§4 人がた奇談
試験の終わったあの日、彼女はうちにきた。
後期試験を友人からのノートで乗り切った僕は、自分へのご褒美にいつもの自販機に向かった。県境の峠にある大人用の自動販売機。大人用といってもアルコールの類は一切置いていない。あるのは本とビデオ、それにいかがわしい道具である。僕はそこでビデオを買うつもりだった。
「ビデオくらいレンタルすればいいじゃないか?」
そう思う人はたくさんいるだろう。でも僕には出来なかった。行きつけのレンタルビデオのアルバイトの女の子が好きだから、データに残ることをしたくなかったんだ。
だってそうでしょ?話もしたこともない好きな子に自分が見ているアダルトビデオの題名なんて知られたくない。それ以前にアダルトビデオを見ていることすら知られたくないじゃないですか。
『いま、まえでいきます』ヒットした映画の題名をパクっているビデオに決めた僕は3千円を投入し、ボタンを押した。「ブーーー」というモーター音だろうか?大きな音が鳴り響く。僕は「隠れて買いたいんだから静かにしろよ」と思いながら取り出し口からひったくるように箱を取り出し、万引きするようにカバンにねじ込んだ。
真紀22才
家に帰り、カバンから出したパッケージにはそう書いてあった。大きさはティッシュペーパーの箱を2個並べたくらいのもの。
「違うよなーこれ。どう見てもビデオやないし、あれっぽいよなー・・・交換ッたってどこに電話すりゃいいんだか・・・とりあえずあけてみるか」
独り言をいいながら開けた箱の中から出てきたのはきれいに折りたたまれたビニール。「ビニール?顔がついてるし・・・やっぱりこれはあれか。」
そういいながら僕はビニールを開いていった。長さは15,60センチだろうか?子どもの落書きみたいな人型があった。「ダッチワイフ」そういわれる品物である。
「どうしよう」
どうしようもない。選択肢は三つ。きれいにたたんでビデオと交換するか、捨てるか・・・。僕は最後の選択肢を選んだ。空気を入れた。家に空気入れなんて結構なものがあるわけがなく、自分の肺活量を頼みに吹き込んだ。
膨らんでいくダッチワイフを見ながら思ったことは「気持ち悪い」であった。なのに途中でやめなかったのは、好奇心、それ以上に意地があったのだろう。完全に膨らんだそれを見て思わずつぶやいてしまった。
「やっぱり使えないよなーこれ・・・・・・」
すぐに空気を抜けばよかったのだが、なぜかそのままにしてしまった。部屋の中で転がっているそれを見ていると、なんとなく可愛そうに思えて部屋の隅にもっていき、バスタオルをかけてやった。
いつのまにか、それの存在は僕の中で普通になっていた。外出から帰るとそれに向かって「ただいま」と声をかけるようにもなった。そうなるとそれが裸でいる事が気になりだした。だからTシャツとジーンズを着せてやった。そのときから僕にはそれがダッチワイフではなく同居人であったのかもしれない。
一人暮らしの男の部屋はとにかく汚い。そんなイメージがある。僕の部屋もまさにそうだった。汚れ物なのか、洗濯したものなのわからない衣類がぶちまけられ、台所にはいつ食べたかも判らないコンビニ弁当と発泡酒の空き缶が積まれている。
いつの頃からか、その部屋がきれいになっていた。それも毎日。
なっていたと書いたのは、自分がしたからではないからだ。親がきたわけでもなく、片付けてくれる彼女もおらず、まさか泥棒が盗みに入ってあまりの汚さに片付けていったわけもない。
僕は部屋にはいった人間を見つけようと、家を出る振りをして押入れに隠れていた。隠れた押入れでうとうととしていた僕は掃除機の音で眼がさめた。
ふすまの隙間からのぞいていると掃除機をかけている女の子が見えた。年のころなら23,4歳だろうか?ジーンズに少し汚れたTシャツというラフな格好をしている。見覚えのある顔なのだが、誰だか思い出せない。もう少しよく見ようと思ってふすまを少し開いた。その音に気がついた彼女と目があった。彼女は掃除機を置いたまま走り去ってしまった。
「まって」僕はそういって玄関へと向かった。靴をはくのもそこそこに廊下に出た。アパートの階段を駆け下りて、外へ出たがそこには誰もいなかった。
見覚えのある顔、誰だか思い出せない女性・・・そのことを考えながら、部屋に戻った僕は「ただいま」と同居人に声をかけた。そこにいた同居人の服装を見て僕は驚いた。ジーンズに少し汚れたTシャツ。さっきまで掃除機をかけていた女性の着ていた服と同じものだった。
「まさか・・・な、そんなことないよな。自分が?自分が今まで部屋の片付けしてたの?」
傍から見ればとてもこっけいな姿だろう。僕が話しているのはダッチワイフなのだから。でもそのときの僕は本気で話し掛けていた。それくらい、彼女は同居人として自然な存在になっていたから・・・
でもそのときは何も応えてくれなかった。自分が馬鹿だと思ったし当然のことだと思った。自分の馬鹿さ加減にあきれながらコンビニに食事を買いに行った。
買い物から帰ってくると、彼女がいた。服はやはりTシャツとジーンズだった。
「お帰りなさい」
「君は・・・」
「真紀です。」
真紀?自分の知り合いにはいない名前だった。いな、いるにはいるのだが彼女ではなかった。
「真紀?」
「ええ、私の名前一度もよんでくれなかったですものね。ずっと一緒にいたんですよ。」
「一緒にって・・・」
頭の中でさっきの自分の行動がよみがってきた
「きみはやっぱり」
「そうです。そのやっぱりです。」
そういって笑った彼女の顔は確かにあのダッチワイフの面影を残していた。夢を見ているのではないか?そう思ったぼくは頬をつねってみた。痛かった。
その後彼女がどうなったかというと、彼女は彼女のままだった。おかしいと思いますか?おかしいと思いますよね。僕もそう思います。でも彼女との生活は楽しかった。
「ただいまー、今日は寒かったから、一人なべ買ってきたよ。」
そういう僕に
「ごめんね、私が火を使えないからいつもお弁当で。でも出来ることはなんでもするから。」
そういってくれた。いくら本当の人に見えても、彼女の体はやっぱりビニールで出来ていた。だから火を使う事がとても怖いらしい。それに一緒に何かを食べようか?といっても何も食べる事が出来なかった。彼女曰く、味覚もないとのことだった。
ラジオをつけて、なべの用意をしていると、彼女が話し掛けてきた。
「このラジオ番組いつも聞いてるよね。すきなの?」
「うん、選曲がね。DJのしゃべり方も落ち着いてるでしょ。最近はFM8012の曲の聞くのがつらくなってきてね、年食ったのかな」
そういって笑って見せた。
「そっか、私あんまりよくわからないんだよね。音楽聴いても、テレビ見てもなにがいいんだかわからない。でもね敦之と話してるときは楽しいって思えんねん。」
「そんなことよう平気でいえるな、真紀。めっちゃ照れるわ。」
僕にとって彼女は本当に「彼女」に近い存在になっていた。
そんな彼女との生活に変化があった。僕に恋人が出来たのだ。もちろん人間の、である。まえから憧れていたレンタルビデオ店の女の子から告白されたのだった。ふっと真紀の事がよぎったが、彼女の告白を受けてしまった。
「彼女が出来たの?」
真紀はいきなりそう聞いてきた。
真紀は僕の様子が普段とちがうことを変だと思ったようだ。僕はいつもと同じようにしようと心がけていたのだが、電話がよくかかってくるようになり、電話で話している僕の様子が違うことなんかから察したのだろう。
「うん、実は・・・先月に告白されたんだ・・・」
「それからずっと付き合ってるんだ。」
そういう彼女の口調は妙にさばさばとしていた。僕は体中に冷たい汗をかいていた。「浮気がばれたときの心境って感じかな」妙に冷静な分析をしながら
「うん」
と返事をした。
「そっか、それじゃあ勝てないよね。本物の彼女だもんね。いいよ。敦之は私のこと大切にしてくれたから、何にも言わないよ。」
そういって真紀は僕に笑いかけた。なんだかすごく拍子抜けしてしまった。このときの僕の顔は相当間抜けだったのだろう。真紀が笑っていた。
「ねえ、敦之。お願いがあるんやけど。私、ダッチワイフだってこと覚えてる?敦之は私のことすごく大事にしてくれたけど、私を抱いてくれたことないねん。一度でいいから私のこと抱いて。」
そういうと、真紀はTシャツを脱いだ。あらわになった上半身は人間のそれではなくビニールで出来た体だった。顔もいつのまにかビニールに戻っていた。
「お願い、一度でいいから」
そういう真紀の声はあのきれいなソプラノではなくコンピューターで作った合成音のようだった。そんな真紀の姿は、二人の楽しかった日々を全て台無しにしていくように思えた。僕は何もいえず、ただ呆けた様に首を振り拒否をした。その僕の首に真紀はしがみついてきた。
パンパンに張ったビーチボールのような感触が服越しに伝わってくる。真紀を離そうと押した体からビニールの感触とキュキュッという音が伝わってくる。思わす手を離すとさらに強い力で抱きしめてきた。どこにこんな力が?と思いながら必死にもがいているうちに、背中の空気穴に手が触れた。僕は背中に手を伸ばし、空気を抜いた。
「敦之、なんで・・・」
そういうビニールの真紀の顔がどんどんとしおれていく。完全に空気が抜け切らないのか、ぼこぼこになった人がたが「あ・つ・し」と呼びかけてくる。もはやそれは声と呼べるものでなく、ビニールのこすれる不快な音であった。僕はたまらずビニールの人がたを足から丸め、空気を抜いた。それが何か言葉を発したようだったが、もう何かもわからなかった。
僕は、丸めた真紀の体を袋に入れ、自転車に乗ってかわらまできた。途中誰かに見つかるのではないかと、あたりを何度も見回した。完全な挙動不審者だった。僕はつい一時間ほど前まで真紀だったものを燃やすため、ライターを探した。でもライターなんてあるはずなかった。僕はタバコを吸わないんだ。そんなことも気がつかないほど動揺していた。急いでコンビニに走り新聞紙とライター、タバコにウォッカを買った。
このときの僕の顔はどんなだったろうか?放火犯にでも見えたのではないだろうか。僕の気分的には人を殺したほうに近かったんだけど・・・
とにかくそろえるものをそろえた僕は新聞紙に真紀だったものを包み、上からウォッカをかけて火をつけた。青白い炎が上がり、ビニールが焼けるいやなにおいがした。アルコールをかけたせいなのか、新聞紙はあまり焼けていなかった。しかし中のビニールは確実に焼けているようだった。新聞紙の下に溶けたビニールが液体になって流れ出し、そこにも火がついていた。
もうこれで大丈夫。そう思った僕は水をかけた。溶けたビニールが新聞紙をコーティングしてテカテカとひかっていた。僕はその塊を、川の中に蹴飛ばした。
もうこれで真紀はいなくなった。
家に帰った僕は浴びるようにウォッカをあおりながら、すえないタバコに火をつけた。苦いような、辛いような、甘いようななんともいえない味が口の中に広がった。その日は酔いつぶれて寝てしまった。
次の日床の上で目がさめた僕は
「真紀―」
と彼女を呼んでしまった。二日酔いの頭痛とともに昨日の出来事が僕の中によみがえってきた。焼かなくてもよかったのにと思う一方で、これで彼女を家に呼べるとも思っていた。もう終わったことだと思うことにした。真紀のことを忘れるためにも早く彼女を家に呼ぼうと決めた。
そのチャンスは意外と早くに訪れた。彼女が僕に料理を作ってくれるといったからだ。僕は一も二も無くO.Kした。
彼女がくるまで、僕はラジオをつけながら部屋の片付けをしていた。ノックの音がしたので僕は喜んで扉を開けた。そこには買い物袋を抱えて笑っている彼女がいた。
「今日は寒いからお鍋!」
そういってわらった。材料を一通りきり終えて食卓に着いた僕らはラジオをバックに食事をはじめた。"Your song" "more than words"といった洋楽バラードが流れていた。いい雰囲気だ。僕は思っていた。そのときにDJがリスナーからのメールを読み始めた。
こんばんは、私は真紀といいます。この間大好きな人に振られちゃいました。とってもすきだったんです。彼は優しくて、私のこと大事にしてくれました。彼の部屋でこの番組を聞きながら過ごす時間が大好きだったんです。でもね、彼は私のこと最後まで女性としては見てくれなかったんです。一度でいいから抱いてほしかったのに。彼は最後まで私のこと・・・
ねえ敦之、こないだのこと、私怒ってないよ、だから気にしないでね。
「大丈夫、顔真っ青だよ。」
その声に振り向いた僕は大声を上げそうになった。でも声になったのは
「ヒィッ」
というのどの詰まった音だけだった。
「ま、真紀・・・」
「私怒ってないから、一度だけでいいから・・・私を抱いて」
部屋を見回してみた。いるはずの彼女の姿は無く、彼女がいたはずの場所に真紀がいた。いつもの服を着て、いつもの笑顔を見せた真紀は、笑いながら言った。
「一度だけでいいの」
そういって手を伸ばしてきた真紀の手は真っ黒に炭化していた。立とうとした真紀は大きく体制を崩した。真紀のジーンズの裾からは溶けて変形した足がのぞいていた。立ち上がる事が出来ない真紀が「ズルッ、ズルッ。」という音を立ててにじり寄って来る。腕を伸ばし僕の足をつかもうとするたび、近づいてくるたびに真紀がどんどんとかさぶたのような炭に覆われていく。
僕は声をだすことも、逃げ出すことも出来なかった。ただ子どものように首を振りながら後ろへ後ろへと後じさって行くだけだった。そして行き着いた先は、壁際に敷かれた万年床の上だった。そんな僕に真紀が覆い被さってきた。
「うれしい、ずっと敦之のこと好きだったのに。一度だけでいいんだよ。私はそのために生まれてきたんだもん。ね、敦之、一度だけ」
その時はもう彼女の声は僕には届いてなかった。
次の日、デートの約束にいつまでも来ない僕を心配した彼女が僕の部屋にきた。そこで彼女はどろどろに溶けたダッチワイフに抱かれて冷たくなった僕を見つけたんだ。