瓦礫の山と化した禍福村が、地図からも記憶からも消え去って久しい。あるいは元よりそのような村など存在しなかったのかもしれない。葦辺雁という狂気の歌人と、彼が紡いだ凶歌の数々もまた、深淵の彼方に溶け、色も名もなき無音の音の内に還ったはずだった。少なくとも、そう思われていた。
だが、魂の残滓は、時に最もありふれた場所に、新たな宿主を見つけて萌芽する。
*
ここは東京か大阪か、はたまた名もなき地方都市か。どこにでもあり、どこでもない無個性なコンクリートジャングルの一角。雑多なネオンサインが夜空を汚し、排気ガスと安酒の匂いの混じる路地裏に、古びた雑居ビルが口を開けていた。その四階、一番奥の部屋に暮らす男は、自らを「虚舟(うつろぶね)」とネットの片隅で名乗り、葦辺雁とは異なる方向性ながら、本質において酷似した「シン・ネオ万葉」なるものを詠んでいた。
虚舟、本名不詳、年齢不詳。陽の光を病的に嫌い、厚手のカーテンで閉め切った部屋でデスクトップPCの前に座す時間が彼の人生のほぼ全てである。ぼさぼさに伸びた髪は油で光り、着古したスウェットは何日も着替えていない。痩身の背は不健康に丸まり、画面を凝視する瞳だけが、時折、人ならざる光を宿す。彼もまた猫好きでありながら、霊的な何かを察知されるのか、猫には徹底して避けられる運命にあった。ビルの裏口に現れる野良猫は、虚舟が窓から顔を出す気配を感じただけで、悲鳴じみた声を上げて逃げ去るのが常だった。
「……無粋な獣め」
虚舟は呟くが、声は虚空に溶ける。外界の出来事にも自身の肉体の維持にもほとんど関心がない。ただ頭の中に湧き上がる禍々しいイメージを言葉の形に定着させること――それだけが彼の存在理由であり、唯一の愉悦であった。
虚舟が詠む歌は、古典的な韻律を踏襲しつつも、内容は極めて現代的で退廃的、かつ病的だ。金属と血肉が混じり、精神がデータと融合し、虚構が現実を侵食する、歪んだ未来都市の黙示録。彼の脳内では「美しい景色」として処理されている。
「言霊ねえ……そんな大仰なものじゃないさ。デジタルのノイズから拾い集めた意味の破片。魂? 知ったことか。俺が欲しいのは、脳髄を直接シェイクするような、新しい悲鳴だけだ」
自身のブログに新作をアップロードする際、そんな嘯(うそぶ)きを添えるのが常だった。その虚無的な態度とは裏腹に、彼の歌は、それを目にしたごく一部の好事家たちの間で、じわじわと、しかし確実に、奇妙な感染力を持ち始めていた。
その日、虚舟は珍しく激しい焦燥感に駆られていた。創作のスランプなどではなく、むしろ脳内で新たな「作品」が産まれようとする前の、強烈な産みの苦しみだ。壁に貼られた大量のポストイットには、断片的な言葉、走り書きのイメージ図、意味不明な数式が無数に書き殴られている。
「……くる、くるぞ。何か、デカいのが……」
ディスプレイには、禍々しくも美しい万華鏡めいたフラクタル図形が明滅している。彼が「インスピレーション・ジェネレーター」と呼ぶ自作のプログラムだ。数時間、それと睨み合い、キーボードを叩き、呻き声を上げ続ける。やがて、新たな一首が産み落とされた。
白昼夢 マネキンどもが 肉を乞い
ショーウィンドウで 踊り狂えり 血の涙もて
(はくちゅうむ まねきんどもが ししをこい
しょううぃんどうで おどりくるえり ちのなみだもて)
「……ふ、ふふ……ハハハハハ!」
虚舟はエンターキーを叩きつけて歌を完成させると、乾いた高笑いを上げた。ディスプレイの背景画像――荒れ果てた古い祠の前に立つ、着流しの男の後ろ姿を写したモノクロ写真。虚舟自身はその写真の由来を知らず、興味もなかった――が、彼の笑い声に呼応するように一瞬ノイズを走らせた。
「これだ……これが今の気分。プラスチックの魂が、生身の肉体を欲しがり、狂ったカーニバルを始める……。素晴らしいじゃないか」
自作の歌を何度か音読し、そのグロテスクで虚無的な美しさに酔いしれる。白昼の雑踏、ショーウィンドウのマネキンたちが突如生命を得て、血の涙を流し肉を求め踊り狂う光景。誰にも気づかれず、あるいは気づいていても見て見ぬふりをされる、都市の悪夢。
その歌をすぐに自身のブログへアップロードした。タイトルは「今日のポエム☆彡」などとふざけていたが、下に続く歌は紛れもない呪詛の輝きを放っていた。
*
歌がネットの海に放たれて数日後、この名もなき都市で、最初の異様な事件が報告され始める。
最初は、ある繁華街のブティックで起こった。閉店後、深夜の警備システムが異常を検知。駆け付けた警備員が目にしたのは、ショーウィンドウの中で、嵐にでも遭ったかのように無惨に破壊され、四肢をもぎ取られ、不自然なポーズで折り重なるマネキンたちの姿。不可解なことに、それらのマネキンの顔には赤い塗料で涙の痕が描かれ、一部の表面は人間の皮膚のように生暖かく、僅かに弾力があったという。警察は悪質ないたずらと断定し捜査を開始したが、犯人の手がかりは一切見つからない。
この種の事件は、一つにとどまらなかった。
都市のあちこちのショーウィンドウで、マネキンが夜中に動き出すという都市伝説が囁かれ始める。「マネキンの目が追いかけてくる」「夜中にマネキンが服を着替えている」「マネキン同士が会話しているのを聞いた」など。
噂を裏付けるかのように、複数の店舗でマネキンが破損されたり、ありえないほどリアルな質感に変化したりする怪現象が続発する。ある店のマネキンは、翌朝になると全身に無数の縫い目のようなものが走り、ツギハギの死体さながらの有り様だった。別の店では、子供服売り場のマネキンたちが一様に口を大きく開け、何かを叫ぶような表情に変わっており、それを見た店員が精神に異常をきたした。
「またかよ……今月に入って、マネキンの損壊事件、これで五件目だぜ」
刑事たちが喫煙所でうんざりしたようにぼやく。どの事件も物証がなく、不可解な点ばかりであった。
「最近、街全体がおかしい。幻覚見てる奴とか、急に発狂する奴とか、やたら増えてるしな」
「あれだろ?『踊るサラリーマン病』。駅前でいきなり奇声をあげてコンテンポラリーダンス始めるやつ。動画サイトでバズってたな」
「笑い事じゃねえ。そのうち、こっちが踊り出す番かもな」
そう、マネキンの怪異だけではない。都市の人々の精神にも、目に見えない歪みが広がっていた。
地下鉄のホームで、乗客全員が突如顔を見合わせ、意味不明な合唱を始めたかと思えば、次の瞬間には何事もなかったかのように散っていく。オフィスビルでは、会議中に重役たちが一斉に四つん這いになり、犬のように吠え始めたとの報告もある。これらは一時的な集団ヒステリーと片付けられたが、頻度は日を追うごとに増す。彼らは何者かに操られる人形さながら、不可解で無意味な行動を繰り返す。中には虚舟の歌の一節を無意識に口ずさむ者もいたと聞く。
「白昼夢……肉を乞い……血の涙……」
そして、最悪の形で「排除」される者も現れ始めた。
ある朝、都心部の広場で一体の「作品」が発見された。それは、いくつかのマネキンのパーツと、明らかに人間のものと思われる肉片や内臓が、悪趣味な生け花のように組み合わされた巨大なオブジェ。中心には苦悶の表情を浮かべた若い女性の生首が据えられ、その目は乾いた血の涙を流す。被害者は数日前から行方不明だったファッションモデルの卵だ。警察は猟奇殺人事件として捜査本部を設置したが、動機も手口も常軌を逸し、捜査は難航を極める。この「作品」は、いつしか「アスファルトの花嫁」とマスコミで呼ばれ、センセーショナルに報道された。
*
虚舟は世間の騒ぎを遠い世界の出来事のように捉える。ニュースサイトのヘッドラインを眺めては、「ふうん、アスファルトの花嫁ねえ。悪くないが、俺のイメージとは違うな。もっとキネティックで爆発的な混沌が欲しい」などと独りごちる。部屋にテレビも新聞もなく、情報は全てネットから得るが、それも興味を引くごく一部に限られる。
彼の歌が事件を引き起こしているなど、思いもよらない。もし指摘されれば、「はあ? ただの言葉遊びにそんな力があるわけないだろう。頭がおかしいのでは」と一笑に付すはずだ。彼にとって現実は退屈で醜悪なもの、自らの歌の世界こそが唯一のリアル。外界の悲劇は、彼の歌の素晴らしさを際立たせる、どうでもよい背景効果に過ぎない。
むしろ、こうした都市の不協和音は、彼の創作意欲をさらに刺激するのだった。
「面白い。世界が、少しずつ壊れていく音。このノイズ……実に、官能的だ」
新たな凶歌の構想を練り始める。次はどんなおぞましい光景を言葉で描き出すか。アスファルトの下から触手が伸び、高層ビルを絞め殺すイメージか。人々の夢が実体化し、街を徘徊する悪夢のパレードか。彼の妄想は際限なく広がっていく。
彼の部屋の隅には、いつからそこにあったのか、本人も覚えていない古びた木箱が一つある。中には何冊かの和綴じの本。一冊を開けば、墨痕鮮やかな筆致で葦辺雁のものと酷似した凶歌がびっしりと記されている。だが虚舟は、それを気味の悪い古書としか認識せず、一度も読んだことがない。彼にとって過去の遺物など何の価値もない。「今、ここ」で産み出される、最新の魂の叫び(あるいはノイズ)だけが重要なのである。
再びディスプレイの前に座り、虚舟はキーボードに指を置く。その顔には、神が新たな天地創造を始める直前、あるいは悪魔が最終戦争のスイッチを押す寸前にも似た、静かで狂的な集中力が漲る。
「さて、と。次の凶星は、どこに落としてやろうか。この退屈な世界を、もう少しマシな悪夢に変えるために」
窓の外からパトカーのサイレンの音が遠近に響き、人々が何かに怯え逃げ惑う断片的な悲鳴も、風に乗って微かに届く。それら全てが、虚舟には壮大な交響曲の、次なる楽章を予感させる序曲に聞こえた。
彼のブログには数時間後、新たな歌がアップロードされるだろう。それはおそらく、さらに難解、不条理で、強烈な破壊のイメージを孕んだ凶歌。それがどんな怪異を呼ぶのか、何も呼ばないのか。次の展開は誰にも、虚舟自身にさえ気にならない。
ただ、世界はゆっくりと、しかし確実に、彼の言葉に侵食されていく。終着点が虚無か新たな混沌かなど、彼にとって大した違いはない。ただ詠み続けるだけだ、凶歌が彼の内で尽き果てるその日まで。
壁のポストイットの一枚に、震えるような筆跡で、こんな走り書きがあった。
「無は、まだ満ちていない」
虚舟は知る由もなかったが、彼が背にする壁、ディスプレイに映る例のモノクロ写真――禍福村の祠の前の着流しの男――その男の口元が、ほんの一瞬、満足げな笑みを形作ったように見えた。だがそれも、明滅する画面のノイズに紛れ、すぐに消える。
都市の狂騒はまだ始まったばかり。アスファルトに咲いた不気味な花嫁は、次なる生贄を静かに待ち望む。そして、それを生み出したかもしれない歌人は、全く無関心に次の詩を紡ぎ続ける。
世界は、今日も少しだけ、意味もなく壊れていく。