来訪と警告
カーナビの画面に表示された道は、もう数分前から点線に変わっていた。
舗装が途切れた山道を、阿川真司の軽自動車は軋みながら進んでいく。
「マジかよ……本当にこんな場所に村なんてあるのか?」
エアコンの風が、まだどこか土臭いのは、外気導入モードを切り忘れていたせいだ。
車内に広がる土と苔と杉の香りが、都会育ちの真司には妙に非日常的だった。
大学三年、民俗学専攻。
卒論のテーマは「現代に残る口伝と禁忌」。
地道に調べて見つけた“消えた伝承”を追い、資料の一文だけに載っていたこの村まで足を運んだのだ。
だが、たどり着いた村は思いのほか静かで、拍子抜けするほど古びていた。
小さなバス停、郵便局の古びた赤いポスト、あとは民家が十数軒、山の斜面に張り付くように並ぶだけ。
車を村外れの空き地に停めて、カメラとノートを肩にかける。
スマホは一応持ってきたが、さっきからアンテナは一本きりだ。
(これ、もし遭難しても絶対助け来ないやつだな……)
少しばかりの不安を胸に、村の中心部に歩いていく。
と、早速、一人の中年女性が畑の前で腰を伸ばしているのが目に入った。
「すみません、このあたりの昔話や伝承について、何かご存じありませんか?」
丁寧に頭を下げて尋ねると、女性はぴくりと肩をすくめ、顔をそむけてしまう。
「伝承? さぁ……昔のことは知らないよ。あたしも若いころからここに住んでるけど……今は何もない村だよ」
それだけ言うと、もう一度鍬を手に取り、無理やり話を切り上げる。
(うーん、思ったより協力的じゃないな……)
気を取り直して、道を進む。
今度は、庭先で日向ぼっこしていた老人を見つけ、声をかけてみる。
「あの、こんにちは。大学で民俗学を専攻している者です。村の古い伝承や祭りについて、少しお話を聞かせてもらえませんか?」
老人は、縁側で渋茶をすする手を止めてこちらを見た。
しわの深い顔が、微かに険しくなる。
「昔話なんぞ、もう誰も覚えちゃいねぇよ。今は皆、日々の暮らしで精一杯だ」
「そうですか……村の資料にも、何か封じられた伝承があると書いてあったので、つい興味を持って……」
「そういうもんは、な――い!」
老人は、言葉を強調するように手を振ると、急に黙り込んだ。
他にも数人、村人を見かけるたびに声をかけたが、返ってくるのは「知らない」「もう何も残っていない」といった言葉ばかり。
まるで誰かに口止めされているかのように、誰も古い話を語りたがらない。
(……妙だな。これじゃ肝心の調査が進まない)
日も傾きかけ、村の端まで歩いてきたとき――
かすかに歌声が聞こえてきた。
「さっちゃんはね 線路で足を なくしたよ……」
振り返ると、小学生くらいの子供たち三人が、古びた祠の前で石蹴り遊びをしながら、どこか不気味な節回しで童謡を口ずさんでいた。
(え、今どき「さっちゃん」?)
都会じゃもう誰も歌わないだろうし、ネットの都市伝説ネタで知っているだけのはず。
しかし、この村ではごく普通の童歌として残っているのかもしれない。
真司は子供たちに近づき、できるだけ優しい声で話しかける。
「ねえ、君たち。この祠は何が祀られてるの? ここって昔からあった?」
その瞬間、三人の顔色がさっと青ざめる。
一人が「やば……」と呟いたかと思うと、蜘蛛の子を散らすように逃げ出してしまった。
「えっ、ちょ……なんでそんなに怯えるの?」
ぽつんと残された真司は、見上げるような大きなしめ縄が張られた祠を見つめる。
(……さすがに不気味だな。やっぱり何かあるのか?)
何も語らぬ村人たち、祠に近づくと怯えて逃げる子供たち――
この村には、まだ「何か」が残っている。
気がつくと、畑で作業していた老人が、じっと真司を見ていた。
「お若い人……その祠には絶対に近づいちゃいけねぇよ」
「え、どうしてですか?」
「呪われるんだ。村の誰も、あそこに入っちゃいけねぇってのが決まりなんだ。昔からな」
老人は本気の顔で言う。
「でも、誰かが祠を管理してるみたいですね。しめ縄も新しいし、ろうそくの跡も……」
「誰がやってるかなんて、考えちゃいけねぇんだよ。いいか、絶対にだ。絶対に――」
老人は、どこか芝居じみた口調で言葉を繰り返した。
「……あの、ダチョウ倶楽部って知ってます?」
「ん? お笑い芸人だろ?」
「……いえ、なんでもないです」
この異様な念押しに、逆に“入れ”と言われているような気がして、真司は内心苦笑いするしかなかった。
(……しかし、あの祠には、間違いなく何かある。調査の価値は、十分すぎるほどだ)
日が傾き、村の静けさがますます濃くなっていく。
真司は、夕焼けの中で決意する。
「禁忌」に足を踏み入れる覚悟を――。
ご指摘ありがとうございます。それでは、**第一章「封じられた村の禁忌」下編(禁忌への一歩)**として、祠に入る決意から、禁忌の木祠に触れ怪異が始まる瞬間まで――第2章以降の要素(脱出劇や老婆の追跡など)は入れず、あくまで「村の封印を破る一歩」までのラノベ小説として2000文字以上で書き直します。
「禁忌への一歩」
夕暮れ、村の端。
真司はひとり、人気のない山道を歩いていた。昼間に見つけた、あの祠の前に、また立っている。
目の前に鎮座する古びた祠。入口には新しめのしめ縄がぴんと張られている。
そのしめ縄を前に、昼間の村人たちの“絶対入るな”の声が何度も頭をよぎった。
――本当に、やめておくべきなのか?
民俗学を志す身として、タブーや禁忌は、どうしても確かめたくなってしまう。
しかも、この村の異様な雰囲気。伝承を守るためか、それとも“本当に何かある”のか――。
悩みながらも、祠のしめ縄を指でつまみ、静かにまたいで中へ入る。
小さな罪悪感を抱えながらも、心のどこかが高揚していた。
内部は思ったよりも広く、洞窟のように奥へ奥へと続いている。
地面はしっとりと湿り気があり、足元の石を踏むたび、かすかな音が響いた。
壁際には間隔をあけて蝋燭が立てられている。
その多くはすでに溶けかけているが、一部は比較的新しい。黒く煤けているが、ついさっき誰かが灯したようにも思える。
――伝承なんて無い、と言ったくせに。
やっぱり、誰かが何かを守ってるんだ。
蝋燭の灯りが作る陰影は、どこか現実離れしている。
真司は、自分の呼吸だけが洞窟の中で異物のように響くことに気づいた。
進むたび、奥の闇が濃くなっていく。
胸の奥がざわざわする。不安と期待と恐怖がごちゃ混ぜになったような、妙な感覚だった。
やがて、最奥に小さな木の祠があった。
祠は湿気と年月で苔むしているが、どこか“最近触られた”ような気配もあった。新しい手跡のような痕、そこだけ埃が拭われている。
「……これが、この村の本当のタブー……?」
思わず呟く。
引き寄せられるように、祠の表面に指を伸ばす。
そっと、祠の側面に触れた。
木は驚くほどもろく、わずかな力でボロリと崩れた。
その瞬間、周囲の空気がぴたりと止まったように感じる。
――パチ、パチ……
蝋燭の芯が小さくはぜる音が、やけに耳についた。
次の瞬間――
「契りを結ぼうぞ……」
誰もいないはずの洞窟に、低く湿った女の声が響いた。
「……え?」
背筋が氷のように冷たくなる。
自分の幻聴か? だが、声は確かにすぐ近くで聞こえた。
「だ、誰かいるのか?」
そう呼びかけても、返事はない。
しかし、洞窟の奥から、いや、祠の隙間から、何かがこちらをじっと見ている気配――。
息を呑んだその時、
今度は“くつくつ”と女の笑い声が聞こえた。
さっきまで無音だった洞窟に、ゆっくりと響き渡る、湿った笑い声。
しかも、それが一つではない。祠の奥、洞窟の壁、真司のすぐ背後――さまざまな場所から、何重にも重なっているように錯覚する。
さっきまでの理屈や好奇心は、一瞬で吹き飛んだ。
「や、やば……!」
後ずさる足が石にひっかかる。
もう一度、蝋燭の灯りで周囲を見回す。誰もいない。
けれど、女の笑い声は止まない。
それどころか、だんだん大きく、愉快そうに変わっていく。
(これは、本当にやばい――!)
真司は全身の筋肉を総動員して、祠の前から逃げ出す。
蝋燭の列を駆け抜け、洞窟の天井に自分の息が反響する。
出口が遠い。
自分が走る音、心臓の音、背後で笑う女の声――全てが渦を巻く。
蝋燭の影に怯えながら、ただひたすら走る。
ようやく外の夕闇が見えたとき、真司は汗と恐怖で、膝が震えていた。
背後では、まだくぐもった声が洞窟の奥から響いていた。
祠の木片を手に、必死で自分を落ち着かせようとする。
「……大丈夫、大丈夫……」
でも、どこかで、
“本当に戻ってはいけないもの”を解き放ってしまったのでは――
そんな直感が、真司の胸をしめつけていた。
夜の山村に、静かに、しかし確実に“なにか”が目を覚ました。
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