「バベルのオルガン」が奏でるノイズの聖歌は、その都市の終末を告げるファンファーレであった。数日後、塔は虹色の油に塗(まみ)れたまま内部から融解するように崩れ落ち、異形の聖歌隊もろとも巨大なオブジェへと変貌した。それは冒涜的な記念碑と化し、灰色の空の下にそびえ立ち、残された僅かな生存者たちに絶望という名の重力を振りまき続けていた。都市機能は完全に停止し、人も獣も寄り付かぬ、沈黙と異臭の支配する廃墟と成り果てた。アスファルトには亀裂が走り、そこから噴き出すのは汚水ではなく、言葉にならない呻きに似た気体。ビル群は打ち捨てられた巨大な墓石さながらに立ち尽くし、その窓という窓は虚ろな眼窩のごとく空を睨んでいた。この街では、太陽すらバグったディスプレイのように不規則に明滅し、影は本来あるべき方向とは無関係な場所に不定形に伸び縮みしていた。
虚舟の部屋だけが、まるで世界から切り離された孤島のように、変わらぬ日常(と彼が認識する状態)を維持している。デスクトップPCの青白い光が彼の顔を照らし、キーボードを叩く音だけが淀んだ空気に響く。食料の備蓄はとうに底をつき、水道も止まって久しいが、彼の肉体はあたかも霞でも喰って生きる仙人のように、そうした物理的な制約を超越し始めているかのようだった。痩せてはいたが、その眼光は以前にも増して鋭く、非人間的な光を湛えている。部屋の隅では、エナジードリンクの空き缶が意思を持ったように微かに振動し、インスタント麺の容器がひとりでに床を滑る。そういった細かな怪奇現象も、虚舟の注意を引くには至らない。
「……猫、いよいよ絶滅したか? 静かすぎて逆に落ち着かない。あの忌々しい悲鳴すら懐かしいとはな」
彼は乾いた喉で呟くものの、水を求めることもしない。もはや彼の関心は、外界の如何なる変化にも向けられていなかった。彼の内の「何か」が、彼を最後の創造へと駆り立てている。壁のポストイットには、これまでとは異質な、あたかも数学の公理か宇宙の法則を記述するかのような、冷たくも根源的な言葉の断片が増えていた。一枚、特に目立つ場所に貼られたものには、黒い太字で「虚無、受肉準備完了。システムシャットダウンプロトコル起動シーケンス確認」とだけ記されていた。その筆跡はもはや彼のものではなく、どこか機械的でさえある。
その日、虚舟の部屋で僅かな異変が起きた。いや、それは必然だったのかもしれない。床に無造作に積まれていたジャンクパーツの山が、意志を持ったかのように、はたまた彼の意識に呼応したのか、一斉に宙に浮き上がり、きりきりと回転を始めた。それらがぶつかり合い砕け散る中から、埃を被った古びた木箱がゆっくりと虚舟の手元へと移動してきた。それは虚舟がこの部屋に住み着いた時から既にそこにあったもので、彼は一度もその中身を確かめたことがなかった。さながら古井戸の底から最後の秘宝が差し出されるように、木箱は彼の前に静かにその身を横たえた。何かに導かれるように、ただの気まぐれか、虚舟は初めてその木箱に手を伸ばし、重い蓋を開けた。
中には、数冊の和綴じの本。虫食いの跡が痛々しいが、墨痕鮮やかな筆致で記された和歌がびっしりと並んでいた。その和紙は異様なまでに劣化しておらず、墨の色は昨日書かれたかのごとく鮮やかだった。
「……なんだこれ、骨董品か? こんなモンが家賃に含まれてたとはな。それとも、何かのイースターエッグか? この世界のクソ仕様の一つだな」
虚舟は最初、嘲るように鼻を鳴らした。古臭い言葉遊び、時代遅れの感傷。彼が最も軽蔑する類の遺物に違いなかった。しかし、一冊を手に取り何気なくページを捲るうち、彼の表情は徐々に変化していった。ページを捲るたび、和紙から微かな腐臭と、濃厚な「言霊」の圧力が放たれ、彼の神経を直接刺激した。
その歌は、葦辺雁が遺した「シン万葉集」であった。
「夕闇に 腹裂き乙女 腸引き……」「石舞台 血吸ふ赤土 その上に……」
虚舟は声に出して読み上げなかったが、その言葉一つ一つが、彼の脳髄に直接、強烈なイメージを叩きつけてきた。それは彼自身の歌と酷似した禍々しさを持ちながら、より土着的で、血生臭く、なおかつどこか神聖な響きさえあった。自分の魂の、忘れ去られた過去の記憶を呼び覚ますような、奇妙な既視感を覚える。
「……こいつ……まさか……」
彼の視線が、PCのディスプレイに映るモノクロ写真――禍福村の祠の前に立つ、着流しの男の後ろ姿――に釘付けになる。あの写真は、このPCにデフォルトでインストールされていた壁紙の一つで、虚舟はただ「なんとなく不気味でクールだから」という理由で設定していた。その由来など考えたこともない。まさか。そんな馬鹿な。単なる偶然の一致のはずだ。しかし、歌を読み進めるにつれてその疑念は確信へと変わった。雁の歌が紡ぎ出す光景と、自分の歌が生み出した光景が、時空を超えて奇妙に共振している。
「底暗き 古井の底に 長き髪……」「人肌に 蛆虫のごと 芽吹く眼は……」「魂片は 肉の檻より 解き放たれ……」
彼の指が震え始めた。これは、ただの歌ではない。呪詛だ。世界を歪め、破滅へと導く力を持った言霊そのもの。そしてその創造主は、今、目の前のディスプレイ越しに、彼を静かに見つめている(ように思われた)。写真の男が、ゆっくりとこちらを振り向こうとしているかのごとき錯覚さえ覚える。
ついに、虚舟は葦辺雁の最後の歌に辿り着く。そのページだけが、なぜか異様なまでに白く、墨の色は鮮烈で、あたかも血で書かれたかのようにも見えた。
うつろなる 神の眼窩に 星々の
最後のひかり 点りては消ゆ
虚空の深淵に 万象溶けゆき
色の名もなし ただ無音の音
満ちて満ち足りぬ
その歌を読み終えた瞬間、虚舟の全身を凄まじい戦慄が貫いた。それは恐怖ではなかった。共感、理解、あるいは啓示。彼がずっと追い求めてきた「虚無の完成形」が、ここにあった。雁という男は、半世紀以上も前に、彼が今まさに到達しようとしている地点に、既に辿り着いていたのだ。その虚無は、雁個人のものではなく、もっと普遍的な、世界そのものが希求する最終状態なのかもしれないと直感した。
「満ちて……満ち足りぬ……。なるほど、猫たちが怯えていたのは、この『歌』そのものだったわけか」
虚舟の口から、乾いた囁きが漏れた。猫たちが恐れていたのは、雁や彼が放つ、この「虚無の歌」の波動そのものであったのだ。生命に対する絶対的な否定、存在を根源から消し去ろうとする意志。それを本能で感じ取り、逃げ惑っていたのである。あの動物たちは、人間よりもずっと正直に、この世界の真理の一端に触れていたのかもしれない。
彼の頭の中のポストイットの言葉が、パズルのピースのように一つの意味を成した。「無は、まだ満ちていない」。雁の「虚無」はアナログ世界の終焉だった。しかし、このデジタルに汚染され、ノイズにまみれた世界には、新たな「虚無の歌」が必要なのだ。
「そうか……そういうことか……。雁は俺に『詠め』と言っているのか。あるいは、雁の魂が、この俺というフィルターを通して、最後の歌を欲しているだけなのか」
虚舟の目が、常軌を逸した光を放った。雁は後継者を求めていたのではない。彼の歌の残滓が、この世界で再び「歌」を求める魂と共鳴し、新たな凶歌を生み出させていただけなのである。その連鎖を終わらせ、完全なる「無」をもたらす役割が、今、自分に与えられた。それは呪いであり、同時に至高の祝福でもあった。
虚舟はゆっくりと立ち上がり、デスクトップPCの前に座す。その背筋は奇妙に伸び、もはや猫背ではない。彼の顔は虚舟個人のものではなく、より普遍的で非人間的な、神官か執行者のような相貌を帯びていた。キーボードに触れる指先は、あたかもピアノを奏でるように繊細かつ力強い。
「葦辺雁……あんたの鎮魂歌(レクイエム)は、俺が終わらせてやる。このデジタルなゴミ溜めごと、完璧な虚無に還してやるよ。あんたの歌がアナログ盤の最後のトラックなら、俺のは削除できないブートセクタの最終コマンドだ」
ディスプレイに映る雁の写真は、ほんの一瞬、満足げに頷いたように見えた。その表情は虚舟のものと瓜二つで、年齢も性別も超えた、歌を詠む者特有の恍惚と虚無が入り混じっていた。
虚舟の指が、最後の凶歌を紡ぎ出すために、キーボードの上を走り始めた。それは都市の風景でも人間の狂気でもない。存在そのものの根源的なバグ、宇宙のソースコードに潜む最終的なエラーを描き出すような、冷徹で絶対的な歌。その歌は、韻律も字数も無視し、もはや「詩」ですらない。純粋なコマンドの羅列、創造主が宇宙をデリートするために打ち込むパスワードのようなものであった。
零と壱 世界の織り目 解(ほど)けゆき
魂の残響(エコー) 虚数空間に 霧散して
色即是空と CPU囁き
無何有(むかう)の郷に データ還りぬ
バグこそ聖なり Error 404: Soul Not Found
//Terminate_World.exe -force -norecovery
「……出来た。最終デプロイ完了」
虚舟は呟き、エンターキーを静かに、しかし断固として押した。歌はネットにはアップロードされない。その必要はないのだ。彼自身が、彼の歌そのものが、この世界への最終アクセス権を持つ発信源となったのである。
歌が完成した瞬間、世界は即座に、決定的に変容を開始した。
*
最初に消えたのは、意味だった。
都市に残されていた文字――看板、落書き、新聞紙の切れ端――それら全てが一斉にランダムな記号の羅列に変わり、やがてノイズの明滅となって消えていく。言葉の意味が失われ、概念そのものが溶解していった。音声データはランダムなホワイトノイズへと変換され、音楽は調性のない金属音の断片と化した。
虚舟の部屋のポストイットの文字も、次々と白紙に戻っていく。彼の凶歌のバックボーンとなっていた妄想の残骸が、跡形もなく消え去った。あたかもディスクフォーマットが行われるように、記憶が消去されていった。
次いで、物理法則が書き換えられた。
「バベルのオルガン」の残骸は、巨大な3Dオブジェクトがエラーを起こしたようにポリゴンが乱れ、テクスチャが剥がれ落ち、やがて巨大なエラーコードの文字列「Exception Code: 0xC0000005 - Access Violation」へと変貌し、空間に溶けて消えた。空は原色のグリッド線が走るデバッグ画面のようになり、地面は計算の合わなくなった座標軸のように不安定に揺らぐ。
雁の世界がアナログ的に溶解したのとは異なり、虚舟の世界はデジタル的に崩壊していく。全てがピクセル化し、グリッチノイズを発し、データの断片となって四散する。空からは「404 Not Found」と書かれた雨が降り注ぎ、大地には「NullPointerException」という名の亀裂が走った。
虚舟の身体も、例外ではなかった。
彼の指先から、ドット抜けのように肌の質感が失われ、半透明のピクセルの集合体へと変わっていった。痛みも感覚もない。ただ、自分が世界というプログラムからアンインストールされていくような、奇妙な解放感だけがあった。彼の肉体は、メモリ上の不要なデータとしてクリアされていく。
「色即是空、とCPU囁き……か。面白いじゃないか。俺の作ったCPUが、そんな哲学的結論を出すとはな。まあ、結局はそれもプログラムされた言葉に過ぎないが」
彼の声もボコーダーを通したような無機質な響きに変わり、やがて音のデータそのものが失われた。彼の思考は、ログファイルに記録されるイベントのように、次々と揮発していく。
彼の目の前、ディスプレイに映っていた雁の写真は、ゆっくりと虚舟の方を振り向き、穏やかな笑みを浮かべた。その姿も細かいピクセルの粒子となり、虚舟の消えゆく身体と混じり合っていくかのようであった。過去の凶歌の創造主と現代の凶歌の破壊主が、虚無への回帰の中で一つになる。さながら二つの異なるOSが、互いのカーネルを認識し合い、最後のマージ処理を行っているかのよう。
「アスファルトの花嫁」の残骸が、マネキンのパーツがノイズに掻き消えながら、「これでやっと、本当に誰も見ていないところで踊れる。観客のいない舞台、それが最高のステージよ」と呟いた気がした。「ノイズの聖歌隊」だった者たちの魂の残響(エコー)が、「ようやく本当の静寂が来た。このメロディのない沈黙こそ、我々が求めていたハーモニーだ」と囁いたように感じた。
彼らも、虚舟の最後の歌によって、存在のバグから解放され、純粋なデータストリームへと還元されたのかもしれない。
「無何有の郷に、データ還りぬ……。システムシャットダウン、正常に実行中……」
虚舟は、もはや人間としての形を留めていない、ただの意識の光点となりながら、最後の言葉を紡いだ。彼の自我は拡散し、情報の大海へと溶け込んでいく。
「バグこそ……聖なり……。だって、バグのない完全なプログラムなんて、最初から存在しなかったんだからな……この世界も、俺も……」
猫の恐怖、雁の凶歌集、モノクロ写真の男、虚舟の奇妙なポストイットの言葉。それらは全て、この「零と壱の鎮魂歌」を生み出すための、壮大な前振りに過ぎなかった。凶歌とは、世界のOSに仕込まれたトロイの木馬であり、自己破壊プログラムのトリガーだったのである。
「虚無は歌を欲しがっていた」。今、究極の歌によって、虚無はその完全な姿を現した。
虚舟が完全に消え去った後、彼の部屋も、彼が住んでいたビルも、都市の残骸も、世界そのものも、静かに「無」へと収束していった。それは雁の世界が消えた時の「色の名もなき色、無音の音」ですらなく、プログラムが終了し電源が落とされた後のような、絶対的な無、データの存在しない空虚。宇宙というハードディスクが完全にフォーマットされ、OSすら存在しない状態。
後に残されたのは、もし記録という概念が存在し得たなら、どこかのサーバーの片隅に、保護されたテキストファイルとして虚舟の最後の歌――"//Terminate_World.exe -force -norecovery"――だけが孤立して存在する、ということかもしれない。それは次なる世界、または次なる「バグ」を待つ、静かで冷たい種子のように。しかし、そのファイルを開くOSも、読み取るアプリケーションも、もはやどこにも存在しない。
それもまた、人間的な想像の範疇でしかない。
今ここに在るのは、ただ、無。
意味もなく、理由もなく、そして恐ろしくもなく、ただ満ち足りた、虚無。
零。システムオフ。信号途絶。