(不穏な日常)
東京――。
阿川真司は、自宅アパートの玄関ドアを開けた瞬間、心の底から安堵のため息をついた。
自動車で数時間、ほとんどノンストップで逃げ帰ってきた。エンジンを切る手が震えたままだったのも、いま思い出すと滑稽で情けない。
「……はぁ、現実に戻った気がするな」
カバンとジャケットを床に投げ出し、ベッドに倒れ込む。都会のアパートはいつもよりずっと静かで、かえって落ち着かない。
外ではタクシーが走る音、隣室のテレビの低い音、人の生活の気配。それなのに、妙な“異物”が自分についてきたような気持ちが抜けなかった。
あの村で見たもの――あれは本当に現実だったのか。自分はついに幻覚でも見たのだろうか。それとも、ただの過労やストレスが見せた夢だったのか。
いや、ルームミラーの中の“あの女”――あれだけは現実だったはずだ。
「……考えすぎだ、俺」
真司は自分に言い聞かせるように呟き、無理やり平静を装って部屋着に着替えた。
冷蔵庫を開けて缶コーヒーを取り出し、テレビをつける。バラエティ番組がにぎやかに芸人の漫才を流している。
日常が戻ってきた。
でも心の奥には、今朝の異様な出来事の記憶が澱のように沈殿していた。
(……いや、忘れよう。忘れてしまえば、きっと普通の生活に戻れる)
シャワーを浴びて汗を流す。
いつものように鏡の前で髪を乾かす――
――その時、ふいに視線を感じた。
「……?」
鏡越しに、誰かが自分を見ているような妙な気配が背中を這う。
気のせいだ。
そう思い込んで振り向くが、もちろん誰もいない。
(まさか、こっちまで……来るわけが……ないよな)
鏡を恐る恐る覗き込む。自分の顔が少し青ざめている。目の下のクマも目立つ。
何度も目をこすって確認するが、やはり映るのは自分だけ――
「……神経質になりすぎだ」
洗面台の水をバシャバシャと顔にかけて、気分を切り替える。
その夜――。
真司はパソコンの前で講義レポートを書いていた。気がつけば外はすっかり暗く、雨が窓を叩いていた。
ピカッ――!
突然、部屋が稲光で照らされた。
次の瞬間、轟音が窓ガラスを揺らす。
「……ゲリラ雷雨か」
カーテン越しに、時折、閃光に浮かび上がる窓の外の景色。
ビルの隙間に、何か黒い影がちらりと動いたような錯覚が走る。
(……やっぱり神経過敏だ。もう、やめよう、こんな妄想)
だが、無意識のうちに、何度も窓とカーテンを気にしてしまう。
「気にしすぎだって、俺……」
そう呟いて、PCの前に座り直す。
その時――
ピリリリリリリ――
不意にスマホが鳴り出した。
液晶画面には「非通知」の表示。
「……こんな時間に、誰だ?」
身構えつつも、好奇心と不安で画面をタップし、通話ボタンを押す。
「……はい、阿川です」
――数秒の沈黙。
そして、受話器の向こうから聞こえてきたのは、
低く、湿った女の声だった。
『契りを結ぼうぞ……』
ゾクリと鳥肌が立つ。背中が急に冷たくなる。
「……え?」
慌ててスマホを耳から離し、画面を見る。
通話はすでに切れていた。
真司は思わず周囲を見回す。
また、ピカッと稲光が部屋を照らし――
今度はカーテン越しに、はっきりと“人の形”の影が浮かび上がった。
(やっぱり、来てる――!)
恐怖が心臓をわしづかみにしてくる。
しかし、現実は無情に“普通”の顔を装い続ける。
外を見ても、やはり誰もいない。
だが、じっとりとした汗が背中を濡らして離れなかった。
この都市の真ん中、何百万人も人がいるはずの場所で、なぜ自分だけが“何か”に見張られているのか――
阿川真司の、安息のない夜がまた始まろうとしていた。
(怪異の夜)
雨と雷鳴は夜が更けても止む気配がなかった。
阿川真司は、ベッドの上で天井を見つめていた。ノートパソコンもテレビも消してある。けれど、眠気はまったく訪れない。
脳裏でリピートされるのは、あの村での異様な出来事、ルームミラーに映った女の生気のない顔と、耳の奥にこびりついた「契りを結ぼうぞ……」という声。
「……疲れてるだけ、きっとそうだ。夢だ。いや、ストレスの幻覚だって……」
自分に何度言い聞かせても、恐怖は薄まらない。
どこかで、今も自分を見ている何者かの存在を本能が訴えている。
ピシッ――。
何かが割れるような音が響いた。
真司は弾かれたように上体を起こす。
静寂の中で、次第に心臓の鼓動が耳に響くほど速くなる。
音の出所を探し、そっと部屋を見渡す。
――スマホだ。
サイドテーブルの上に置きっぱなしだったスマホの画面に、蜘蛛の巣のようなヒビが入っていた。
しかも、そこから赤い液体がじわりと滲み出て、画面を伝って滴り落ちていく。
「う、嘘だろ……」
思わずスマホを手に取るが、血のような液体は消え、ヒビも跡形なく消えていた。
手のひらに汗がにじみ、寒気が背筋を走る。
そのとき、また着信音が鳴り響く。
スマホを恐る恐る覗くと、またも「非通知」の表示。
通話ボタンを押す指が震える。
「……誰だ……?」
受話器の向こうから、またあの女の声が、今度は耳元に直接囁かれているかのように響いた。
『契りを結ぼうぞ……』
たまらず電話を切った瞬間、部屋の照明が一瞬だけ消えた。
次の稲光で、窓の外に、はっきりと長い髪の女が立っているのが見えた。
「う、うそだ……なんで四階なんだぞ、ここ!」
恐怖と疑念で足が竦む。
窓に駆け寄ってカーテンを一気に開けると、外はただの真っ暗な夜の景色。雨粒だけが窓を叩いていた。
「……なんなんだよ……」
もう一度ベッドに戻ろうとした時、リモコンも触れていないのにテレビが勝手に点いた。
画面には、妙に明るいバラエティ番組が映っていたはずなのに、すぐにノイズに切り替わり、徐々に画面に人影が浮かび上がってくる。
「……来る、来るな……」
真司はリモコンで電源を切ろうと必死にボタンを連打するが、テレビは一向に消えない。
画面の中の人影が、どんどんこちらに近づいてくる。
――その瞬間。
テレビ画面から、白く冷たい手がスッと伸びてきた。
真司は悲鳴も出せず、反射的に本体の電源ボタンを押そうとした。
しかし、手首が掴まれる感触――。
冷たく、ヌルリとした手の感触が現実味を帯びる。
「やめろ……!」
どれだけ力を振り絞っても振りほどけない。
画面から顔半分を覗かせた女が、口元を吊り上げて、ぼそりと呟いた。
「契りを結ぼうぞ……」
心臓が止まるかと思うほどの恐怖に包まれる。
――ふっと意識が遠のいた。
* * *
「……ん、あれ?」
朝。
窓から眩しい光が差し込んでいる。
床に転がっていたスマホを拾い上げて確認すると、画面は割れていない。
血のような液体も、どこにも残っていなかった。
「……全部、夢……?」
だが、スマホの着信履歴には“非通知”の表示が何件も並んでいる。
――気のせい、そうだ。これは全部、ただの悪い夢だ。
必死で自分に言い聞かせながら、真司は大学の支度を始めた。
しかし、洗面所の鏡を覗いた瞬間、思わず固まる。
鏡の中に、赤い液体で“また、今夜、また来る”と書かれていた。
「――嘘、だろ……?」
どれだけ拭いても、その文字は消えない。
鏡越しに、女の影が立ち去っていくような気がして、真司は背筋を凍らせた。
昨夜の出来事は、決して夢なんかではなかった。
“何か”が、確実に自分の身辺にまで忍び寄ってきている――
東京という大都会の真ん中で、たった一人、誰にも助けを求められない孤独な恐怖。
この日から、阿川真司の“都市の怪異”は本格的に幕を開けることとなる。