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最終話

 “それ”は、確かに人の形をしていた。けれど、それは単に「形をしている」だけだった。輪郭は曖昧で、全身からは蒸気のような霧が立ちのぼっている。


 無数の目が浮かんでは消え、腕とも脚ともつかない黒煙が、ゆっくりとこちらへ伸びてきた。


 肌がざわつく。


 意識の奥、言葉にならない本能が、恐怖とは違う“拒絶”のような感情を叩きつけてくる。


 “それ”は神ではなかった。


 少なくとも、僕の知っている「神」ではなかった。


 “それ”はただ、ここに在るだけの存在だった。祀られるわけでも、崇められるわけでもなく。


 ただ喰らい、ただそこにいて、ただ百年ごとに誰かを必要とする――そんな、ひたすらに“在る”という事実だけで空間を侵すものだった。


 霧のような腕が伸びる。それが触れた場所から、身体の感覚が消えていく。


 麻酔のような、氷のような、そして――懐かしさに似た何か。


 目の前がぐにゃりと歪んだ。


 記憶が混じる。


 祖母の笑顔。


 小学生の夏、初めてここに来た日の景色。


 あの猫。


 面接での沈黙。


 ひとり暮らしの夜。


 泣きながら口にしたコンビニ弁当の味。


 全部が、音もなく崩れていく。


 “それ”は僕の記憶を食っている。


 過去も、名前も、僕という輪郭も、じわじわと侵されていく。


 ふと気づくと、僕の口が笑っていた。自分で笑っているのに、笑っている感覚がなかった。


 気づけば、村人たちは目を伏せていた。誰もこちらを見ない。


 それが、ただの「哀れみ」ではないことは分かっていた。


 祠を壊したからでもない。外から来たからでもない。


 僕は、最初から“そうなるべき存在”としてここに来たのだ。


 そして祖母は――ただ、泣いていた。


 音もなく。嗚咽も漏らさず。膝をつき、手を合わせ、目からこぼれるものを止めようともしなかった。


 最後に、かすかな囁きが届く。


「生きていくってのはね……誰かを喰わなきゃ、できないのよ」


 その言葉が、意識の最後に焼きついた。



 ◆



 気がつくと、僕は“何か”の中にいた。


 感覚は曖昧で、重さも、痛みも、音さえなかった。


 暗闇のようで、白昼のようでもあり、空気の匂いだけが微かに残っている。


 目を開けると、そこには“祠”があった。


 けれど、それは僕が知っている祠とは違う。


 瓦も、木材も、しめ縄もない。


 ただ、そこにぽつりと存在する“空間”。


 ……いや、違う。それは――僕自身だった。


 “自分の顔”をした祠が、静かにそこに在る。


 あの祖母の家の庭。あの祠の裏山。あの、誰もが忘れようとする土地に。


 声は出せなかったが、何かが頭の中で響いていた。



「……ああ、次に来る“贄”が、早く見つかるといいな」


 了


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