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第6話

 目を覚ましたとき、まず最初に感じたのは、体がまったく動かないことだった。


 頭が重い。まぶたの裏が鈍く痺れていて、目を開けるだけでも酷く力が要った。


 次に感じたのは、背中に触れている冷たい感触。


 石のような硬さと、土の湿り気。――屋外だ。


 それから、自分の両手首と足首が何かに縛られていることに気づいた。


 麻縄だ。指先を動かそうとしても、びくともしない。


 それでも首だけはわずかに動かせた。


 見上げた空は、夜よりも深く、黒かった。月も星もない。あたりには松明のような明かりがいくつも灯っていて、その輪郭が炎に揺れている。


 思考が混濁こんだくする中、見慣れた地形に気づいた。


 かつて祠があった山の中腹。


 その跡地――だった場所だ。


 祠は、もうなかった。かつて屋根と柱で形を成していたものは、今や瓦礫と化し、跡形もない。


 その代わりに、そこにはぽっかりと黒い穴が開いていた。


 闇そのもののような穴。


 地面の裂け目などという生優しいものではなかった。


 その奥から、風とは違う何かが吹き込んでくる。


 呼吸ができない。空気が濁っているのではなく、空間そのものが拒んでいる。


 周囲を見回すと、村人たちがいた。


 誰ひとり声を発さず、ただ静かに並んで立っている。


 松明を手に、炎に照らされながら、無表情で“穴”を見つめていた。


 まるで、劇を見守る観客のようだった。


 その静けさが、恐ろしかった。


 「……やめろ……誰か、頼む、助けてくれ……!」


 声がかすれ、喉が裂けるように痛む。


 それでも叫ぶことしかできなかった。


 しかし、誰も反応しない。


 村人たちは、まるでその声すら届かないかのように、微動だにしない。


 ただ一人だけ、僕に向かって歩いてくる影があった。


 ――祖母だった。


 ゆっくりと、足音も立てずに近づいてきた。


 手には何も持っていない。顔には、悲しそうな微笑みが浮かんでいた。


 「……ごめんね。でも、村には“誰か”が必要なの」


 その声は穏やかで、よく知っている声だった。けれど、今は別の意味に聞こえてくる。


 「ほんとに……助かったんよ。あんたが来てくれて」


 涙も流さないまま、祖母はただ語りかけてきた。


 それは、言い訳ではなかった。懺悔ざんげでもなかった。


 “感謝”だった。


 村人たちの間から、誰かの小さな声が聞こえた。


 「……また百年、静かに暮らせる」


 「これで、祟りは鎮まる」


 「神様、お迎えする準備は整いました」


 声が重なり、低い音のように地面に染み込んでいく。


 そのときだった。穴の奥が、動いた――。


 黒い穴の底から、“何か”が這い出してくる気配がした。


 最初に現れたのは、爪だった。岩を削るような硬質な音とともに、異様に長く、細い指が地面を掴んだ。


 次に、手首。


 腕。


 それから、ぬるりと粘膜のような質感をまとった肩のような何かが、ゆっくりと浮かび上がる。


 “それ”には、顔があった。いや、“顔のようなもの”がついていた。


 人間に似ている。けれど、人ではなかった。


 目が五つ。口が胸の位置にあり、そこから唸るような低音が漏れている。


 風でも、獣でも、ましてや神でもない。それは、“見てはいけないもの”だった。


 “それ”が、今、僕のほうを見ている。


 いや、“選んでいる”。


 逃げようとしても、体は動かない。声を出しても、喉が震えるだけだった。


 “それ”は、地面を這うようにして、ゆっくりと身を持ち上げていく。


 骨のように細長い四肢が不気味な関節音を立てながら曲がり、肉とも粘膜ともつかない質感の身体が、光を吸い込みながら這い上がってくる。


 その動きはあまりにも静かで、あまりにも滑らかだった。


 何の音も発さないのに、耳の奥がキーンと痛む。


 圧力のようなものが、この空間を満たしていた。


 逃げなきゃ……思考がそう叫んでいるのに、体がまったく動かない。


 縛られた手足ではなく、体の奥底、意志そのものが凍りついているようだった。


 それは――“神”などではなかった。


 信仰の対象とも、祈りの寄る辺とも違う。


 もっと根源的な、言葉では定義できない“異質”。存在そのものが、こちら側の理を侵食してくる。


 “それ”の目が、こちらを見た。


 ……いや、違う。


 視られている。


 心の奥、記憶の底、声にならなかった言葉のすべてを、覗かれている。


「やめてくれ……来るな……!」


 喉がちぎれそうになりながらも、声を振り絞った。


 その声に、誰も反応しない。


 村人たちはまるで、すでにこの世の者ではないかのように、ただ静かに見守り続けていた。


 ただひとり、祖母だけが動いた。


 足音もなく、ゆっくりと僕の前に立つ。


 その表情には、もう笑みもなかった。


 ただ、強い覚悟だけが刻まれていた。


「この村は、昔からそうやって生きてきたんだよ」


 小さく、静かな声だった。


「山の神さまに、贄を捧げて。百年に一度、封が緩むそのときだけ。……一人だけ。外から来た血を、一人だけ」


「……そんな……なんで……!」


 声が震える。


 怒りでも恐怖でもない。裏切られたという事実が、感情の名を奪っていった。


「本当に、ごめんね。……でも、わたしがこの村を出られないのと同じように、あんたも、もう戻れないの」


 その目が潤んでいるのに、涙は一滴も流れなかった。


 その手が、僕の頬に触れる。優しかった。


 けれど、縄を解こうとはしなかった。


「忘れないよ。あんたが来てくれたこと。笑ってくれたこと。わたしを“おばあちゃん”って呼んでくれたこと」


 その瞬間、“それ”が穴の縁に姿を現した。


 まるで霧のように揺れながら、形を変えながら、こちらへ迫ってくる。


 祖母はゆっくりと後ろに下がり、“それ”へと頭を下げた。


「……この子を、お納めください。どうかまた、静かに百年をお過ごしくださいまし――」


 その言葉が終わると同時に、“それ”がこちらに向かって這い出してくる。


 大地が震えた。空気が裂けた。


 僕の視界がぐにゃりと歪んで、音が遠のいていく。


 “それ”が僕の顔の前に近づいた。


 目が合った。いや、正確には――全身が、目になっていた。


 その“全ての目”に見下ろされながら、僕の意識は暗闇に沈んでいく。

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