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第3話 都市の怪異

(不穏な日常)




 東京――。




 阿川真司は、自宅アパートの玄関ドアを開けた瞬間、心の底から安堵のため息をついた。




 自動車で数時間、ほとんどノンストップで逃げ帰ってきた。エンジンを切る手が震えたままだったのも、いま思い出すと滑稽で情けない。




 「……はぁ、現実に戻った気がするな」




 カバンとジャケットを床に投げ出し、ベッドに倒れ込む。都会のアパートはいつもよりずっと静かで、かえって落ち着かない。

 外ではタクシーが走る音、隣室のテレビの低い音、人の生活の気配。それなのに、妙な“異物”が自分についてきたような気持ちが抜けなかった。




 あの村で見たもの――あれは本当に現実だったのか。自分はついに幻覚でも見たのだろうか。それとも、ただの過労やストレスが見せた夢だったのか。




 いや、ルームミラーの中の“あの女”――あれだけは現実だったはずだ。




 「……考えすぎだ、俺」




 真司は自分に言い聞かせるように呟き、無理やり平静を装って部屋着に着替えた。

 冷蔵庫を開けて缶コーヒーを取り出し、テレビをつける。バラエティ番組がにぎやかに芸人の漫才を流している。




 日常が戻ってきた。

 でも心の奥には、今朝の異様な出来事の記憶が澱のように沈殿していた。




 (……いや、忘れよう。忘れてしまえば、きっと普通の生活に戻れる)




 シャワーを浴びて汗を流す。

 いつものように鏡の前で髪を乾かす――




 ――その時、ふいに視線を感じた。




 「……?」




 鏡越しに、誰かが自分を見ているような妙な気配が背中を這う。




 気のせいだ。

 そう思い込んで振り向くが、もちろん誰もいない。




 (まさか、こっちまで……来るわけが……ないよな)




 鏡を恐る恐る覗き込む。自分の顔が少し青ざめている。目の下のクマも目立つ。

 何度も目をこすって確認するが、やはり映るのは自分だけ――




 「……神経質になりすぎだ」




 洗面台の水をバシャバシャと顔にかけて、気分を切り替える。




 その夜――。




 真司はパソコンの前で講義レポートを書いていた。気がつけば外はすっかり暗く、雨が窓を叩いていた。




 ピカッ――!




 突然、部屋が稲光で照らされた。

 次の瞬間、轟音が窓ガラスを揺らす。




 「……ゲリラ雷雨か」




 カーテン越しに、時折、閃光に浮かび上がる窓の外の景色。

 ビルの隙間に、何か黒い影がちらりと動いたような錯覚が走る。




 (……やっぱり神経過敏だ。もう、やめよう、こんな妄想)




 だが、無意識のうちに、何度も窓とカーテンを気にしてしまう。




 「気にしすぎだって、俺……」




 そう呟いて、PCの前に座り直す。




 その時――




 ピリリリリリリ――




 不意にスマホが鳴り出した。




 液晶画面には「非通知」の表示。




 「……こんな時間に、誰だ?」




 身構えつつも、好奇心と不安で画面をタップし、通話ボタンを押す。




 「……はい、阿川です」




 ――数秒の沈黙。




 そして、受話器の向こうから聞こえてきたのは、

 低く、湿った女の声だった。




 『契りを結ぼうぞ……』




 ゾクリと鳥肌が立つ。背中が急に冷たくなる。




 「……え?」




 慌ててスマホを耳から離し、画面を見る。

 通話はすでに切れていた。




 真司は思わず周囲を見回す。




 また、ピカッと稲光が部屋を照らし――




 今度はカーテン越しに、はっきりと“人の形”の影が浮かび上がった。




 (やっぱり、来てる――!)




 恐怖が心臓をわしづかみにしてくる。

 しかし、現実は無情に“普通”の顔を装い続ける。

 外を見ても、やはり誰もいない。




 だが、じっとりとした汗が背中を濡らして離れなかった。




 この都市の真ん中、何百万人も人がいるはずの場所で、なぜ自分だけが“何か”に見張られているのか――




 阿川真司の、安息のない夜がまた始まろうとしていた。




(怪異の夜)




 雨と雷鳴は夜が更けても止む気配がなかった。

 阿川真司は、ベッドの上で天井を見つめていた。ノートパソコンもテレビも消してある。けれど、眠気はまったく訪れない。




 脳裏でリピートされるのは、あの村での異様な出来事、ルームミラーに映った女の生気のない顔と、耳の奥にこびりついた「契りを結ぼうぞ……」という声。




 「……疲れてるだけ、きっとそうだ。夢だ。いや、ストレスの幻覚だって……」




 自分に何度言い聞かせても、恐怖は薄まらない。

 どこかで、今も自分を見ている何者かの存在を本能が訴えている。




 ピシッ――。




 何かが割れるような音が響いた。

 真司は弾かれたように上体を起こす。




 静寂の中で、次第に心臓の鼓動が耳に響くほど速くなる。

 音の出所を探し、そっと部屋を見渡す。




 ――スマホだ。




 サイドテーブルの上に置きっぱなしだったスマホの画面に、蜘蛛の巣のようなヒビが入っていた。

 しかも、そこから赤い液体がじわりと滲み出て、画面を伝って滴り落ちていく。




 「う、嘘だろ……」




 思わずスマホを手に取るが、血のような液体は消え、ヒビも跡形なく消えていた。

 手のひらに汗がにじみ、寒気が背筋を走る。




 そのとき、また着信音が鳴り響く。

 スマホを恐る恐る覗くと、またも「非通知」の表示。




 通話ボタンを押す指が震える。




 「……誰だ……?」




 受話器の向こうから、またあの女の声が、今度は耳元に直接囁かれているかのように響いた。




 『契りを結ぼうぞ……』




 たまらず電話を切った瞬間、部屋の照明が一瞬だけ消えた。

 次の稲光で、窓の外に、はっきりと長い髪の女が立っているのが見えた。




 「う、うそだ……なんで四階なんだぞ、ここ!」




 恐怖と疑念で足が竦む。

 窓に駆け寄ってカーテンを一気に開けると、外はただの真っ暗な夜の景色。雨粒だけが窓を叩いていた。




 「……なんなんだよ……」




 もう一度ベッドに戻ろうとした時、リモコンも触れていないのにテレビが勝手に点いた。

 画面には、妙に明るいバラエティ番組が映っていたはずなのに、すぐにノイズに切り替わり、徐々に画面に人影が浮かび上がってくる。




 「……来る、来るな……」




 真司はリモコンで電源を切ろうと必死にボタンを連打するが、テレビは一向に消えない。

 画面の中の人影が、どんどんこちらに近づいてくる。




 ――その瞬間。




 テレビ画面から、白く冷たい手がスッと伸びてきた。

 真司は悲鳴も出せず、反射的に本体の電源ボタンを押そうとした。




 しかし、手首が掴まれる感触――。

 冷たく、ヌルリとした手の感触が現実味を帯びる。




 「やめろ……!」




 どれだけ力を振り絞っても振りほどけない。

 画面から顔半分を覗かせた女が、口元を吊り上げて、ぼそりと呟いた。




 「契りを結ぼうぞ……」




 心臓が止まるかと思うほどの恐怖に包まれる。




 ――ふっと意識が遠のいた。






 * * *






 「……ん、あれ?」




 朝。

 窓から眩しい光が差し込んでいる。




 床に転がっていたスマホを拾い上げて確認すると、画面は割れていない。

 血のような液体も、どこにも残っていなかった。




 「……全部、夢……?」




 だが、スマホの着信履歴には“非通知”の表示が何件も並んでいる。




 ――気のせい、そうだ。これは全部、ただの悪い夢だ。




 必死で自分に言い聞かせながら、真司は大学の支度を始めた。




 しかし、洗面所の鏡を覗いた瞬間、思わず固まる。

 鏡の中に、赤い液体で“また、今夜、また来る”と書かれていた。




 「――嘘、だろ……?」




 どれだけ拭いても、その文字は消えない。

 鏡越しに、女の影が立ち去っていくような気がして、真司は背筋を凍らせた。




 昨夜の出来事は、決して夢なんかではなかった。

 “何か”が、確実に自分の身辺にまで忍び寄ってきている――




 東京という大都会の真ん中で、たった一人、誰にも助けを求められない孤独な恐怖。

 この日から、阿川真司の“都市の怪異”は本格的に幕を開けることとなる。







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