夜22時、
やっと書き終えた論文のデータが保存できていることを確認し、眠気覚ましに淹れていたキリマンジャロコーヒーの残りを一気飲みする。すっかり冷めたコーヒーの苦みが、これまでの作業にかかった時間を物語っていた。
この論文を来週の学会で報告すれば、軍魔県警の怠慢を公のものにできるかもしれない。そう考えると興奮し、長丁場の執筆による疲れもまるで気にならなくなった。少し缶チューハイを万引きしたくらいでこの俺を逮捕しやがった恨み、ようやく晴らすことができそうで笑いが止まらない。
気づけばもうこんな時間か。若い時分なら最悪研究室に止まればいいやくらいのことを考えただろうが、この歳になるともう研究室の固い床で寝るのは翌日以降の身体に障る。早いこと帰って、シャワーを浴びて寝るとしよう。食事はそうだな・・・・・・最寄り駅まで戻ってから居酒屋で軽く一杯引っかけるとするか。
そんなことを考えながらパソコンの電源を落とし、駆け足で荷物をまとめようとした、そのとき・・・・・・
「・・・・・・ぎゃあぁぁぁ・・・・・・」
廊下のどこか遠くから、何者かの絶叫のような声が聞こえた・・・・・・ような気がした。
突然のことに驚き、瞬時に身構える。全神経を集中させて聞き耳を立てるが、特に何も聞こえなかった。
「・・・・・・気のせいか」
職業柄、夜中のキャンパスに一人でいることもそう珍しいことではない俺だが、どうしてもこういう不意の音にはいまだに慣れない。蓋を開けてみれば、どうせ風の音だったり、なにかしらの機械の動作音だったりに過ぎないであろうということまで頭では理解しているのだが、それでもいきなりだと肝が冷えて仕方ない。夜勤をする看護師がよく幽霊が出たなんて言っているのもこういった感覚なのであろうか。
「幽霊ねぇ・・・・・・」
こんな研究をしておいてなんだが、幽霊が実在するだなんてことは考えていない。しかし、実在するかどうかと、怖い怖くないとは、またまったく別の話だ。
薄気味悪い感覚に襲われ、早いところ退散しようと出口へと向かう。
ザッ、ザッ、ザッ、ザッ
すると、廊下から何か近づいてくる足音が、今度ははっきりと聞こえてきた。どこか遠くを歩いているのだろうか、足音は小さい。だが、少しずつ確実にこちらへと向かってくるような、そんな得も言われぬ不気味さがあった。
ガッ! ガッ! ガッ! ガッ!
ぼんやりとした不安が明確な恐怖へと変わる音。足音は着実にこちらへと近づいている。そして、遠くにいたときは気づかなかったが、これは確実に人間の足音ではない。少なくとも四本以上の脚を持った動物の足音だ。
鹿でも迷い込んだか・・・・・・? そんな考えが一瞬脳裏をよぎったが、すぐに否定した。片田舎の山奥に敷地を持つこのキャンパスにおいては、確かに野生動物の侵入というのは可能性として無い話ではないだろう。しかし、この不気味な足音の正体はそんな生やさしいものではないと、根拠も無いながらに生物としての本能が告げていた。
ガガガガガガガガガガガ!
四本脚の生物にしても小刻みすぎる、それでいて虫やネズミとは一線を画す重量感のある足音。強いて例えるなら、もしメートル大の蜘蛛が走るなりすればこんな足音になるのだろうか。
尋常でない何かの足音はすぐそこにまで迫っている。どういう訳か、私の居場所が分かっているとでも言わんばかりに、的確にこちらへと近づいてくるのだ。ただの偶然だと願いたいが、明確に意志を持って俺を探しているとしか思えない接近の仕方に、ただただ底知れぬ恐怖を覚える。
今すぐにでもここから逃げるべきであろうか・・・・・・? いや、あの足音の早さからして、鉢合わせにでもなったらまず逃げ切ることは不可能だろう。
であれば、接近してきているのは偶然である可能性にかけ、鍵のかかったこの部屋で息を潜めているのが正解か。そうだ。正体も分からないような化け物が俺の居場所を知っていて、明確に狙ってくるなんてことがあるはずがない。
ゴンッ! ゴンッ!
しかし、そんな俺の期待は、ノックと呼ぶにはあまりにも乱暴すぎる、ドアを殴りつけているような重く鈍い音によって打ち砕かれた。
背筋は凍り、心臓が止まりそうになる。身の毛はよだち、全身の震えはもう己の意志では抑えられない。
ゴッ! ゴッ! ゴッ! ゴッ!
もう、俺を護ってくれるものは、今まさに殴られ続けているこの扉一枚しかない。幸い、これは防犯対策の施された頑丈な鉄扉ではあるが、今なお響く力強い重低音の前には、心許なさを感じざるを得なかった。
バゴオオオォォォン!!!
そんな当たって欲しくなかった不安は的中し、鉄の扉が不意に歪められたかと思った矢先、あっけなく吹き飛ぶ。その役目を放棄した鉄の扉は、奥の壁へと派手に激突し、ガラスの破片と共に無惨にも床へと転がった。
派手に舞い上がってもやのようになった埃が少しずつ引いていくにつれ、来訪した化け物が少しずつその姿を現していく。体躯は意外にも大柄で筋肉質な上裸の男性のそれで、扉を殴る音などから想像した程の化け物ではない。
しかし、いささか拍子抜けかと思ったのもつかの間。視界がだんだんとクリアになっていくにつれ、俺は想像を絶する化け物の姿を目の当たりにすることとなる。
目の前の男の肩からは、なんと6本もの腕が生えているではないか。いずれにもものすごい筋肉の備わった屈強な6本の腕は、うち2本が四足獣の前足の役目を果たし、うち2本は胸元で腕を組み、残りの2本は翼かの様に背中で広げられている。
そして、腕だけでも充分に異形たり得るのだが、さらに目を引くものが一つ。股間から垂れ下がる禍々しい男根。ふんどしのような朽ちたボロ布が一応それを隠そうとはしているのだが、その逸物の凄まじいまでの大きさゆえに、まるで本来の役割を果たしてはおらず、ほぼ丸出し状態だ。
いや、この期におよんで卑猥だどうこうとくだらないことを言うつもりはないし、そんな余裕もない。ただ、問題はその形状だ。本来のそれを生を与えるための丸みと例えるのであれば、コイツのそれは生を奪うことに特化したかのような、槍とでも言うべき鋭さをしている。そして、その先端からは何者かの返り血であろうか。赤黒い液体が滴り落ちている。
それは「男根」などと呼ぶのもはばかられる、例えばカマキリでいうなら鎌の部分にあたるとも言うべき、敵を殺傷するためだけに作られた器官の形状をしていた。
落ち武者のように伸びきった髪と髭の隙間から、野獣のごとく赤く血走った眼光がこちらを覗く。わずかに開いた口から覗く歯は朽ちかけて黄ばんでおり、漏れ出ずる生温かい吐息は、割れた窓から差し込む冷気にあてられ湯気となって漂っている。
とにかく、ここから逃げなくては。理屈がどうこう、できるできないを考えている場合ではない。できなければ死ぬ。それだけがこの場における真実だ。
俺はカバンを奴の顔面へと投げつけ、その隙に右脇側の隙間をすり抜けて廊下へと出ようと試みる。しかし、投げつけたカバンは胸元に組んでいた中段の右腕に軽く阻まれてしまい・・・・・・
翼のように広げられていた上段の右腕が力強く振り下ろされ、俺は敢えなく床へと叩き潰されるように、うつ伏せ状態で取り押さえられてしまった。
すかさず奴は俺の上へと覆い被さるようにし、上段の腕で上肢を、下段の腕で下肢をそれぞれ掴み、拘束する。体格・筋力差に加えて腕の数でまで圧倒されていては、この状態から抵抗できる術などもう残されてはいなかった。
抵抗できなくなった俺を見下ろし、奴は舌なめずりを一つした。耳元に奴の毛むくじゃらの顔が近づいてくるのが見なくても分かる。生温かい吐息が耳へと吹きかけられると、身の毛もよだつような凄まじい悪寒に全身が支配される感覚に陥った。「ああ。いっそ早く殺してくれ」。そんな考えが脳裏をよぎる。
残された中段の腕によって、ズボンが乱雑に引きちぎられていく。その瞬間になって、ようやくこの化け物の正体に心当たりがついた。
そうか。コイツがかの「ゴンゾウサマ」か・・・・・・。自分で研究しておいてなんだが、まさかこうしてお目にかかることになるとはな・・・・・・。
「ゴンゾウサマ」の鋭い陰茎が触手のように伸びていく。その様はもう、人間のそれとは遠くかけ離れたものであった。
俺は今からコイツに尻を貫かれて死ぬのだろう。自らの死を悟ると、決して恐怖が消えたわけではないにも関わらず、不思議と俯瞰や達観のような感覚もあった。
しかし、どうして「ゴンゾウサマ」が俺のことを・・・・・・? 決して祟られるようなことをした覚えは・・・・・・。
いや、待てよ・・・・・・。芭摺の事件の後、あの祠はどうなった・・・・・・?
恐るべき真実に辿りついたのも束の間。彼の魂は「ゴンゾウサマ」の贄となり果てたのでございました。
***
満月の光がわずかに差し込む森の中。
無惨にも破壊された祠の前で、たった一人で佇む女性の姿が。
「ゴンゾウサマ、貴男はいずこへ行ってしまわれたのでしょうか・・・・・・? もう今となっては、貴男の還るべきムラもありません。いつか充たされるその日が来るまで、どうか存分に暴れてくださいまし」
祠の欠片を拾い上げると、女性はそう呟いたのであった。