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氷壁エリートの夜の顔
氷壁エリートの夜の顔
八月朔日
恋愛現代恋愛
2025年05月23日
公開日
2.2万字
連載中
<こちらは契約作品ではありません> 桜咲(さくら・さき)、26歳。外資系マーケティング会社で働く彼女は、弟妹の進学資金を貯めるため、夜は定食屋でバイトをしている。恋愛をする余裕はなく、「彼氏がいる」と嘘をついてきた。 そんな咲の前に現れたのが、エリート社員・結城颯真(ゆうき・そうま)、29歳。合理的で感情を見せない彼を、咲は「氷壁エリート」と呼んで敬遠していた。だが彼が定食屋に通い始めたことで、二人の距離は少しずつ近づいていく。

第1話 「彼氏がいるので、ごめんなさい」

「彼氏がいるので、ごめんなさい」

──まただ。また私は、嘘をついた。


 10月の夕陽が斜めに差し込む会議室で、私は静かに頭を下げた。

 黄色みを帯びた光が、木目のテーブルを柔らかく照らしている。その向こうで、同期の佐藤くんがバツの悪そうな笑みを浮かべて、頭をぽりぽりと掻いた。


「……うん、噂は聞いてたけどさ、誰も見たことないって言うし、もしかして……もう別れたのかなって」


 私は、使い慣れたオフィス用の笑みを貼り付けて、視線をそっと逸らす。


「うん、まあ……遠距離で」


 どこかで聞いたことのあるような、ありふれたテンプレの言葉。だけど、こんなふうにさらっと流しておくのが一番だ。波風は立たないし、面倒も起こらない。


 彼は気まずい笑みを浮かべて「変なこと言ってごめん」とだけ言って、すぐに会議室を後にした。


 ドアが閉まって部屋が静まり返る。私は小さく息をついて、窓の外に目をやった。


 空には、柔らかく混じり合う夕焼け雲。オレンジと灰色の境目が滲んだようにぼやけていて、それがなんだか、自分の気持ちの輪郭のなさに似ている気がした。


──本当は、彼氏なんていない。いたこともない。


 恋愛は、私にとって少し贅沢すぎる選択肢だ。そんなものに時間を割いている余裕なんて、ずっとなかった。


 でも、「彼氏がいる」という言葉は、告白を断る理由としてかなり優秀だった。

 大学時代、「彼氏はいないけど、誰とも付き合う気はない」と正直に言ったら、「じゃあ試しに俺と付き合ってみたら?」なんてしつこくされた。それから、私はずっとこうして身を守ってきた。


「彼氏がいるから、ごめん」とだけ言っておけば、告白した相手のプライドは守れるし、私も必要以上に干渉されずに済む。

 小さな嘘一つで、平和は保たれる。余計なことに煩わされず、自分のすべきことにだけ集中できる。


 大学の女友達には、本当のことを話していた。でもあるとき、私のことを好きだという男に、「あの子、彼氏がいるって嘘だよ。ワンチャンあるかもよ」なんてバラされたことがあって──

 それ以来、誰にも本当のことは話していない。一部の人を除いては。


* * *


「咲、あんたまた彼氏いるって言ったの?」


 オフィスラウンジでミルクたっぷりのラテを飲みながら、高橋たかはし美玲みれいが呆れたように笑う。

 彼女は会社の同期であって親友、そして、私のささやかな秘密を知る数少ないうちのひとりだ。


「あんたって磨けば可愛いのに、いつも地味な格好してるし……そのうちバレるよ。妄想彼氏だって」


「妄想じゃなくて、架空だから。ちゃんと設定もあるんだよ? 長野県出身、28歳、好きな食べ物はりんご」


「うわぁ、設定とか言い出したよ……。前より拗らせてるじゃん。アップデートされてるのが逆に怖いね」


 私は苦笑しつつ、エスプレッソマシンの「ブラック・ストロング」のボタンを押す。ついでに、横の棚からグラノーラバーを手に取った。

 ありがたや、外資のフリースナック制度。これ一本あれば、会社が終わってからの「夜の部」も乗り切れる。


「でもさ、咲って本当に何でもひとりで完結しちゃうよね。強いっていうか……もうちょっと人に頼ってもいいのに」


「誰かに頼って負担をかけるくらいなら、最初から自分で動いた方が早いし、確実だし……それに、菓子折りも用意しなくて済む」


 美玲は肩をすくめる。


「まあ、あんたのそういうところ、嫌いじゃないよ。でもね、26歳ってさ、世間では一番輝く時期とか言われる年齢でしょ? それなのに恋もせず、仕事と『夜の部』で一日が終わるって……ちょっと寂しくない?」


 私はグラノーラバーの包みを破き、ひと口かじった。ココナッツとアーモンドの優しい甘さが、嘘でちょっと減っていた心のゲージを回復させてくれる気がした。


「寂しくは、ないかな。お金も時間も、ほかに使わなきゃいけないことがあるし。それに、彼氏がいたことないから……正直、どういうものなのか、いまいちピンとこないんだよね」


 美玲が黙り込んだ。見ると、彼女は表情をゆるめて、少しだけ切なげな目で私を見ている。

 だから私は、努めて明るく笑った。


「それに、彼氏がいなくても、私には美玲がいてくれるしね」


「……なにそれ、口説いてる?」


 美玲は照れ隠しのように、私の肩をグーで小突いた。


* * *


 私が働いているのは、外資系マーケティング・ブランディング会社、エルネストMB。

 アメリカに本社を構え、世界中のブランドや企業の戦略設計やプロモーションを手がけるグローバル企業で、私が所属する日本支社も、毎日なかなか忙しい。


 仕事は「ハード」というより「タフ」。裁量が大きい分、成果への期待はシビアで、自由と責任は常に背中合わせだと感じている。

 それでも、残業は少ないし、制度も整っている。

 そして何より……お給料がいい。




 ラウンジからオフィスに戻ると、妙にそわそわとした空気が漂っていた。女子社員たちが数人、プリンタ横で浮ついた声を上げている。


「アメリカ本社でプロジェクト回してたんだって!」

「29歳でリードアナリストとか、普通じゃないって」

「しかも、超イケメンらしいよ。恋人とかいるのかな」


 そんな言葉が漏れ聞こえてくる。


「どうかしたの?」


 そう聞くと、後輩の白石しらいし杏奈あんなが目を輝かせて答えた。


「咲さん! 戦略企画部に、アメリカ本社からエースが来るんですって! それが、超イケメンの独身らしいんですよ。今、部長のオフィスにいて、もうすぐこっちにも挨拶に来るそうです!」


「そうなんだ。優秀な人が来てくれるのは、すごくありがたい」


「……って、イケメンのとこ、完全スルーですか?」


 杏奈ちゃんが口をとがらせる。私はちょっと笑って肩をすくめた。


「顔で仕事するわけじゃないしね。むしろ、変に騒がれて気の毒かも」


「さすがです、咲さんには長年お付き合いしてる素敵な彼氏がいますもんね。いいなぁ」


 私は笑顔で相槌を打ち、そのまま席に戻ろうとした──そのとき、課長の神崎かんざきさんに呼び止められた。


「桜くん。次のブランド再構築プロジェクトだけど、君にはサブで入ってもらうことになったよ」


 私は手慣れた調子で、感じのいい笑みを浮かべた。


「わかりました。メインは、どなたですか?」


「それはね……」と、神崎さんは視線をオフィスの入り口へと向け、ふいに手を上げた。

「あ、来た来た、結城くん、こっち」


 その瞬間、オフィスの空気がわずかに張り詰めた。


 スラリとした長身の男性が、迷いのない足取りでこちらへと歩いてくる。

 ついさっきまでのざわめきが、嘘のように消えていた。代わりに、すべての視線がその人に吸い寄せられていく。


 すっと通った鼻筋に、涼しげな目元。

 見る角度によって印象が変わる、整いすぎた横顔。

 そして──吸い込まれそうなほど澄んだ瞳に、どこか近寄りがたい凛とした雰囲気をまとっている。


──なるほど。社内がざわついていた理由が、ようやくわかった。


 彼は課長の隣に立つと、まっすぐに私に向き直った。


「今回の案件、桜さんと組むことになりました。結城ゆうき颯真そうまです。よろしくお願いします」


さくらさきです。よろしくお願いします……覚えやすい名前だねって、よく言われます」


 形式ばった笑みを浮かべながらそう言ったものの、彼の表情は一ミリも動かない。返事もなければ、愛想笑いすらない。

 懐かしのペッパーくんの方が、よっぽど表情豊かだ。


* * *


 これが、私と結城颯真さんの出会いだった。


 冷たそうだけど、優秀みたいだし、一緒に成果を出せれば、ボーナスだってちょっとは上がるかもしれない──そんなふうに、軽く思っていた。


 でも、今ならわかる。

 きっとあの瞬間から……私の知らない物語が、始まっていた。


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