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第2話 氷壁エリート

「プロジェクト概要の資料です」


 大きな窓のあるミーティングルーム。私はノートパソコンと資料を前に、静かに口を開いた。向かいに座るのは、今日からプロジェクトでペアを組むことになった相手──結城颯真。


「まず、A社との契約は来月頭が期限で、延長交渉の鍵がこのシミュレーション結果に……」

「要点だけで結構です。グラフは自分で読みますので」


 言葉を遮られ、息が詰まる。

 刺すような声ではなかったけれど、そこには一切の柔らかさがない。ミーティングルームの空気が一気に冷えたのを、私ははっきりと感じた。


 私、何か無駄なことでも言った? それとも──これが、この人の通常運転?

 気を取り直しながら、私はなんとか表情を整え、引きつらないようにお行儀のいい笑顔を浮かべる。


「……こちらが全体スケジュールのチャートです。進捗の管理はこちらで行いますので、随時ご確認をお願いできれば」

「はい」


 それだけで、会話は終わった。Siriと話す方が、絶対に会話が盛り上がる。

 これって……冷静を通り越して冷淡なのかも。


* * *


 彼がアメリカ本社から戻ってきたとき、社内はちょっとしたフィーバー状態だった。


 若くして本社に抜擢され、実績も文句なし。端正な顔立ちと洗練された身のこなし、ハイブランドをさらりと着こなすスタイル、そして独身──すべてが完璧なエリート、それが結城颯真……だった。


──だった、という過去形になるまでに、一週間かからなかった。


 徹底した合理主義者。

 仕事はスマートで完璧だけど、必要以上の会話ゼロで笑顔もゼロ。

 交流を目的としたコミュニケーションは皆無。

 話をしてもまるで温度が感じられない、というか、体感温度でいうと氷点下だ。

 当然、社内の誰もが、彼との接触をできるだけ避けるようになった。


 だけど……私は、人の噂は当てにならないことを知っている。

 だから最初は、偏見を持たずに接しようと決めていた。

 オフィス用の笑顔を常時装備して、できるだけフラットに──


「アメリカの朝食って、やっぱりボリュームがすごいんですか? 映画とか見ていると、いつも美味しそうで──」


「……それは、業務に関係がありますか?」


 帰ってきたのは、その一言だけ。

 了解、雑談NGね。じゃあ仕事の話でも。

 気を取り直して、私はもう一度トライした。


「この件に入る予定だった他のメンバー、どうやら海外案件が長引いてるみたいですね。どこまで動けるかわからないので、とりあえず私たちで進められる部分だけでも──」


「そうですか。では、担当のタスクだけ進めてください。僕は別件を処理します」


 ……壁だ、氷壁が見える。アルパイン装備を揃えても登れる気がしない。


 彼は、徹底的に壁を作っていた。

 どれだけ声をかけても、業務外の会話は即シャットアウト。

 むしろ、距離を詰めようとするほど、逆に遠ざかるような気がした。


 ……やっぱり私、苦手かもしれない、こういうタイプ。


 沈黙のなか、資料をめくる音だけがやけに大きく響く。

 わずかに肩を落としながら、私は内心つぶやいた。

 この人と、やっていけるのかな……。


 すり合わせをする内容は山ほどあるのに……空気が冷たすぎて、ミーティングの30分がやたらと長く感じられた。


* * *


「咲、大丈夫? 顔色、ちょっと悪いよ」


 永遠のような30分ミーティングをなんとか乗り切って、私はオフィスラウンジのテーブルに突っ伏していた。ちょうど同じタイミングで休憩に来た美玲が、そっと肩をさすってくれる。


「……大丈夫、そろそろ慣れてきたから」

「結城さん?」


 小さな声で問いかけられて、私は顔を覆ったまま頷いた。


「……私さ、いつも『世間の噂は当てにならない』って言ってるでしょ。だけど、今回はその信念が揺らぐ勢いなの」


 美玲は、わかるわかる、と頷きながら言葉を継いだ。


「部の子たちも言ってたよ。あの人がいるだけで空気がピリつくって。最初は、ペアになった咲が羨ましいって言ってたのに、今じゃ『咲は人身御供だね』って同情されてた。なんかもう、気の毒すぎて、咲を見かけるたびにお菓子を渡したくなるって」


──なるほど。最近、いろんな人からやたらと甘いものをもらう理由がわかった気がした。


「でもね、アメリカ行く前は、社内に彼女がいたらしいよ。広報部の美女って噂」


「ふぅん、昔はいい人だったのかもね。本社が彼を変えてしまったか」


 ふと、美玲の視線がラウンジのテレビに吸い寄せられた。


「あ、今日のゲスト、東條さんだ。やっぱダンディだよねぇ。背筋もピシッとしてて、とても50代には見えないなあ」


 画面には、白髪交じりの髪をきちんと整えた、知的な雰囲気を漂わせる紳士──東條とうじょう忠宏ただひろの姿。都市インフラ系大手であるメガサバーブ・ホールディングスの役員で、経済番組などにもたびたび登場する顔だ。


 私は立ち上がり、エスプレッソマシンのボタンを押した。豆が挽かれる軽快な音とともに、ふわっと香ばしい香りが立ちのぼる。私は目を閉じて、その香りを思い切り吸い込んだ。


 コーヒーが抽出されたころ、ラウンジのドアが静かに開いた。

──結城さんだった。


 視線が交差する。彼は軽く会釈し、私も同じように返した。

 もちろん、「お疲れさまです」なんて言葉はない。もし私がそう言えば、「その言葉が実際に疲労を軽減させるのですか?」とか返ってきそう。


 美玲も一瞬だけ彼に目を向けて、極めて形式的に「お疲れさまです」と言い、すぐにテレビに視線を戻した。


 テレビの中では、東條氏がインタビュアーをまっすぐ見つめながら、落ち着いた口調で語っていた。抑制されたジェスチャーすら、洗練されて見える。


「“Give even when you have little”──『少ししか持っていなくても与えよ』という言葉があります。余裕があるときに与えるのは簡単です。けれど、本当に大切なのは、余裕がないときに他者のために動けるかどうか。そこで人は試されるのだと、私は思っています」


「ほんと、すごい……。見た目も中身も完璧。『経済界の良心』って呼ばれるのも納得だよね。まさに人格者って感じ」


 美玲が感心したように言った。

 私はそれには答えず、小さくため息をついてから、時計に目をやる。


「そろそろ仕事に戻るね。今日は定時で上がらなきゃいけない日だから」


 言い終えるか終えないかのうちに、ラウンジのガラス戸が開いた。杏奈ちゃんだった。

 私の言葉が聞こえたらしく、目を輝かせて近づいてくる。


「咲さん、今日定時って……もしかして、遠距離の彼が来てるんですか?」


 まっすぐな眼差しに、ちくりと胸が痛む。私は視線を逸らして、曖昧に笑いながら言った。


「さあ、どうでしょう」


「いいなあ。大学のころからのお付き合いなんですよね? 噂で聞きました。私なんて、付き合った人数だけは増えていくのに、毎回半年も続かないんですよね」


 笑いながら話す杏奈ちゃんが、なんだか輝いて見えた。

 まっすぐで、素直で、恋することに少しも臆していない。


 ──そういうの、いいな。

 ほんの一瞬だけ、そんなふうに思ってしまった自分に戸惑う。


「……恋って、たぶん贅沢なものなんだと思う。時間も、お金も、心の余裕も必要で」


 つい、思ったことが口からこぼれた。杏奈ちゃんが首を傾げる。


「あれ? ……彼氏とは、順調なんですよね?」


「う、うん。もちろんだよ」


 慌てて答えると、杏奈ちゃんは笑顔でうなずいた。


「じゃあ咲さん、ずっと余裕あるってことですね。ますます羨ましい。私なんて、お給料入るとすぐデパート行っちゃうから、全然貯まらなくて」


 ふと顔を上げると、コーヒーを飲む結城さんと目が合った。

 表情一つ動かさないくせに、あの目は言ってた。「贅沢な恋愛をするのは勝手だけど、仕事に影響は出すなよ」って。


 まぁ、いいけどね。どう思われたって。


「戻るね」

 そう言って美玲と杏奈ちゃんに軽く手を振り、私は席に戻って仕事を片付ける。そして、定時ぴったりにオフィスを出た。


 電車と徒歩でおよそ30分。静かな住宅街の一角に、小さな暖簾がそよいでいる。

 定食屋「古美多こみだ」。木製の引き戸を開けると、出汁の香りがふわりと鼻先をくすぐった。


 さあ、「夜の部」も頑張るぞ。


「咲ちゃん、おつかれさま! 準備ができたら、お座敷のお客さんの注文お願いね」


 厨房の奥から、女将の京花きょうかさんが明るく声をかける。

 カウンターの常連さんたちも「おっ、咲ちゃん」と笑顔を向けてくれた。


 私はみんなに挨拶をしながら、慣れた手つきでエプロンとバンダナを身につけ、お座敷へと上がる。


 恋なんて、贅沢だ。

 だけど、今の生活もそんなに悪くない。

 毎日、忙しくて、楽しくて、ちょっとだけしんどくて。

 私がちゃんと笑っていられるなら、それだけで──充分だ。


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