(脱出)
山の夜道を、阿川真司は必死で駆けていた。
洞窟の奥で遭遇した異様な現象――あの「契りを結ぼうぞ……」という不気味な声と、得体の知れない白い影が、今なお彼の背後にまとわりついて離れない。
(まさか、本当に祟り……?)
頭の奥で何度も否定しようとするが、理屈はもう役に立たない。ただただ本能のまま、出口に向かって走ることしかできなかった。
洞窟の天井は意外なほど高く、ところどころに蝋燭の明かりが点々と灯っている。その灯りが、真司の背を追う白い影を、より一層ぼんやりと、そして異様に浮かび上がらせていた。
「くっ……!」
石がごろごろした地面を足を取られそうになりながらも、真司は洞窟の出口を目指した。背後からは、女とも老婆ともつかない“何か”の笑い声が――それも、生身の人間のものとは思えない湿った、粘りつくような声が、じわじわと迫ってくる。
自分が出入り口に向かっているのかも定かではない。光を頼りに、ただ無我夢中で足を動かす。闇の奥から這い出す影の気配が、背中に鋭く食い込んでくる。
やっとのことで洞窟の入り口が見えたとき、真司の肺は限界まで酸素を求めていた。息を切らし、明かりに向かって最後の力を振り絞る。
「――!」
背中で、確かに誰かの足音、いや、何かを引きずるような、じりじりと這いずる音が響く。
出口に飛び出すと、ひんやりとした夜気が肌にまとわりついた。だが、心の底に染みついた恐怖は、山の冷たさをも凌駕していた。
駐車場に向かう道は、昼間歩いたときよりも遥かに長く感じられる。
「やばい、やばいやばい……!」
声にならない呻きが喉から漏れる。
足元を照らすのはスマホの薄暗いライトだけ。背後では、白いもの――最初は人の形をしていたはずなのに、今ではその輪郭すら曖昧になり、まるで夜霧そのものが真司を追いかけてくるかのようだ。
駐車場に停めた自分の車が、暗がりの中にぼんやりと浮かぶ。
「お願い、動いてくれよ……!」
ポケットから鍵を取り出し、指が震えすぎてロック解除ボタンを何度も押し間違える。ようやくガチャリとロックが外れた音を聞き、息を呑んで運転席に飛び込んだ。
ドアをバンと閉めて鍵を掛け、呼吸を整える暇もなく、すぐにキーを回す。
――キュルル、キュルル。
「嘘だろ、こんな時に……!」
エンジンがかからない。
車内の静寂に、自分の心臓の音だけが響く。
そのとき、フロントガラス越しに、暗闇の中から白いものがゆっくりと車に近づいてくるのが見えた。
人間の動きではない。じりじり、じりじりと這うように、あるいは溶けるように闇からにじり出てくる。
(……やめろ、来るな……!)
もう一度、震える手でキーを回す。
「頼む、動いてくれ!」
キュルル、キュルル、キュルル……
エンジンがむなしく唸る。
外では、白い影が車のフロントまで這い寄り、その手のようなものがボンネットに触れようとしていた。
真司は思わず目を閉じた。
耳の奥で、「くつくつ」と湿った笑い声が響く。
しかし――
――ブォン!
突然、エンジンがかかった。
「よっしゃ!」
すぐさまギアをドライブに入れ、アクセルを思い切り踏み込む。
タイヤが砂利を巻き上げ、車は夜の山道を勢いよく飛び出した。
バックミラーを覗く。
そこには――なんと、白い老婆のようなものが、四つん這いで車を追いかけてきている!
時速はメーターで60キロ。だが、老婆は不気味な速さでこちらに迫ってくる。
目を離したくても離せない。ヘッドライトの範囲から外れるたびに、どこかにワープしたように、ふたたび姿を現す。
「嘘だろ、ありえない……!」
真司は必死でハンドルを握り、ひたすら村の出口を目指した。
車内には汗と息遣い、そして“何かが来る”という異常な緊張感だけが渦巻く。
ようやく村境の標識が視界に入る。
その瞬間、ミラーに映った老婆の姿がふっと消えた。
全身の力が抜け、真司はシートにもたれかかる。
冷たい汗が首筋を伝った。
村を抜け出したという安堵は、ほんの束の間だった――
だが、真司はその後にさらなる恐怖が待ち受けていることを、まだ知る由もなかった。
もちろんです。「バックミラー」をすべて「ルームミラー」に修正した上で、2000文字以上のラノベ小説形式で書き直します。
(村の境界線)
「……ふぅ、やっと……」
ハンドルに額を押しつけ、阿川真司は全身の力が抜けるのを感じていた。村境を越えた途端、あの不気味な老婆が忽然と姿を消した。その現実に、心から安堵した――はずだった。
だが、胸のざわつきは消えなかった。車内には山の湿った空気がじっとりとまとわりつき、妙な静けさが満ちている。
(今のは……夢じゃなかった。現実だった)
指先がまだ震えている。
信じられない。あの異様な光景、四つん這いで時速60キロの車を追いかける老婆。普通なら笑い話だが、今はただただ恐ろしかった。
「もう、こりごりだ……」
真司はルームミラーにそっと視線をやる。もう何も映っていない。ただ、汗ばんだ自分の顔がぼんやり映るだけだ。
(もう大丈夫……だよな?)
安堵の吐息を漏らしながら、真司は車をゆっくりと山道に戻す。夜明け前の闇の中、街灯一つない道をヘッドライトの明かりだけが切り開いていく。
――だが、不意に、ルームミラー越しに背中にひやりとした気配を感じた。
(ん……?)
なぜか、後部座席から視線を感じる。
気のせいかと思い、もう一度ミラーを見つめる――
そこで真司は凍りついた。
ルームミラーの中、後部座席に“女”が座っているのがはっきりと見えた。
白い着物。長い黒髪。首をうなだれているため顔は見えないが、その存在感は圧倒的だった。
「……な、なんで……?」
真司は慌てて後ろを振り向く。だが、シートには誰もいない。
息を呑み、そっと前を向き直り――
再びルームミラーを見る。
そこにはやはり女がいる。
女は、静かに顔を上げ始めた。
白い頬、暗い瞳。ゆっくりと唇の端を吊り上げ、微笑む。
「契りを……結ぼうぞ……」
かすれた女の声が、耳の奥に響く。
身体が氷のように硬直し、呼吸すら浅くなる。
「やめろ……やめてくれ……!」
声にならない声を漏らしながら、真司はルームミラーを両手で覆いたくなる衝動を必死に抑えた。
だが、女はじっと真司の目を見据え、さらに声を重ねる。
「逃げても……無駄だよ……」
真司の頭の中に、その囁きがじわりと染み渡ってくる。
気がつけば、アクセルを踏む足がガタガタ震えていた。
(だめだ、ここで止まったら……)
だが恐怖が勝り、思わず車を急停車させる。
キキィッ――とタイヤが悲鳴を上げ、反動で背中のシートにゴンッと何かが当たる。
「……っ!」
呼吸が止まる。恐る恐る後部座席に振り返る――
やはり誰もいない。
だが、ルームミラーにはまだ女が映っている。
しかも、その顔は確実にこちらに近づいてきているような錯覚すら覚える。
「いやだ、もうやめてくれ……」
必死に目をぎゅっと閉じて祈るように震える。
その時、突然、轟音のような雷鳴があたり一帯に響き渡った。
ビクッとして目を開けると、女の姿はルームミラーからも消えていた。
ただ、鼓動の高鳴りと、脂汗が首筋を伝って流れている。
「……助かったのか?」
シートに背を預け、息を整える真司。
車の外は、少しずつ白み始めている。
再び車を走らせる。ようやく、現実に戻った気がしてきた。
村は、もう遠い――はずだった。
だが、その頃――
村の境界に数人の村人たちが集まり、静かな空を見上げていた。
「かえったな。よそ者が帰った」
「出ていった、よそ者に付いて出ていった」
「バンザーイ。これで村も安泰じゃ」
安堵の声があがったその瞬間、全員の耳元に、女の声が低く囁いた。
「なにが……そんなにうれしい……?」
その声を聞いた村人たちは、顔を青ざめさせ、膝から崩れ落ちた。
「なんまたまぶ、なんまんだぶ……」
手を合わせ、念仏のように繰り返す。
だが誰も、まだ気づいていなかった。
“祟り”は、村から消えたのではない。――外へと、連れ出されていっただけなのだということを。