======== この物語は基本的にフィクションです =========
「仕方無いよ」。
ごめんね、藤木くん。間に入った辻野の言葉が有り難かった。
私は、藤木から貰ったラジコンカーを壊してしまったのだ。
転落事故とかでは無く、「乾電池」の入れ替えを忘れた為に。
所謂、「液ダレ」だ。メカに強い辻野が懸命に液を出し、消毒したが無駄だった。
「だから、乾電池少ないからって、言ったのに。」
中学の時に出来たグループだった。いや、既に出来ていたグループに私が参加したのだ。多いときは総勢6人だった。
祝井、楠、藤木、辻野、宮下、そして、私。
私が最後のメンバーだった。
小学校の学区が違っていたので、知っていたのは楠と辻野だけだった。
私は楠を通じて参加した。クリスマスの後、宮下は不参加になった。いや、親父さんの転勤で転校になったのだ。
最初は、漫画好きが集まったグループだった。
さながら「ミニトキワ荘」のように漫画の話に夢中になった。
同人誌みたいなのを作ろう、と祝井が言い出し、分担して作画することになったが、私には絵心がないと自負していたし、コマ割りすら自信が無かった。
締め切り間近になり、私はギブアップした。
「初めてだから仕方無いよ。」この時は、藤木が庇ってくれた。
実は、私が参加する前、彼らは絵を持ち寄ったことがあったのだ。
藤木は、白紙のケント紙を出すのは止めた方がいい、と言ってくれた。
誰が言い出したのか、「お誕生会」をするようになった。藤木だったかも知れない。
女の子のグループみたいだ、と妹に言われた。お互いの誕生日を確認し、持ち回りで誕生会を開くことになった。
だが、困ったことが起こった。藤木の家には、友人を招く『色んな意味での余裕』が無かった。
「いいじゃないか。ウチでやろう。」
言い出したのは、祝井だった。彼は、ずっと、『離れ』で暮していて、パーティーをするのは、うってつけだった。
「お誕生会」は、2年で終了した。見栄を張る者が出てきたから。都度の出費も問題だった。
普通の「お誕生会」でも、立ち消えになるのは、その辺の事情。
祝井の家は、割と裕福で、会は、彼の家で行うことが多くなった。
高校時代、仲良しが昂じて、祝井の家に10日程居候したこともある。
家人が、「帰って貰いなさい」と言いだし、それは終った。
大学時代、お互い進路は別れたが、たまに寄っていた。
「お誕生日」でない日に。
いつしか、会場は楠の家の2階になった。
別棟の、店の2階なので、あまり近所迷惑にならなかった。
私が必死で書いた、初めてのアニメシナリオ記念に、一冊のノートに全員で、アニメに沿ったイラストを描いた。「最初で最後の共同作業」だった。
そして、ある時、楠の家で私は藤木と口論した。
私の、他のグループで「政治論争」をした時もだが、私は引かなかった。
この頑固さは、今でも尾を引いている。
彼は、ある新興宗教に填まっていて、依り代(仏像)があれば、どこでも拝める、新しい宗教である、と以前に話していた。
にも関わらず、その時、建立(仏像を安置するお堂)の為の寄付を募りだしたのだ。
それは、話が違う。建物にお参りすることを否定していたじゃないか。それに、この会は、宗教の為の会じゃない、と。
皆は私に賛同した。
彼は、グループから遠のいた。
時は流れ、私は演劇青年になり、祝井と一度目の大げんかをした。
養成所をクビになり、アルバイトをしていたものの、結局帰郷した私を待っていたのは、「職歴差別」だった。
世の中は甘く無い。
何度目かの就職浪人的な、派遣会社からの依頼待ちをしていた時、祝井は、「女房に見つかるとヤバイから」と、馬券とヘソクリを持って来た。
彼は、高校時代から、競馬依存症だった。
勝手な奴だと思った。
結婚式の時、直前まで一緒に遊んでいたのに、結婚式に呼ばないことを彼は伏せていた。
そして、呼ばれたのは、楠だけだった。
私は怒ったが、辻野の説得もあって、楠は『グループの友人代表』として参加する、ということにして、辻野、藤木、私の3人分の『結婚祝い』を楠に託した。
初めから、「予算の都合もあって、1人しか席を確保出来ない」と彼が言えば、すんなり楠を代表として送り出せたのだ。
競馬のヘソクリと馬券を私に預けた祝井は、馬券の買い方を教授し、私に指定した馬券を買いに行くよう指示し始めた。
所謂「パシリ」である。初めから共同出資をし、配当するのならいいが、私が買いに行く義務を背負う意味は何か?
藤木に相談の上、彼と絶交することにした。
彼に借りていたDVDと共に、馬券とヘソクリを宅配便で送った。
「これ以上付き合えない」と手紙を添えて。
祝井は、訳が分からない、と留守電に言っていた。
今も分かっていないかも知れない。
それからの会は、毎月楠と私だけの時が続いたが、辻野と藤木も参加するようになった。
正月に、藤木の新居祝いを送ったが、何故か藤木の家に『二次会』的に移動することになった。
奥さんは、不服顔だった。『祝い』だけで良かったのに、と私は思った。
何年かして、藤木は行方不明になった。会の誘いを連絡しようとしたが、出来なくなった。息子に尋ねたが、分からないと言う。会社も彼を探している、と言った。
半年後、彼は帰って来た。彼は、置き薬の会社を辞め、拾われた恩人の勧めでタクシードライバーになっていた。そして、事情が分かった。自動車で車上生活をしていた、と言う。彼は、両親が宗教にのめり込み(先の宗教とは別口らしい)、大きな借金が出来た。
そして、離婚をし、借金のの追っ手から逃げる生活をしていたのだ。奥さんとは喧嘩別れした訳では無く、送り出して貰った、と言う。
定年前、楠は、突然会社である銀行を辞めた。
何故、私に言いづらかったのか、はっきりとは分からない。駅近くの自転車置き場に彼の自転車が見あたらないので、どうしたのか?と尋ねた時にチャンスだったのに。
でも、ある時、辻野にそれとなく尋ねて貰ったら、辞めていた。
楠は、辞めたことは認めたが、理由は話さなかった。楠は、叔父のコネで入社した。
叔父は数ヶ月前、亡くなっていた。庇う人間がいなくなったのだ。
どうやら、「イジメ」に遭い、「肩叩き」をされたようだ。
暫く、変な「大人買い」をしていて驚いたことがあったが、定年前に離職したことに原因があるようだった。
楠が亡くなる数ヶ月前、連絡が取れなくなったので、病院に入院しているかどうか確認した。彼は、以前私が通っていた病院に通院していた筈だった。
彼は、病院の通院を辞め、クリニックに通っていた。
連絡が取れた、楠の妹の話で事情が分かった。
彼は、別の病院に救急搬送され、ICUに入った。
回復して、一般病棟に移って間もなく、楠は亡くなった。
2ヶ月後、私の母が倒れ、介護生活が始まった。
楠の家の、その後も気になったが、毎月墓参りに行くのが精一杯だった。
楠の墓の場所を教えてくれたのは、藤木だったが、宗教の関係なのか、教えてくれた時以外は、楠の墓参りは行かなかったようだ。
母が寝たきり生活になる半年位前だったか、私は救急搬送され、『軽度の脳梗塞』になった。
辻野に頼んで、充電器等を運んで貰った。
3年後、母が亡くなって落ち着いた頃、SNSで辻野は墓参り行って来たみたいなことを漏らした。カマをかけたが、知らん顔をした。
藤木は亡くなっていたのだ。
年金貰っても、給料貰っているから引かれる、と落ち込んでいた藤木だった。
働いても働かなくても損をする世の中だ。
彼が、タクシードライバーを辞め、焼酎飲んでいることまでは知っていたが没交渉だった。
コロナ以降、『会』は存在しなかった。
『傷の舐め合い』は出来なくなっていた。
恐らく、藤木は辻野に、報せるな、と言っていたのだろう。
ゴメンね、藤木くん。役に立てなくて。
辻野もフェードアウトするのだろうか?
何人もの人間と出会い、何回も別れて来たが、フェードアウトという『自然の別れ』も何度か私は経験している。
私自身も、いつかフェードアウトするに違い無い。
―完―