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第2話 祟りの追走劇

(脱出)




 山の夜道を、阿川真司は必死で駆けていた。

 洞窟の奥で遭遇した異様な現象――あの「契りを結ぼうぞ……」という不気味な声と、得体の知れない白い影が、今なお彼の背後にまとわりついて離れない。




 (まさか、本当に祟り……?)




 頭の奥で何度も否定しようとするが、理屈はもう役に立たない。ただただ本能のまま、出口に向かって走ることしかできなかった。




 洞窟の天井は意外なほど高く、ところどころに蝋燭の明かりが点々と灯っている。その灯りが、真司の背を追う白い影を、より一層ぼんやりと、そして異様に浮かび上がらせていた。




 「くっ……!」




 石がごろごろした地面を足を取られそうになりながらも、真司は洞窟の出口を目指した。背後からは、女とも老婆ともつかない“何か”の笑い声が――それも、生身の人間のものとは思えない湿った、粘りつくような声が、じわじわと迫ってくる。




 自分が出入り口に向かっているのかも定かではない。光を頼りに、ただ無我夢中で足を動かす。闇の奥から這い出す影の気配が、背中に鋭く食い込んでくる。




 やっとのことで洞窟の入り口が見えたとき、真司の肺は限界まで酸素を求めていた。息を切らし、明かりに向かって最後の力を振り絞る。




 「――!」




 背中で、確かに誰かの足音、いや、何かを引きずるような、じりじりと這いずる音が響く。

 出口に飛び出すと、ひんやりとした夜気が肌にまとわりついた。だが、心の底に染みついた恐怖は、山の冷たさをも凌駕していた。




 駐車場に向かう道は、昼間歩いたときよりも遥かに長く感じられる。

 「やばい、やばいやばい……!」

 声にならない呻きが喉から漏れる。




 足元を照らすのはスマホの薄暗いライトだけ。背後では、白いもの――最初は人の形をしていたはずなのに、今ではその輪郭すら曖昧になり、まるで夜霧そのものが真司を追いかけてくるかのようだ。




 駐車場に停めた自分の車が、暗がりの中にぼんやりと浮かぶ。




 「お願い、動いてくれよ……!」




 ポケットから鍵を取り出し、指が震えすぎてロック解除ボタンを何度も押し間違える。ようやくガチャリとロックが外れた音を聞き、息を呑んで運転席に飛び込んだ。




 ドアをバンと閉めて鍵を掛け、呼吸を整える暇もなく、すぐにキーを回す。




 ――キュルル、キュルル。




 「嘘だろ、こんな時に……!」




 エンジンがかからない。

 車内の静寂に、自分の心臓の音だけが響く。




 そのとき、フロントガラス越しに、暗闇の中から白いものがゆっくりと車に近づいてくるのが見えた。

 人間の動きではない。じりじり、じりじりと這うように、あるいは溶けるように闇からにじり出てくる。




 (……やめろ、来るな……!)




 もう一度、震える手でキーを回す。

 「頼む、動いてくれ!」

 キュルル、キュルル、キュルル……

 エンジンがむなしく唸る。




 外では、白い影が車のフロントまで這い寄り、その手のようなものがボンネットに触れようとしていた。




 真司は思わず目を閉じた。

 耳の奥で、「くつくつ」と湿った笑い声が響く。

 しかし――




 ――ブォン!




 突然、エンジンがかかった。




 「よっしゃ!」




 すぐさまギアをドライブに入れ、アクセルを思い切り踏み込む。

 タイヤが砂利を巻き上げ、車は夜の山道を勢いよく飛び出した。




 バックミラーを覗く。

 そこには――なんと、白い老婆のようなものが、四つん這いで車を追いかけてきている!




 時速はメーターで60キロ。だが、老婆は不気味な速さでこちらに迫ってくる。

 目を離したくても離せない。ヘッドライトの範囲から外れるたびに、どこかにワープしたように、ふたたび姿を現す。




 「嘘だろ、ありえない……!」




 真司は必死でハンドルを握り、ひたすら村の出口を目指した。

 車内には汗と息遣い、そして“何かが来る”という異常な緊張感だけが渦巻く。




 ようやく村境の標識が視界に入る。

 その瞬間、ミラーに映った老婆の姿がふっと消えた。




 全身の力が抜け、真司はシートにもたれかかる。

 冷たい汗が首筋を伝った。




 村を抜け出したという安堵は、ほんの束の間だった――

 だが、真司はその後にさらなる恐怖が待ち受けていることを、まだ知る由もなかった。





もちろんです。「バックミラー」をすべて「ルームミラー」に修正した上で、2000文字以上のラノベ小説形式で書き直します。


(村の境界線)




「……ふぅ、やっと……」




ハンドルに額を押しつけ、阿川真司は全身の力が抜けるのを感じていた。村境を越えた途端、あの不気味な老婆が忽然と姿を消した。その現実に、心から安堵した――はずだった。




だが、胸のざわつきは消えなかった。車内には山の湿った空気がじっとりとまとわりつき、妙な静けさが満ちている。




(今のは……夢じゃなかった。現実だった)




指先がまだ震えている。

信じられない。あの異様な光景、四つん這いで時速60キロの車を追いかける老婆。普通なら笑い話だが、今はただただ恐ろしかった。




「もう、こりごりだ……」




真司はルームミラーにそっと視線をやる。もう何も映っていない。ただ、汗ばんだ自分の顔がぼんやり映るだけだ。




(もう大丈夫……だよな?)




安堵の吐息を漏らしながら、真司は車をゆっくりと山道に戻す。夜明け前の闇の中、街灯一つない道をヘッドライトの明かりだけが切り開いていく。




――だが、不意に、ルームミラー越しに背中にひやりとした気配を感じた。




(ん……?)




なぜか、後部座席から視線を感じる。

気のせいかと思い、もう一度ミラーを見つめる――




そこで真司は凍りついた。




ルームミラーの中、後部座席に“女”が座っているのがはっきりと見えた。

白い着物。長い黒髪。首をうなだれているため顔は見えないが、その存在感は圧倒的だった。




「……な、なんで……?」




真司は慌てて後ろを振り向く。だが、シートには誰もいない。

息を呑み、そっと前を向き直り――

再びルームミラーを見る。

そこにはやはり女がいる。




女は、静かに顔を上げ始めた。

白い頬、暗い瞳。ゆっくりと唇の端を吊り上げ、微笑む。




「契りを……結ぼうぞ……」




かすれた女の声が、耳の奥に響く。

身体が氷のように硬直し、呼吸すら浅くなる。




「やめろ……やめてくれ……!」




声にならない声を漏らしながら、真司はルームミラーを両手で覆いたくなる衝動を必死に抑えた。




だが、女はじっと真司の目を見据え、さらに声を重ねる。




「逃げても……無駄だよ……」




真司の頭の中に、その囁きがじわりと染み渡ってくる。

気がつけば、アクセルを踏む足がガタガタ震えていた。




(だめだ、ここで止まったら……)




だが恐怖が勝り、思わず車を急停車させる。

キキィッ――とタイヤが悲鳴を上げ、反動で背中のシートにゴンッと何かが当たる。




「……っ!」




呼吸が止まる。恐る恐る後部座席に振り返る――

やはり誰もいない。




だが、ルームミラーにはまだ女が映っている。

しかも、その顔は確実にこちらに近づいてきているような錯覚すら覚える。




「いやだ、もうやめてくれ……」




必死に目をぎゅっと閉じて祈るように震える。




その時、突然、轟音のような雷鳴があたり一帯に響き渡った。




ビクッとして目を開けると、女の姿はルームミラーからも消えていた。

ただ、鼓動の高鳴りと、脂汗が首筋を伝って流れている。




「……助かったのか?」




シートに背を預け、息を整える真司。

車の外は、少しずつ白み始めている。




再び車を走らせる。ようやく、現実に戻った気がしてきた。

村は、もう遠い――はずだった。




だが、その頃――




村の境界に数人の村人たちが集まり、静かな空を見上げていた。




「かえったな。よそ者が帰った」


「出ていった、よそ者に付いて出ていった」


「バンザーイ。これで村も安泰じゃ」




安堵の声があがったその瞬間、全員の耳元に、女の声が低く囁いた。




「なにが……そんなにうれしい……?」




その声を聞いた村人たちは、顔を青ざめさせ、膝から崩れ落ちた。




「なんまたまぶ、なんまんだぶ……」




手を合わせ、念仏のように繰り返す。




だが誰も、まだ気づいていなかった。

“祟り”は、村から消えたのではない。――外へと、連れ出されていっただけなのだということを。



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