悟だけが刻まれていた。
「この村は、昔からそうやって生きてきたんだよ」
小さく、静かな声だった。
「山の神さまに、贄を捧げて。百年に一度、封が緩むそのときだけ。……一人だけ。外から来た血を、一人だけ」
「……そんな……なんで……!」
声が震える。
怒りでも恐怖でもない。裏切られたという事実が、感情の名を奪っていった。
「本当に、ごめんね。……でも、わたしがこの村を出られないのと同じように、あんたも、もう戻れないの」
その目が潤んでいるのに、涙は一滴も流れなかった。
その手が、僕の頬に触れる。優しかった。
けれど、縄を解こうとはしなかった。
「忘れないよ。あんたが来てくれたこと。笑ってくれたこと。わたしを“おばあちゃん”って呼んでくれたこと」
その瞬間、“それ”が穴の縁に姿を現した。
まるで霧のように揺れながら、形を変えながら、こちらへ迫ってくる。
祖母はゆっくりと後ろに下がり、“それ”へと頭を下げた。
「……この子を、お納めください。どうかまた、静かに百年をお過ごしくださいまし――」
その言葉が終わると同時に、“それ”がこちらに向かって這い出してくる。
大地が震えた。空気が裂けた。
僕の視界がぐにゃりと歪んで、音が遠のいていく。
“それ”が僕の顔の前に近づいた。
目が合った。いや、正確には――全身が、目になっていた。
その“全ての目”に見下ろされながら、僕の意識は暗闇に沈んでいく。