葦辺雁(あしべかり)は、自身を「シン万葉歌人」と称する男だった。齢(よわい)四十五。白髪混じりの無造作な長髪をうなじで適当に束ね、陽に当たることの少ない肌は病的なまでに白い。ややくたびれた和服を好んでまとい、虚ろとも諦観ともつかぬ瞳で世事を眺めている。人里離れた禍福村(まがふくむら)の古民家で、彼はひとり、ひっそりと暮らしていた。猫好きでありながら、なぜか猫には猛烈に嫌われる。
禍福村は、その名の通り、禍(わざわい)と福(さいわい)が表裏一体をなす土地柄だった。山々に囲まれた盆地に寄り添うように点在する家々は古色蒼然としており、時間の流れがここだけ緩やかに淀んでいるかのようだ。村人たちは排他的で、古くからの因習を頑なに守り続けている。よそ者である雁がこの村に流れ着いて五年になるが、いまだ彼は異物であり、腫れ物として扱われていた。雁自身はそんな周囲の視線を柳に風と受け流し、気にも留めない。その孤独と疎外感こそが、むしろ彼の創作意欲を奇妙な形で刺激していた。
雁の言う「シン万葉集」とは、彼独自の解釈と感性で紡がれる歌の数々である。古典の調べを踏襲しつつも、その内容は現代的で、時に虚無的、時に残酷なまでに生々しい。
「言霊(ことだま)はな、魂の叫びそのものよ。古(いにしえ)の歌人が真心を込めて詠んだように、俺もまた、この現代(いま)の魂の震えを詠む。それがシン万葉。万葉集ネオ・ジェネシスってとこかな」
気だるげに煙管(きせる)をふかしながら、雁はたまに訪れる数少ない知人にそう語る。その瞳は、常の虚ろさとは裏腹に、創作について語る時だけ、仄暗い光を宿すのだ。
その日、雁は珍しく苛立っていた。それは苛立ちというより、得体の知れない閉塞感に近かった。ここ数日、どうにも歌が詠めない。言葉が、魂の奥底から湧き上がってこないのである。
「……腐るな、こりゃ」
昼日中から呷(あお)った安酒の徳利を傾け、最後の一滴を飲み干すと、雁は気まぐれに立ち上がった。着流しの裾を乱暴にたくし上げ、草履を突っかける。あてもなく、ふらりと外へ出た。
禍福村には、村人たちが決して近づかない禁足地がいくつか存在する。その一つが、村外れの深い森の奥にある「鬼哭(きこく)祠」と呼ばれる古びた祠だった。いつの頃からそこにあるのか、何を祀っているのか、正確なところを知る者はもういない。古老たちが「触らぬ神に祟りなし」と口を酸っぱくして言い伝えているのみである。
雁は、鬼哭祠を目指したわけではなかった。酒の酔いも手伝い、ただ足の向くままに森の中を彷徨っていたに過ぎない。木漏れ日すら届かぬ暗い森の小径を、夢遊病者のように進むうちに、彼はいつしかその祠の前に立っていた。
苔むした数段の石段の上に、朽ちかけた木造の小さな祠が鎮座している。注連縄(しめなわ)は黒ずみ、ところどころ千切れかけていたが、それでもなお周囲に異様な禁忌のオーラを放っていた。空気は重く湿り気を帯び、何かの腐臭と獣臭が混じり合ったような微かな匂いが鼻をつく。
「ほう……ここが噂の」
雁は特に感慨もなく、祠を見上げた。村人たちが恐れるほどの威圧感は感じない。古びて忘れ去られたモノの寂寥感が漂うばかりだ。
「祟りねえ……」
ふと、雁の口元に自嘲的な笑みが浮かんだ。歌が詠めない閉塞感。生きているのか死んでいるのかわからぬような日々の倦怠。そんな雁にとって、「祟り」などという言葉は、どこか滑稽にすら響いた。
「壊してみるか」
それはほとんど衝動的な、あるいは無意識の呟きに近かった。深い考えも、明確な動機もない。ただ目の前にある古びた禁忌の象徴を、壊してみたらどうなるのだろう、という子供じみた好奇心か。あるいは、この淀んだ日常に、何か一つ波紋を投じてみたいという、無自覚な欲求だったのかもしれない。
雁はゆっくりと石段を登った。祠の扉は固く閉ざされている。それに手をかけず、祠の本体、脆くなっていそうな側面の壁に目をつけた。
「よっと」
気負いもなく、まるで道端の石ころを蹴るように、雁は祠の側面に足を振り上げた。ドン、と鈍い音が響く。古びた木材は思ったよりも簡単にへし折れ、大きな穴が空いた。さらに数回蹴りを叩き込むと、祠はみしりと嫌な音を立てて傾き、やがて轟音とともに崩れ落ちた。
木片と土埃が舞い上がる。その奥から、むわりと、さらに濃密な腐臭が溢れ出てきた。黒々とした、粘り気のある液体のようなものが、崩れた祠の底から滲み出ているのが見える。まるで大地の古傷から流れ出す膿血のようだ。
「うわ、カビ臭……いや、なんだこれ。ドブより酷いな」
雁は顔をしかめたが、それきりだった。恐怖も罪悪感も、達成感もない。目の前で起こった現象を事実として認識するのみだ。彼はしばらくその残骸を眺めていたが、やがて飽きたように踵(きびす)を返し、何事もなかったかのように森を後にした。
その夜、雁の古民家には、いつもより多くの灯りがともっていた。珍しく、彼の創作意欲が燃え盛っていたからである。
「……来た来た、魂が、ざわめいてる……」
祠を破壊した行為が、彼の内なる何かを刺激したのは間違いなかった。澱んでいた感性の泉が、堰を切ったように溢れ出す。酒を片手に、雁は一心不乱に筆を走らせた。墨痕(ぼっこん)鮮やかに、禍々しい言葉たちが和紙の上に踊る。
一首の歌が、完成した。
夕闇に 腹裂き乙女 腸引き 木の暗に舞う 赤き雫は
(ゆうやみに はらさきおとめ はらわたひき このくれにまう あかきしずくは)
「……ふぅ」
雁は筆を置くと、深く息を吐いた。歌を詠み終えた満足感と、心地よい疲労感が全身を包む。
「うん、悪くない。今日の歌はキレがある。これぞ、魂の胎動……」
彼は自作の歌を何度か詠み返し、そのおぞましい情景に酔いしれた。腹を裂かれ、自らの腸を引きずり出しながら、木の暗がりで狂ったように舞い踊る乙女の姿。その指先から飛び散る血の雫……。実に鮮烈で、グロテスクで、どこか悲哀に満ちた美しささえ感じられる。雁にとって、それは紛れもない「シン万葉」の世界だった。
外は、いつの間にか深い闇に包まれていた。虫の音がやけに大きく聞こえる。雁は新たな酒の徳利を傾け、満足げに独りごちた。
「さて、次はどんな魂の叫びを聴かせてくれるんだ、この世界は……」
*
翌日、禍福村に最初の異変が訪れた。
村の製糸工場で働く娘、杉浦佐知子(すぎうらさちこ)、十八歳。明るく素直な性格で、村でも評判の働き者だった彼女が、突如として狂気に囚われたのである。
朝、佐知子はいつも通り工場へ向かった。昼過ぎ、同僚たちが異変に気づく。佐知子は糸繰り機の前で虚空を見つめ、ぶつぶつと何かを呟いていた。その目は焦点が合わず、顔色は土気色だった。
「佐知子ちゃん、どうしたんだい?気分でも悪いのかい?」
心配した年配の工員が声をかけると、佐知子はゆっくりと顔を上げた。にたり、と気味の悪い笑みを浮かべたのだ。
「見て……見てよ、おばちゃん。私の、お腹の中……きれいな絹糸が、いっぱい……」
そう言うと、佐知子はおもむろに自分の腹部に手を当て、服の上からそれを掻きむしり始めた。
「こら、佐知子!何をするだ!」
周囲が慌てて止めようとするが、佐知子の力は異常に強く、男衆数人がかりで押さえつけなければならなかった。彼女は獣のような奇声を上げながら、なおも自分の腹を裂こうと暴れ続ける。
「腸(はらわた)が……踊ってるの! ああ、赤くて、きれいな、舞い……!」
その日の夕方、村の集会所に村長をはじめとする主だった者たちが集まっていた。佐知子の異変は瞬く間に村中に広まり、人々に不気味な動揺を与えている。
「……またか」
村長の田畑(たばた)が、苦虫を噛み潰したような顔で呟いた。最近、禍福村では原因不明の体調不良者や、精神に変調をきたす者がぽつぽつと出ていたのだ。いずれも、近代医学では説明のつかない症状ばかりである。
「佐知子さんは、昨晩まで何ともなかったと。ご家族もそう証言しておる」
「医者に見せても、ただのヒステリーだろうの一点張りで……。しかし、あの常軌を逸した様子は……」
集まった村人たちは、不安げに顔を見合わせる。誰もが、この村に何か良からぬものが忍び寄ってきているのを感じていた。
「まさか……鬼哭祠の……?」
誰かが恐る恐る口にした。その言葉に、集会所の空気は一層重くなる。あの祠は、村の禁忌の象徴。もし祠に何か異変があったとすれば……。
「馬鹿なことを言うな! 祠には誰も近づかんはずだ!」
田畑村長が一喝したが、その声にはいつものような力強さがなかった。
その頃、葦辺雁は自宅の縁側で、相変わらず酒を飲んでいた。佐知子の噂は彼の耳にも入ってきている。顔見知り程度の娘だったが、特に感慨はない。
「佐知子ちゃんねえ……まあ、あの娘も色々溜め込んでたんだろうな。若いのに、苦労してたみたいだし」
雁は佐知子の狂乱を、どこか他人事のように捉えていた。他人事というより、一つの「現象」として冷静に観察している、と言うべきだろう。人の精神が壊れていく様は、彼にとって不快なものではなく、一種の芸術的スペクタクルのように映るのだ。
「腹裂き乙女……か。奇遇だな」
昨夜詠んだ自分の歌を思い出し、雁は小さく鼻を鳴らした。むろん、自分の歌が佐知子の狂気に影響したなどとは微塵も思っていない。ただ偶然の一致が、彼の倒錯した美的感覚をくすぐるのみだ。
「それにしても……『腸が踊ってる』とは、なかなか詩的な表現じゃないか」
彼は空になった徳利を置き、新たな創作の予感に身を震わせた。村に漂う不穏な空気、人々の恐怖と混乱。それら全てが、彼のシン万葉の糧となる。
「よし……また一つ、詠んでみるか」
雁はやおら立ち上がると、再び書斎へと向かった。そこには、まだ真っ白な和紙と、研ぎ澄まされた筆が彼を待っている。世界の崩壊の兆しすら、彼にとってはインスピレーションの源泉に過ぎなかった。
*
数日が過ぎた。佐知子の症状は一向に改善せず、自宅の一室に閉じ込められたまま、時折、気味の悪い笑い声を響かせているという。村人たちの不安は募る一方だったが、具体的な対策は何一つ見つからないまま、時間だけがいたずらに過ぎていく。
そんな中、雁は二首目の歌を完成させていた。佐知子の件から着想を得たわけではない。むしろ、あの鬼哭祠を破壊した日の、粘つくような腐臭と、黒い液体のイメージが彼の脳裏に焼き付いて離れなかったのだ。
石舞台 血吸ふ赤土 その上に 踊る骸の 影長しけり
(いしぶたい ちすうあかどろ そのうえに おどるむくろの かげながしけり)
「……ふむ、今度のは少し趣が違うな。静謐(せいひつ)さの中に潜む狂気、とでも言うか」
雁は満足げに頷いた。かつて村に存在したという、今はもう使われなくなった古い石舞台。そこで血を吸った赤土の上で、骸が静かに、しかし永遠に踊り続けるという情景。それは彼が祠の残骸から感じ取った、名状しがたい「何か」の気配を的確に捉えているように思えた。
彼はその歌を、いつものように丁寧に和紙にしたため、自室の壁に貼り付けた。壁にはすでに何枚もの彼の「シン万葉集」が飾られており、異様な雰囲気を醸し出している。
その歌が詠まれてから、三日後のことだった。
村で農業を営む壮年の男、中村健一(なかむらけんいち)が、忽然と姿を消した。
健一はその日、村外れにある自分の畑へ農作業に出かけたきり、夜になっても帰ってこなかった。心配した家族や村人たちが手分けして捜索したが、彼の姿はどこにも見当たらない。畑の脇には、彼が使っていた鍬(くわ)と麦わら帽子が、持ち主がふと姿をくらましたかのように、ぽつんと残されているのみだった。
「健一さん、どこへ行ったんだ……」
「まさか、神隠しか……?」
村は再びパニックに陥った。佐知子の一件に加え、今度は壮健な男の不可解な失踪。立て続けに起こる異常事態に、村人たちの恐怖は限界に達しつつあった。
健一の捜索は数日にわたって続けられたが、手がかりは全く掴めなかった。警察も出動したものの、広大な山林を前にしては捜索も難航を極めた。
失踪から五日目の朝、衝撃的な報せが村を駆け巡った。健一の遺体が発見されたのだ。
場所は村の南端、鬱蒼とした森の中に忘れ去られたように存在する、古い石舞台の跡地。かつて村の祭祀(さいし)か何かに使われたと伝えられるが、今では訪れる者もほとんどいない、荒れ果てた場所である。
発見したのは、捜索隊に参加していた若い消防団員だった。彼は石舞台の中央に、まるで何かの儀式のように横たえられている健一の姿を見つけた。
健一の遺体は、見るも無残な状態だった。
全身の皮膚は蒼白を通り越して蝋のようになり、あたかも全ての血を抜き取られたかのようである。しかし身体に目立った外傷は見当たらない。その表情は、言いようのない恐怖と苦悶に歪んでいたという。
そして最も異様だったのは、遺体の周囲の土壌だった。石舞台の石畳の隙間や、その周りの地面が、不自然なまでに赤黒く染まっていたのだ。まるで大量の血が大地に吸い込まれたかのように。
「……なんということだ……」
現場に駆けつけた村長は、そのおぞましい光景を前にして絶句した。村人たちは恐怖に震え、中には嘔吐する者もいた。
この猟奇的な事件はすぐに警察の管轄となり、禍福村には多数の捜査員が派遣された。村は物々しい雰囲気に包まれ、かつての静けさはどこにもない。
しかし、葦辺雁だけは、この騒動をどこか遠い世界のできごとのように感じていた。
健一の遺体の状況を聞いた時も、彼の反応は薄かった。
「へえ、石舞台でねえ……。あそこ、最近誰も寄り付かなかったはずだが。物好きな奴もいたもんだ」
彼は酒をちびちびとやりながら、そんなことを呟く。健一とは面識こそあったが、特別親しいわけでもない。その死に対しても、同情や哀れみといった感情はほとんど湧いてこなかった。
むしろ彼の心は、別の種類の興奮に支配されつつあった。
「石舞台……血吸う赤土……踊る骸……」
自分の詠んだ歌のフレーズが、頭の中で反響する。無論、自分の歌が健一の死に関係しているなどとは、やはり考えていない。ただ世界が、自分の紡ぎ出す言葉の世界観に呼応するかのように、次々と不可解で、恐ろしく、そして美しい(と雁は感じる)現象を提示してくることに、彼は一種の陶酔感を覚えていたのだ。
「ああ、素晴らしい……この混沌、この絶望……これぞ、シン万葉が描くべき世界の真髄……!」
彼の目は爛々と輝き、頬は興奮で微かに紅潮していた。
窓の外ではパトカーのサイレンの音が遠くに聞こえる。村人たちの怒号や泣き声も、風に乗って時折運ばれてくる。それらさえも雁にとっては、壮大なオペラのBGMのようであった。
彼は立ち上がると、三度、書斎へと向かった。そこには、彼を待つ空白の和紙と、彼の魂の叫びを形にするための筆がある。
「さあ……次は、どんな魂の挽歌を詠もうか……」
雁は薄笑いを浮かべた。その顔は、神憑(かみがかり)的な創造の喜びに満ちている。彼がこれから紡ぎ出す歌が、この禍福村にさらなる恐怖と絶望をもたらすとは露ほども気付いていない。いや、あるいは気付いていながら、それをどこかで歓迎しているのかもしれなかった。
世界がどれほど崩壊しようとも、彼の歌は止まらない。シン万葉歌人、葦辺雁。彼の凶歌は、まだ萌え出でたばかりなのである。